月姫 万華鏡のしるべ[五]



 凛然と構える朱の社から続く石段は、容赦なく満月の体力を奪っていった。汗が滲み出る。足はもう、棒のようになっていた。
 月神様っていうんだから、神様なんだろうけど。
 それならば、そこまで辿り着くのが困難なのは、少しばかり納得できる。
「月姫、あとちょっとだよ。頑張って」
 励ましてくれる玉兎が居なかったら、ここまで頑張れなかったかもしれない。それほど、地上から月神様とやらへの道のりは遠かった。
 ようやく、右足が頂上の地を踏みしめた。振り返っても見てみても、あるのは永遠に続くような白い石段だけで、遥か下方の地面も笹やぶも捉えることが出来なかった。なんて高いところまで来てしまったのかと、満月はぎょっとした。元々、高いところはあまり得意ではない。悪夢を振り切るように、無意味な反動をつけて、満月は再び前を向いた。
「うわぁ……」
 感嘆の声が漏れた。
 石段を上りきったその先からは、飛び石が続いていた。その飛び石の周りには、まるで砂浜のように、美しく光り輝く白砂が敷かれている。神聖であるということを示すのに、その場所はあまりにも長けていた。音は何も聞こえない。ただただ閑寂がそこにあった。
 飛び石を渡っていくと、小さな祠が祀られていた。社と同じ深い朱色をしている。満月がしげしげとそれを眺めていると、玉兎が静かに跪いて、真剣な眼差しで「玉兎です。只今戻りました」と言った。あまり大きな声ではなかったが、はっきりとした口調だった。
 それと同時に、祠から微弱だが、黄色い光が漏れる。
 あの時と同じ?
 輪国へ来た時と同じ、柔らかな光だった。その温度の心地よさは格別で、気のせいか、身体の疲労感が取れていくのを感じた。
「月姫。あのね。本当に、月神様は優しくて笑顔がとっても素敵な方なんだよ。だから――」
 玉兎が言い終わるより、意識が再び暗闇に溶け込む方がいくらか早く、その言葉の続きを聞くことは叶わなかった。

 芳しい香りが、空間を漂っていた。
 赤々と燃える蝋燭の火の影が、ちらちらと薄気味悪く揺れ、竪琴の音色が艶やかに響き渡る。優美で風韻に富んだ平安を思わせる神殿の中で、満月は浅い息を立てて眠っていた。
「月姫、起きて。起きてってば」
 玉兎の声に応えるように、満月がはっと目を覚ます。それから、辺りを見回して、助けを求めるように玉兎の瞳を食い入るように見つめた。
「月神様の御前だよ。しゃきっとして。失礼のないようにね」
 背中を押されて、躓きそうになる。張り詰めた空気の中、満月の存在はどこか異質だった。
 怖い。
 震える指先をぎゅっと包んだが、一向に震えは止まらない。一歩前に進み出て、満月は息を潜めた。
 テレビや映画の中でしか見たことのない御帳台は、深窓の佳人が中に居るのではないかと錯覚させる。
 この中に、「神様」が居る?
 胸がどくんどくんと脈打つ。優しくて、笑顔がとても素敵で、惚れちゃうくらい格好良い人。そんな人が神様だなんて驚きだ。恐怖心に、少しの期待が紛れる。
「玉兎。こいつか? この使えなさそうな小娘が月姫なのか?」
 低い声だった。どこかで、耳にしたことがある。あれは、どこでだっただろう。高圧的で、不快感を顕にした声色は、満月を竦ませるのに十分すぎるほどだった。
 期待は、あまりにも見事に裏切られた。
 どこが、優しいの。
 しかし、満月にはそんなことを言える勇気は備わっていない。
「はい。月神様。でもこの月姫は」
「お前の意見は聞いてない」
 月神の言葉を聞くと、玉兎はしゅんと項垂れた。いくら神の使いといったって、彼は多分、多めに見てもまだ十三歳くらいだろう。月神のあまりの言い様に、満月は少しだけ眼光を鋭くした。
「小娘が、何をいい気になっている」
 月神はどうやら満月の小さな変化に気づいたようだった。人を見下して、鼻で笑うような神もそうそう居ないだろう。
 でも、初対面なのに。何で。
 疑問はすぐに腹の底に落ちて行った。些細なことをいつまでも気にしていられる状況ではなかった。
「月神様。それでも、月姫はこの人だけです。だって感じるでしょう?」
 玉兎の問いかけに、月神は至極、嫌そうに目を細めた。
「引力、か」
 苦々しげに、月神は吐き捨てた。それから、月神は無駄のない滑らかな動きでベッドから降りる。
 薄明かりの中で、月神の漆黒の髪が艶めいた。ゆったりとこちらに向き直った月神と視線がかち合う。毛髪と同じ、漆黒の瞳は、満月のそれと同じだった。吸い込まれそうなほど深く透き通った瞳は、人形技師が精巧に精巧を重ねて作った光彩を放つ眼と、勝るにも劣らない美しさを誇っている。眉頭から通った鼻筋は、まるで西洋人のようだった。一言で言うならば、精悍な顔つきというのが一番的を射ているだろう。幾重にも折り重なる豪華な着物を着ているため、断定は出来ないのだが、引き締まった身体をしていそうだ。
 格好良い、はあながち嘘ではないのかもしれない。しかし、月神が笑うとは到底思えなかった。そんなことは天地が引っ繰り返ってもあるはずがないという確信めいた何かを、月神に出会って数分足らずの満月は感じていた。
「俺だって、お前みたいな小娘に、月の命運を託したくはない」
 月神が凄むようにして満月に近づいた。何かに引っ張られるような感覚に陥る。
「月神様!」
 玉兎の宥める声に、月神は深く息を吸って、そしてそれを吐いた。
「……悪かった。こむす――否、月姫。お前も感じるだろ。俺たちを引き寄せる引力を」
「いん、りょく?」
 満月は訝しげに首を傾げる。それから握りこぶしを更にぎゅっと握り締めて、月神に歩み寄った。
「それって……この、引っ張られるような感覚のこと? ですか?」
 初めて黄色い光を浴びた時から感じていた、不可思議な力。それの正体が、引力だと月神は言う。しかも、俺たち、つまりは月神と満月を引き寄せている力なのだと。
「そうだ。月神と月姫ってのは、昔から引力で引き寄せられ合う関係にある。月がお前を選んだんだ。俺たちに拒否権はない」
 月神は訳が分からない話を、勝手に推し進める。
「そんな……何で私が?」
 嫌だと声が訴える。しかし、それは取り合ってはもらえないようだった。月神の鋭い視線が、満月を捉えて放さない。
「だから、月が選んだ。お前をだ。月の欠片を集めてこい。それが月姫、お前の使命だ」
 月神の言葉には、苛立ちの他に、何か違うものが含まれていた。
 訳が、分からなかった。もっとちゃんと説明して欲しい。
 知らない国に突然連れて来られて、服を着た兎が喋っていて。鶴は食べ物の大安売りなんかしちゃって、一丁前に人間を気取っている。神様は強引だし、全然優しくなんかない。
 寧ろ、説明なんて要らない。元の世界に、家に帰して欲しい。
「私……私、月姫なんかじゃない! 何も出来ないただの高校生よ」
 涙を浮かべて、そう啖呵を切った。
 それと同時に、月神の綺麗な瞳が、僅かに歪んだ。玉兎の心配そうに揺れる瞳とは、絶対に目を合わせられなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、どうして良いかわからない。芽吹いてしまった罪悪感も、消すことが出来なかった。
 俯いて、唇を強く噛み締める。それは、鉄錆の味がした。
「惑うな」
 月神の姿が、眼前にあった。満月の身体は大きく反応して一歩後退する。けれど、月神の低い声は、耳に溶けるように入り込み、満月の中に甘美な余韻を残した。
「月を、輪を救えるのは……お前しか居ない」
 月神の瞳が、玉兎と同じ光を宿した。
 あまりにも痛くて、あまりにも哀しい。
「月姫――」
 こくり。気づいた時には、満月は小さく首を縦に振っていた。


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