月姫 万華鏡のしるべ[四]



「満月ってノリ悪いよね。冗談に決まってるじゃん。それくらい分かってよ」
 中学三年生の時だ。体育祭の後の打ち上げで、苦笑いでそう告げられた。常識的に考えて出来そうにない罰ゲームを必死で断った満月に向かうのは、呆れたような冷たい目だった。
 情けない話だ。中学二年生のあの日から、思いきり笑うということは殆どなくなった。人が苦手なわけじゃなかった。寧ろ、満月は人が好きだった。高校一年生になった今でも、嫌いと呼べる人間は居なかった。満月を罵り、突き放した彼でさえ、憎むことはおろか、愚痴を言うことさえこれまで一度もしていない。それは、一種の性質だった。人の利点を見つけ、それを掘り下げて見ることが出来る。それは、幼い頃、母に言い聞かされた「人の良いところを見なさい」が大きく影響している。だからこそ、満月は人から嫌われることを酷く恐れる。それなのに、上手く立ち回れないからよく傷つく。好意を持つ相手に嫌な目で見られたり、こそこそと耳打ちされると、泣きそうになる。胸の辺りが苦しくてたまらない。
 誰かを傷つけてしまわないようにという優しさと、誰かに嫌われてしまわないようにという脆さは紙一重だった。

 腰の辺りがじんじんと痛みだした。夢の世界の扉は閉じて、急速に覚醒に向かっていく。鼻腔をくすぐる甘い香りや、ざわめく音という音が、それを促しているような気がした。
「月姫、着いたよ。ほら起きて!」
 少年の声が、耳元で煩く鳴った。加減なく身体が揺すられている。そうして肢体が動くたびに、肌にざらざらとした感触が伝わった。電車の中でまどろんでしまったのだろうか。
「つーきーひーめー! 月神様、待たされるの嫌いなんだよ。人のことは平気で待たせるくせに」
 最後に紡がれた言葉は心なしか小さな声だった。どこかで聞いたことのあるような声と、よく分からない単語。少しずつ、眠りにつく前の記憶が戻ってくる。
 やっぱり、夢じゃなかったんだ。
 このまま素直に起きて、現実を見つめるのが怖かったが、いつまでも狸寝入りをしている訳にはいかない。満月は覚悟を決めて目を見開いた。
 どうやら、人々が闊歩する大通りのど真ん中に横たわっていたようだ。満月の前で、足がいくつもあちらこちらに向かっていた。恥ずかしさで顔が火照る。めくれ上がったスカートを急いで直しながら、上体を起こした。腰が痛む。こちらの国に来る途中でどこかにぶつけたのかもしれない。腰を擦りつつ、鼻先のブーツに目をやった。ゆっくりと、ブーツの主の爪先からふくらはぎに目線を動かして、満月はそのままの体勢で固まった。
 座り込んだ満月を、碧の瞳が見下ろしていた。口元からはひげが生え、尖った耳はピンと立っている。背後でにょろにょろと動いているのは尻尾だろう。すらりとした長身の黒猫は、満月の唖然とした面持ちに気づいたのか、足早に視界から去っていった。何か見てはいけないものを見てしまったような、そんな表情を満月の脳裏に焼き付けて。
 固まったまま首だけを横に動かすと、次に飛び込んできたのは鶴が大声で「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 奥さん今日は鍋に限るわよ! 白菜、豆腐、しいたけにもう一つおまけして、獲れたて新鮮なたらの切り身! 今日はどーんとお買い得! いつもの半分のお値段よ!」と客寄せをしているところだった。何で鶴が喋ってしかも商売をしているの、なんて聞くのは野暮な気がして、また少し視界をスライドさせる。今度は大道芸で観客を沸かせる猿たちとその舞台に向かって大判小判を投げる動物たちの姿が目に映ったが、どこからか視線を感じてそちらの方を振り向いた。
「にん、げん?」
 すぐにそれは人込みに紛れてどこかへ消えてしまった。茶色っぽい毛髪が見えたのは気のせいだろうか。
「月姫! ほらほら行くよ! 町を見物したいなら後で案内してあげるから。今は月神様に会いに行かなきゃ!」
 玉兎は陽気に笑った。兎の表情はくるくると変化する。しかし、そのどれもが嬉しそうで楽しそうで、満月は小さな眩しさを覚えた。思わず唇の端が上がってしまう。
「だから、月神様って誰なの?」
「お会いすれば分かるよ。でも、あえて言うなら」
 軽い足取りで満月の数歩前を歩いていた玉兎が、ふわりと穏やかな表情で振り返る。
「優しい人だよ、月姫。笑顔は惚れちゃうくらい格好良い」

 がやがやとした商店街を抜けて、畦道を駈ける頃には、黒のローファーには沢山の泥の斑点が出来ていた。吹き抜ける風は、草や土の匂いを巻き込んでいる。その田舎臭さがどこか気持ち良い。稲穂が黄金色に輝き、それを啄ばむ雀達は空中を可憐に舞った。それだけに着眼すれば、普通の光景だ。しかし、雀たちはこれまた当然のようにお喋りをしているし、遠くの山には緑が青々と茂っていたが、すぐ近くの山には桜が爛漫と咲き誇っていた。
 この国には季節という概念がないらしい。
 少し怪しげな暗い道に差し掛かって、満月は眉間に皺を寄せた。辺りは鬱蒼とした竹林に覆われ、太陽が見えない。何か出そうな雰囲気だ。玉兎が
「狐たちの住処だよ。この先を真っ直ぐ行くとね、お宿があるんだ。僕もたまに遊びに行くんだよ」と説明してくれたが、満月たちがその先を真っ直ぐに行くことはなかった。
 急ぎ足で竹やぶを縫い、石畳の敷かれた厳かな道に出る。視界が開けたが、光は朧だ。太陽を探そうと、上空を見上げた時だった。
「何、あれ……」
 空に浮かんでいたのは、太陽ではなかった。
 どす黒い何かが、空にあった。星屑のように小さなその塊は、歪な形をしている。息をのんでそれを見つめる満月に、玉兎は悲痛な笑みを向けた。それは、あまりにも哀しく、痛々しかった。
「月だよ。今はちょっと元気がないんだけどね」
「……月」
 満月は、輪の月を知らない。けれど、動物が喋っていたり、服を着ていたり、人間のように生活していることとは全く違うような気がした。
 何で、こんなに哀しそうなんだろう。寂しそうなんだろう。
 何故だか分からない。気がつけば、瞳を熱いものが濡らしていた。
「月姫が、月姫で良かった」
 隣で、玉兎が不可思議なことをぽつりと呟いた。
「行こう。月神様、きっと待ちくたびれちゃってる」


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