月姫 万華鏡のしるべ[七]



 ひっそりとした洋館の上に曇天が広がっていた。風は湿り気を孕み、烏たちの囁き声が不気味に響き合っている。木々に絡みついた蔓はじっとりと濡れ、空から薄い光を浴びては、怪しく光った。
 一歩進むごとに、猫じゃらしが足をくすぐる気持ちの悪い感覚が満月を襲う。耐え切れなくなって、身を捩じらせるが、それは何の役にも立たなかった。
 ドラキュラが出てきそう。
 その館の第一印象は、何の躊躇いもなく、満月の中ではっきりと定められた。決して、蝙蝠が飛んでいた訳ではない。
「ねこばあの占いの館だよ」
 占いの館。満月は確かめるように、そう続けた。満月は、占い師に告げられる言葉を鵜呑みにするような人間ではなかったが、興味がない訳でもなかった。テレビや雑誌に、よく当たると評判の占い師がちらりとでも出てくれば、自分の生年月日と照らし合わせてしまう。毎朝の情報番組で血液型や星座がランキングで表示されれば、少し嬉しくなったり、落ち込んだりする。だが、実際に占い師に面と向かって、将来や恋愛について諭されたことは一度もなかった。
「月姫も見てもらう?」
 玉兎がおどけたように満月を向いた。満月もつられて笑顔を見せたが、すぐに表情を固くして寂れた館を振り仰いだ。
「ううん、遠慮しておく」
「ふうん。何で? ねこばあの占いはまやかしなんかじゃないよ」
 くるくると変わる玉兎の顔を見ているのは、とても楽しい。
「ドラキュラに血を吸われたら嫌だし……自分の気持ちに整理がついていないのに、人の意見を聞いたらもっと迷っちゃいそうだから」
 ドラキュラって何、という玉兎の疑問に上手く答えられず、満月は苦笑した。明確な答えを出せずに唸っていると、玉兎はもうその話題に飽きたのか、
「占いは迷いを解いて、道を切り開くためにあるんだよ」と満月の唸り声に口を挟んだ。まだ幼い癖に、中々深いことを言う玉兎に面食らう。
「それじゃあ、もしも機会に恵まれたら。聞いて、みようかな」
 気まぐれな小さな声を巻き込んだ木枯らしが、吹き荒んで館の戸を叩いた。長い年月を掛けてこびり付いた塵埃は、大掃除の一回二回でどうにかなるようなものではなかった。至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされ、上質な素材ばかりを掻き集めて作られたのであろう、その館の塗装は、所々が剥げていた。汚れと蜘蛛の巣を取っ払って、塗料を塗り直した洋館の姿を想像する。当時は、大きな反響を呼んだのだろうかと、満月は目の前のドラキュラ屋敷を眺め、ぼんやりと思った。かつて、洋館の周りには美しい華が咲き、色鮮やかな蝶が舞い踊っていたのかもしれない。或いは、館を訪れる人々の期待と不安で、館の周囲は賑わっていたのかもしれない。今ではその栄光は見る影もないが、それを想像するのは、不思議と困難なことではなかった。
 キィ――玲瓏な音が、考えに耽っていた満月の耳に飛び込んできた。ごくんと喉が鳴る。そっと音のした方へ視線を走らせてみると、永遠に開くことなんてないのではないかと気取っていた館の扉が、微かに開いていた。
 出来るだけ音を立てないように、首から上以外を硬直させて、満月は玉兎を見た。さぞ怖がっているだろうと、心を痛めて彼を見たはずの満月だったが、肝心の玉兎はけろりとしていた。思わず、日本の芸人風に突っ込みを入れたくなったが、場の雰囲気を壊しそうだったので、それは控える。
「うん。ねこばあ、多分歓迎してくれてる!」
 玉兎は言い切ってから、自分自身を納得させるようにうんうん、と大きく頷いた。その様子に、満月は青ざめていた顔をもっと青くして、やっとのことで絶対に肯定されたくない疑いを吐き出した。
「もしかして、目的地って……こ」
「うん、ここだよ」
 言い終わるよりも早く、玉兎の陽気な声が響いた。

 玄関から続く緋色の絨毯は、沢山の埃を被っていた。だが、決して安価なものではないということが、足の裏を介して伝わってくる。その下の床はかび臭い大理石で敷き詰められていて、鼻の中をツンとした嫌な臭いが刺激した。多数の蝋燭からなるシャンデリアには、蜘蛛の巣や埃や虫の死骸がごちゃ混ぜになってくっついていて、満月は顔を顰めて、それから視線を外した。壁に飾られた絵画は、虫食いと埃によって、よくは見えないが、人の顔を描いたものに違いなかった。ゆっくりと輪郭をなぞるが、唯一分かったのは、それが女であるということだけだ。また視線をずらして、今度は獅子を象った石像を見つめる。
 映画に出てくるお城みたい。
 しかし、沈黙の館は、その壮麗な姿を誇示する訳でもなく、ただただそこにあった。
「何か……とっても寂しそう」
 気がついたら、そう呟いていた。
「でももう大丈夫だよ」
 一呼吸置いて、彼の声が聞こえた。それと同時に、冷え切っていた部屋の温度が、少しだけ上昇したような錯覚に陥った。玉兎の声も笑顔も、全てのものに安らぎを与える。勿論、満月も例外ではない。
「どうして?」
「月姫が来たからだよ」
 理解して、満月は困ったように眉根を下げた。
 私、そんな凄い人間じゃないのに。
 そういえば、月姫というものが結局何なのか、詳しく聞いていない。月の愛娘と言われても、いまいちピンとこない。満月はきちんと人間の両親が居た。月の欠片を集める役目を負っているのか。それとも月を救う救世主のようなものなのか。でも、それなら、姫より神の方が適役なのではないのだろうか。
 特別な力だって何もない。
 尋ねても、今まで曖昧な言葉ではぐらかされていた気がする。けれど、今、また同じ問いを繰り返しても、巧い言葉で切り抜けられてしまう気がして、満月がそれを口にすることはなかった。
 分からないことだらけで、不安は募る一方で。けれど、たった一人の信頼が、何物にも代えがたい生きる希望となっている。知らない世界で生き抜いていくことは、現実世界で必要なものを与えられて、ぬくぬくと暮らしていくことより、ずっと苦しいものになるだろう。それでも、学校で感じていた息苦しい心地は、今はもう、殆ど感じない。羽を伸ばした感覚とはこういうことを言うのだと思う。
 私を、月姫だと信じて疑わない人が居る。砕けてしまった月がある。
 ならば、帰るまでは精一杯、「月姫」として生きていこう。勿論、帰れるかなんて、分からないのだけれど。
 それに。
「あの神様、ちょっと気に食わない」
 第一印象は最悪だったうえ、子どもに対しての態度があまりにも横暴すぎる。月神の言うとおり、満月はただの「小娘」だったが、一日中寝転がってるような神様に、散々な言葉を言われっ放しなのは納得出来なかった。
「何か言った?」
「ううん。何でもない」

 大扉は、館の最初のそれと同じく勝手に開いた。不信感を顕にしながら歩みを進める満月に対して、玉兎の歩調は至って軽快だ。
「――来たね」
 消え入りそうな声だった。声の主を探すが、中々それらしき人物は見当たらない。腕や足の捻じ曲がった焦点の定まらない人形、蜥蜴の骸、獣の噛み跡が生々しいサイコロ。床に無造作に丸まった女物のドレスはどす黒く染まっている。その横にベールがあることを確認して、満月は初めてそのドレスが、ウェディングドレスだったことに気づいた。
 不気味……。
 目を逸らすと、幾重にも折り重なった布が飛び込んできた。怪しげな光沢が、満月たちを手招くように揺らめいている。
「五四六七二秒前から、あんたたちがやってくるのを感じてたよ」
 しわがれた声は、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
「水晶が告げたのさ」
 布の森を掻き分け、満月はそっと顔を上げる。その奥で、微動だにせずに腰掛けていた縞模様の猫の老婆は、満月と玉兎を蒼い瞳に認めると、にやりと笑ってそう漏らした。


BACK | TOP | NEXT