月姫 万華鏡のしるべ[二]



「ただいま」
 誰も居ない暗い部屋に、小さな声はよく通って聞こえた。手探りで電気のスイッチを探して、二階へ通じる階段を上る。杉材で作られた上質な部屋に、ふかふかのベッドは小奇麗に収まっていた。
 満月の母は、満月がまだ幼い頃に病気で死んだ。
 聡明で優しい母だった。物心がついた頃には母はもう居なかったから、母との思い出なんて数えるほどしかない。しかし、その数少ない思い出の中で、母はいつも笑っていた。
 母が死んでそう日も経たないうちに、父の事業も忙しくなり始め、最近では父と殆ど顔を合わせていない。それでも、父は時間があれば大抵の家事はこなしてくれるし、三ヶ月に一回程度、満月と合う時間を仕事と仕事の合間に取ってくれる。そのためにどれだけ父が頭を悩ませてスケジュールと睨めっこしているか満月は知っている。だから、何か困っていることはないかと問われても、いつも笑顔である訳ないよと返してしまう。
 経済面でも黒川家は悩んだことがない。どちらかといえば、裕福な暮らしが出来ているのだと満月は思う。
 だからこそ、寂しさが拭えなかった。何か他に生活に問題があれば、ここまで寂しいという気持ちが際立つことはなかったかもしれない。
 セーラー服のスカーフに手をかけたが、ベランダに洗濯物が干してあるのを見つけて、そこまで歩いた。冬も深まり始め、靴下を介して冷温が直に足の裏に伝わる。少しだけ窓を開けると、その隙間から冷気がしゅるりと入り込んで、刺すように身体を締め付けた。それから、満月は諦めたように窓を開け放った。両腕で自らを抱きしめながら、こぢんまりと並べられたサンダルに足を通す。ここから見る夜空は格別だというのに、真白く洗われた布団や衣類が目の前を覆っていて、空が見えない。

 ――、め。

「え?」
 何かが聞こえたような気がした。辺りを見回してみるが、そこには乾いた洗濯物があるだけだ。父親は不在。きちんと戸締りはしたはずである。小さい頃から一人で留守を預かっていた満月は、そういうことには抜かりがなかった。木枯らしがひょおっと背筋を撫ぜた。
 怖い。
 満月は、ぶるりと身体を震わせて、サンダルを脱ぎ捨てた。急いで窓を閉めて、施錠をする。

 ――つきひめ。

 「何か」が、先程より大きく鮮明に聞こえた。それは、聴覚に響いた訳ではなかった。多分、満月の脳裏に直接語りかけてきている。妙に威圧感のある低い声だった。
 嫌だ。やめて。
 頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも何かの心霊現象か。一人の家で、今までそんなことは一度もなかったというのに。今になって心霊体験だなんてやめてほしい。
月姫ツキヒメ
 今度はちゃんと耳に届いた。先刻のそれより高い声だ。形容するならば、柔らかで歌うような安心感を与える声。幼い少年のような声音は、はっきりと満月を呼んでいる。「つきひめ」という単語の意味するものが何なのか全く分からなかったが、満月は直感的にそれを感じ取った。
「誰?」
 恐る恐る、姿の見えない相手に向かって問いかけた。
「ああごめんね。ねえ月姫、僕もそっちに行きたいんだ。悪いんだけど、ちょっとこれ退けてくれないかな」
 それはまるで親しい友人のように話しかけてくる。満月は少し迷ってから、意を決したように唇を固く結んで、声の発信源に近づいた。からからと窓が音を立てる。おっかなびっくりサンダルを履くが、中々足がはまらない。慌てて目を下に落として、満月は目を丸くした。
「!」
 風に吹かれて揺れる洗濯物とベランダの床との間に、白い毛むくじゃらの細い足が覗いていた。人間では、ないだろう。呆然として、満月は少し後退りをしたが、運悪くサッシに足を引っ掛けた。身体が後ろに傾いていく。意味はないことを知っていて、物干しに掛かっているバスタオルに手を伸ばした。
 どすん。鈍い音と共に、バスタオルが物干しからその身を滑らせる。
 そして、その先に現れたのは――白い兎だった。否、兎によく似たイキモノといった方が正しいだろう。長い耳も、白い体毛も、赤い瞳も、満月の母校の小学校で飼われていた兎と同じだった。しかし、その大きさも、歩行の仕方も、可愛がっていた兎の「ぴょんきち」とは全く違った。この白兎は、満月の身長と同じとまではいかないが、小学校高学年の少年ほどの背丈があった。それに、二本足で立っている。
「こんにちは、月姫」
 そういえば、白兎はまるで人間のように喋っているし、何故だか衣服も身につけていた。おまけに無様に転がっている満月に向かって、手まで差し出してくる。あまりに非日常的な光景が、当たり前のように広がっていた。満月はくらくらする頭を必死で回転させて、ついに震える指先で白兎の手を取った。

 果して、それが正しい選択だったのかなんて分からない。けれど、もう兎の手を取ってしまったのだ。後戻りは出来ない。それが、これから始まる長い長い夢物語の始まりに過ぎないだなんて、満月が知る由もなかった。


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