月姫 万華鏡のしるべ[一]



 時刻はちょうど、0時を指している。辺りは静寂に包まれ、しっとりとした夜の調べを奏でていた。カチコチと規則正しく時を紡ぐ時計の針の渇いた音は、たまに煩く満月ミツキの耳を掠める。目の前に広がるプリントは散乱し、教科書や参考書と共に幾重かの山となっていた。重い瞼を何とかこじ開け、英語の構文を見つめる。果して本当に頭に入っているのかは分からないが、勉強せずにはいられない。一週間後にテストを控えているのだ。
 ホットコーヒーに手を伸ばし、満月はふと、目線を上げる。月のない夜だった。窓枠に切り取られた夜景は、どこか物寂しく、小さな星が自信なさげに自己主張している。
「熱っ」
 そっと口元に運んだはずの液体が、唇にぴしゃりと跳ねた。ひりひりするそこを舌でそっと舐めて、満月は再び目線をプリントに落とす。
 学校、行きたくないな。
 そうして、うとうととまどろみ始めた満月は、とうとう眠気に勝つことが出来ず、夢の中へと引きずり込まれていった。

 満月が通っているのは、学内でもそこそこ学力の高い高校だった。文武両道を掲げ、勉強も出来るのに部活動も盛んだというのが謳い文句で、活気に溢れているのがこの高校の特色だという。それに関して否定はしないが、満月は入学して数ヶ月経った今でも、どこかこの学校に馴染めずに居た。
「ねえ、満月」
 背後で響いた声に、満月は少しだけ身を固くする。同じクラスの友人だ。別に気負いする必要はないというのに。笑顔を塗って、振り返ると、予想通りのクラスメイトの女の子が少し言い辛そうにもじもじと手先を動かしていた。隣で、少し背の高い茶髪の女の子が横目でその子を窺っている。ああ来た、と満月は直感的に思った。
「な、なぁに?」
 唇の端を無理に上げて、満月は情けなく微笑んだ。それを合図に、女の子は両手を顔の前で合わせて一気に捲くし立てる。
「本当にごめん! 悪いんだけど、今日の掃除当番代わってくれない? 大会が近くってさぁ」
 上目遣いに満月を見やるその子の瞳には、きっとやってくれるだろうという過信が含まれていた。だから、満月はそれを裏切らないように、にこりと繕って、「うん」と了承する。そうすると、茶髪の女の子がその子と目を合わせて
「やっぱり黒川クロカワさんって優しいよね」と微笑むのだ。
 教室の端の掃除用具入れの扉を開いて、満月はそっと息を吐いた。今日もまた、「優しい」が塗られていく。別に、押し付けられている訳ではないし、いじめと形容されるような行為を受けている訳ではない。満月には断る手段がきちんと残されているのだ。だけれど、それを断れないのは、怖いからだ。嫌われてしまったらどうしよう。それが、満月の心から離れなかった。
 こんなにも臆病になったのは、中学生の時のある出来事がきっかけだった。恋という気持ちを知ったのはそれより随分と昔のことだったが、本当に人を好きになったのは中学一年生の夏が最初だった。どうしようもなく好きで苦しくてたまらない恋をした。
 好きになった人は、所謂モテる男子で、想いが通じるはずがなかった。勿論そのことは理解していた。それでも、彼が時折見せる笑顔がきらきらと輝いていて、気づけば彼を目で追っていた。後で彼が学年一可愛い女の子と付き合っていることを知った。けれど、諦めることは出来なかった。否、諦めるというより、好きでいることをやめると言った方が正しいだろう。振り向かせる気なんてさらさらなかったし、本気で、彼が幸せならばそれで良いと思っていた。ごくたまに会話が出来れば、それでその日は一日中どんなことがあっても笑顔で居られた。しかし、そんなある日の放課後の教室で、満月は彼の声を耳にしてしまった。
「ああ、あの黒川サン?」
 どくん、と胸が脈打つのを感じた。あの時の心臓の鼓動は、今でも忠実に思い出すことが出来る。
「困ってるんだよね。だってさあ、明らかに俺のこと好きじゃん? あそこまでされるとちょっとキモいっていうかさ。勿論俺はみき一筋だけどねー」
 瞬間、頭の中がぐちゃぐちゃになった。くらくらして、きちんと立つことが出来ない。思わず横にあった何かに手をつくと、それは大きな音を立てた。それは教室の扉だった。強化ガラスの向こうで、大きく開いた目が四つこちらを凝視している。彼らは居心地悪そうに明後日の方角に目をやった。それから間もなく、彼がこちらの方につかつかと歩いてきた。彼女は彼の背中に可愛らしく隠れている。それは、永遠のことのように思えたし、一瞬のことのようにも思えた。彼がこちらを向く。目は合わせない。頭を掻いてから、吐き捨てるように彼は言い放った。
「俺さ、黒川サンのこと何とも思ってないんだよね。だから付き纏わないでくれる? ほら、俺の彼女も傷ついちゃうんだよね」
 それから、満月はどうしたかよく覚えていない。ごめんと言ったのかもしれなかったし、何も言わずに駆け出してしまったかもしれなかった。
 付き纏っているつもりは毛頭なかった。今現在、客観的に考えても、付き纏うような行為はしていなかったと思う。あれはきっと、彼女が彼の気を引くために言い出したことに違いない。
 しかし、それを理解した今でも、自分の言動や行動がおかしいのではないかと不安でたまらなくなる。一言に気を遣いすぎて、ろくに喋ることが出来ない。いつも話しに乗り遅れて、結局口を出せずじまいとなってしまう。

 優しいわけじゃない。怖いだけなのに。

 満月は俯いて、窓の外を見つめた。明るい太陽は、今でも彼を想わせる。吹き込んできた風に埃が舞い上がり、満月のプリーツスカートがひらりと翻った。


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