月姫 万華鏡のしるべ[三]



 ティーカップから立ち上る仄かな香りが、夢ではないのだと満月を諌めていた。
 家から逃げ出してしまうことも考えた。しかし、それはこの白兎の存在を否定してしまうことと等しいような気がして出来なかった。人間、誰しも存在を否定されてしまうことが一番辛くて苦しいのだ。勿論、この生き物は人間ではないのだけれど。
 満月はてきぱきとお茶の用意を済ませ、洋菓子を切り分けてから、白兎の前にぎこちなく座った。座っていてと声をかけたのにも関わらず、暫く満月が台所でせかせかと動くのを興味深げに見学していた白兎も、それに釣られるようにして、身体より二回りほど大きな椅子にちんまりと腰掛けた。
「月姫はきっと良いお嫁さんになるね」
 白兎は満月に視線を合わせると、微笑んでそう言った。無邪気な笑みだ。本当にそう思って言った言葉なのだろう。満月はまた警戒心が緩むのを感じて、いけないいけないと首を振った。
「あ、貴方は誰なの?」
 満月の問いに、白兎は思いっきり口を開ける。頬がぱんぱんになるまで洋菓子を詰め込んでいるため、白兎の口の中はぐっちゃりとした残骸が丸見えだった。白兎があたふたとよく噛んでもいないそれを飲み込むと、大きく喉が鳴った。満月は、そんなに急がなくても良いのにと思いながらも、白兎が紅茶を流し込むのを黙って見つめた。
「挨拶の基本は自己紹介って言い聞かされてたのに! ああもうごめんね、月姫。僕の名前は玉兎ギョクウ月神ツキガミ様の使いだよ」
 また訳の分からない言葉が飛び出した。満月は少し首を傾げながら、玉兎が早口で言い切った言葉をリピートする。
「つきがみ、さま?」
「そう、月神様。そして君は月姫。早く行かなくちゃ、お腹もいっぱいになったことだしね」
 玉兎はにこやかに笑って、満月の手を取った。だが、当の満月は何が何だか分からない。
「待って! 行くって……行くってどこへ?」
「決まってるじゃないか。僕らの国だよ。月と日が煌く国、輪国リンコクさ!」
 その瞬間、柔らかな光が満月を包んだ。小さな光の粒子にはどうやら温度があるようで、満月の冷えていた足先や指先を暖めた。それからすぐに、何かに引っ張られているような感覚が満月を襲った。
「う、嘘でしょ?」
 足の裏がフローリングの床から離れていた。もっと言えば、身体が浮いていた。助けを求めようとして、玉兎を見たが、彼も同じように宙に浮かんでいた。しかし、満月のように焦った様子は全くない。喋って二足歩行をする兎が実在するのだから、人間が空を飛んだっておかしくはないのかもしれない。けれど、それを素直に受け入れてしまえるほど満月は順応性に富んではいなかった。
「助けて!」
 悲痛な声がリビングに響き渡った。すると、玉兎が困ったように満月を上目遣いで見てきた。何だか申し訳ない気持ちになって、満月は声を詰まらせる。
「月姫、お願い。一緒に……一緒に僕らの国へ来て。きっと僕が君を守るから。君しか、月を、月神様を、輪国を救えない」
 その声は切なさと悲しさを含んでいた。玉兎の吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、涙が滲んでいる。訳が分からない、怖い。その気持ちが変化することはなかったが、こんなにも必死に縋る玉兎の頼みを無下に断ることなんて、満月には出来なかった。
「分かった。貴方の国に行く。でも私、何も持ってないの。何か持っていかなきゃいけないものってある?」
 決然とした口調。久し振りに、こんなにはっきり物を言った気がする。満月は少し嬉しくなって、胸を高鳴らせた。玉兎の顔は、喜びに満ち溢れている。こんなに素直に喜べるなんて良いな、と満月は小さく微笑んだ。こんな状況で笑うことの出来る自分はどうかしてしまったのかもしれない。けれど、何だか暖かなものが身体の中に流れていた。
「それじゃあ靴を。まあ、月神様に言えば何でも用意してもらえるだろうけど。でも月神様、素直じゃないからね」
 困ったような顔。だけれど、それには優しさが沢山詰まっていた。少しして、玄関に並べられていたはずのローファーが、ふわふわ浮遊しながらこちらに向かってやって来た。満月は目をぱちくりとさせたが、綺麗に足に収まったローファーを恐れたりはしなかった。
「さあ、月姫。僕の手を取って」
 玉兎に素直に応じると、引っ張り上げる力が更に強くなった。身体に纏わり付いた光は、満月の心を柔軟に感じ取っているのだろう。上昇するに連れて、身体に圧し掛かる力が強くなってきた。耐え切れず目を瞑ると、何かに吸い込まれるような不思議な感覚に引き込まれた。強く意識を持とうと奮闘したつもりだったが、黒い波に襲われて、ついに満月は意識を手放した。


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