月姫 万華鏡のしるべ[六]



 欠伸を噛み殺して、真っ白い帳台から身を起こした。日の出の時は疾うに過ぎているはずなのに、黎明の光はいつまで経っても差し込んで来ない。妙に馬鹿でかい窓が、朝の陽をまだかまだかと待ちわびていた。
 練香の高貴を思わせる香りは、昨日と比べれば、大分満月の鼻に馴染んできた。朝の清々しい空気とは言い難いが、思いのほか、寝覚めはすっきりとしている。
 昨夜、月神との接見を終えた満月は、玉兎によって真っ先にこの部屋に通された。部屋の内部は、緻密に計算し尽くされた構造をしていて、配置された家具や小物類に至るまで最高峰の質を誇っていた。帳台の脇に置かれた愛らしい黒い兎の人形や、箪笥の中に並ぶ少女趣味な服の数々から察するに、ただの客室というわけではないのかもしれない。驚いたことに、リボンやレースのついた洋服が和服の中に紛れていた。
 疲れただろうから今日はもう休んでねという玉兎の気遣いにより、満月は結局、風呂に入れずじまいとなってしまった。そんなことを気にするほどの余裕がなかったのは事実だが、やはり、少し身体の臭いが気になってしまう。
 部屋の中に設置された姿見は、これまた値の張りそうな代物であったが、華美なものではなかった。写る者を引き立たせる術を知るその鏡は、相当の年季が入っているようだった。セーラー服の袖に腕を通して、スカートの長さを調整する。満月は鏡の前で、全身を一通りチェックし終わると、少しだけはにかんで見せた。それは、ぎこちない歪な笑みだったが、満月に出来る最大限の意志の表れだった。

「月姫、朝ご飯の準備出来たよ。開けて良い?」
「うん。大丈夫」
 帳台に脱ぎ捨てた浴衣を急いで折りたたむ。和服は着ている人を見るのは好きだけれど、いざ自分で着てみると、どこか違和感を感じてしまう。やっぱり制服が一番着心地が良い。
「あれ? 月姫、箪笥の中見た? 凄い綺麗な着物、いっぱいあるんだよ。着てみれば良いのに」
「私には、あんな綺麗なもの勿体無いよ」
 苦笑で応じると、玉兎が不思議そうにこちらを覗き込んできた。玉兎の瞳はまるで紅玉のように美しい。その輝きは、褪せることも濁ることも知らずに、この先ずっとあり続けるのかもしれないと満月は思った。
「君は月姫なんだから。似合わないわけないよ」
 玉兎の言葉には、妙な確信が含まれている。それが当然であるかのように、玉兎はさらりと言ってのけた。
「どうして?」
「どうしてって、君が月姫だからだよ」
「月姫って……何なの? どうして貴方も月神……様も、私を月姫だと思うの?」
 玉兎と出会ってから、満月は月姫と呼ばれ続けている。
 月に選ばれたって、そんなこと言われても訳が分からない。だって、私はただの高校生なのに。
「月姫でいるのが不満?」
 玉兎は満月の出す答えを知っているかのような声色で聞いた。
 不満じゃ、ない。求められるって凄く嬉しい。
「ううん」
 そう呟くと、玉兎は優しい笑顔を見せた。
「あのね、月姫は月の愛娘なんだよ。家族のことって、やっぱり、どんなことがあっても大切でしょ? だからそれと同じで、月姫も月を大切に思うんだ」
 月姫、月を見て泣いてくれたでしょ? 玉兎が嬉しそうに口にして、それから朝食を机の上に置いた。高級旅館で持て成されるもののように、彩りは鮮やかで、栄養のありそうな食材が所狭しと並んでいる。
 いまいち、よく分からない。
 玉兎の出す解答はいつだって遠回しだ。
 椅子に腰掛け、味噌汁をすすると、懐かしい味がした。
「あともう一つ聞きたいんだけど、月の欠片って何?」
 満月の問いに、玉兎は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「うん! 月の欠片っていうのはね、砕けてしまった月のことなんだけど。それを全部集めるのが、当分の月姫のお仕事かな」
「それって大変?」
 おずおずと尋ねて、茶碗蒸しの蓋を開けた。食べながら喋るって不謹慎かなと思いつつ、箸の動きは一向に止まらない。
 だって、こんなにおいしいもの、滅多に食べられない。
 海老が口の中でぷるんと弾けた。思わず頬が緩む。
「月姫、笑った」
 隣で、玉兎の満足そうな声がした。何のことか分からず、満月は不思議そうに口をぽかんと開けてしまう。少し間抜けだ。
「月姫、全然笑ってくれないんだもん。僕、ずっと心配だったんだよ」
 あ――。
 満月は少し申し訳なさそうに肩を縮めた。この月神の使いは、どこまでも満月を気遣ってくれる。どうして玉兎は、と問い掛けた言葉を飲み込んで、満月は再び味噌汁をすすった。
 だって、玉兎はきっと、「君が月姫だからだよ」と言って笑うだろうから。
 ちなみに、月の欠片を集めることは大変じゃないらしい。理由は同じく、「君が月姫だから」。

 仕度を済ませて、最後に部屋を振り返った。玉兎に何度も着物着てみれば? と提案されたが、あんな綺麗なものを汚してしまうのは些か心苦しかったので、丁重に断った。でも、少し着てみたいような気もしてきて、今度着させてね、と茶目っ気たっぷりに要望を出すことも忘れない。玉兎とは知り合って間もないが、会話をすることに何の躊躇もなかった。こんなに素直な自分が居ることに満月は驚きながら、そのことを心から喜んだ。
 神殿を出る前に、月神様にご挨拶をして行くという玉兎の言葉は、満月をまたも緊張の渦に放り込むのに、効果覿面だった。玉兎が主の部屋をノックするのを、満月はスカートの裾を握り締め、息を殺して待った。
「お早う御座います。玉兎です」
 月神からの返答はない。扉の取っ手に手をかけた玉兎に、「良いの?」と囁くと「お返事がないのはいつものことなんだ」と返ってきた。
 月神の寝所は、満月が一夜を過ごした部屋よりもきつい香りで充満していた。
 昨日の匂いと一緒だ。
 気づいて、満月はそこが昨日訪れた部屋であったことを思い出した。広間のように広々としたそこは、神の間と月神の私室の両方を兼ねていたらしい。
「月神様、今から出発しますけど、良いですか?」
 御帳台に向かって、玉兎がそう投げ掛けた。
 何て偉そうで失礼な人なんだろうと満月は下りた御簾の向こうに目を凝らす。しかし、蝋燭の小さな明かりは月神まで届かないのか、彼の姿は全く確認できなかった。
「ああ。玉兎、分かっているな」
 ぼんわりと広がった声に、すかさず玉兎が口を開く。
「はい。出来るだけ早くに」
「出来なくても早く、だ」
 意味を量りかねる閑話は、満月の頭を混乱させた。月神は一向に姿を見せない。
「身の回りのお世話は本当に要りませんか? 侍女たちの用意は万全ですよ」
「必要ない」
 即座に答えた月神の視線が、こちらに向いたような気がして、満月の身体はびくりと跳ね上がった。しかし、負けじと満月は、月神が横たわっているであろう御帳台を向いて、固く結んでいた唇を解いた。
「きっと……きっと、月の欠片を全て集めてきます」
 声は震えていたが、力強く響いた。それを玉兎が安らかに微笑んで見つめる。月神に支配されていた空気が僅かにぶれたような気がした。


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