月姫 万華鏡のしるべ[八]



「おや。あんた……やけに晴れ晴れとした顔をしているね。もう悩みは消えちまったのかい?」
 老婆は、満月が席に着くなり、そう言葉を投げ掛けた。薄気味悪く口角をつり上げるその様は、どこか異様だ。老婆と猫とはいかんせん結びつかなかった。満月の中で猫という動物は、太陽の下で日向ぼっこをするような愛らしさを備えていた。しかし、この老婆に愛らしいという表現は全く当てはまらない。老齢だけが理由でなかった。否、年齢云々の問題ではない。彼女は、外見が雰囲気が、纏うもの全てが、浮世離れしていた。薄汚れているものの、目を奪うような異彩を放つ衣。誘惑するように左右に揺れる尻尾、ぴんと張ったひげ。瞳の色は淀んでいたが、その中で爛々と燃える炎は、ちょっとやそっとのことでは全く揺るがない強い精神力に満ち溢れていた。
「もうって……あの。貴女は私を知っているんですか?」
 満月は狼狽した。初対面の相手に、感情の起伏を言い当てられては、動揺するのは当たり前だ。馬鹿みたいに、スキップしながら笑顔で駈けて来たのなら別だが、満月は至って真面目な表情で、しかも不信感を募らせながらやって来たのだ。
「知っているとも。ばあに知らぬことがあると、本気で思うかい? 月姫。それから玉兎、あんたは賢い子だね。あんたの選択は、正しいよ……多分ね。ただ、等価がいる。分かるね?」
 ねこばあの諭旨は、玉兎によって理解されたようだった。どちらも、含みのある表情をしている。首を捻った満月に、説明はなされない。満月はむっとして、玉兎に目を据えた。
「うん、だから来たんだよ。ねえ、ねこばあ……何を望む?」
 上手く満月の視線をかわして、玉兎は感慨深げに問い掛けた。幼さが際立った無邪気な笑みの中に、小悪魔的な眼差しがあった。玉兎の意図は掴めない。
「そうだねぇ……ねこばあの占いの館の栄華の時代を。もしも再び築くことが出来たのなら。その時は考えてやっても良いかもねぇ」
 物悲しい自嘲気味な微笑は、満月を一瞥すると挑戦的に歪んだ。

 夜も更けてきたという理由で、月の欠片を集めるという仕事に取り掛かるのは、翌日に先延ばしとなった。満月があてがわれた洋館の端のほうにある一室は、当然の如く蜘蛛の巣が張り巡らされていた。しかしそれでも、他の部屋よりは幾分か清潔な感じがした。多分、大量に降り積もった埃が、箒か何かで掃除されていたためだろう。勿論、満月の住んでいた家よりは数十倍汚く、掃除といっても申し訳程度に過ぎない。
 栄華の時代を築くって言ったって……。
 誰もがそんな簡単に栄華の時代を築けてしまったら、そもそも貧しく不幸な生活を送る生き物なんて居ないだろう。一度、寂れてしまったものに活気を取り戻させることがどんなに困難か、満月は知っていた。それが月の欠片との交換条件だということは、欠片は相当な価値を持っているのか。しかし、これまでの玉兎の話や、ねこばあの態度から臆断するに、ねこばあ自身が欠片に依存しているという訳でもないというのが満月の見解だった。
 試されている?
 心の中で蟠っていた疑問を解放すると、そのよく分からない感情は、自分でも驚くほど満月の頭を納得させた。
 どうして……?
 満月はそっとベッドに腰掛けた。しかし、気をつけたにもかかわらず、埃は舞い上がり満月の喉を痛めた。咳の音が、一人の部屋にやけに大きく聞こえた。
 他人の心中を簡単に理解出来るはずがない。満月は、諦めたように埃塗れのシーツに身体を埋めた。
 きっと、時が経てば色々見えてくるよね。
 セーラーを脱ぎ捨てて、高いところから吊り下げた。多少、汚れてしまうのは仕方ない。既に埃や泥が付着している。
 浴室に足を踏み入れて、満月はそこの汚さに幻滅した。本来は眩いばかりの白色をしていただろうに、満月の前に広がるのは黒や緑色をした、思わず顔を背けたくなるようなかびばかりだ。それは、異臭を放っていて、満月はうっと咽返った。
 お風呂までこんななんて――
 満月は、引き返そうとした足をふと止めた。足の裏が、何か奇妙な感覚を捉えたからだ。恐々、足を持ち上げて、満月はその下にあったものが、変色してはいたものの、タオルだと確信した。それを指先で摘み上げ、鏡らしきものに擦り付ける。徐々に、鏡が輝きを取り戻していく。満月は小さな喜びを覚えながら、鏡を覗き込んだ。タオルでかびを拭き取った部分に、黒い双眸が何かを掴んだようにきらきらと煌きながら映った。
「掃除……」
 誰かに誇れるものなんて、一つとして持っていない。月姫という特殊な位置にありながら、不思議な力なんて皆無に等しい。
 それでも。
 私にも出来ることがある。
 満月は弾かれたように走り出した。朗笑を湛えた満月は、年齢相応の生気に満ち溢れていた。
 水を打ったように静まり返った廊下に、けたたましい足音が鳴り響き、玉兎の部屋の扉が、ノックも遠慮もなしに開かれた。
「ねえ聞いて! ぎょ」
 満月の歓喜の提案は、玉兎の赤面によって再論を余儀なくされる。首を傾いだ満月に向かったのは、玉兎の小さな人差し指。
「月姫、服……」
 傾いだままの首を下に向けて、満月はやっと自分が犯してしまった大きな失態に気づいた。セーラー服が、ない。白いレースの下着が、満月の柔らかな白い肌によく似合っていた。満月は、見る見るうちに玉兎よりも更に頬を赤く染め、そして俯いた。
「きゃ、……! ごめんっ。本当にごめんなさい!」
 再び走り出した満月を、玉兎は呆然と見つめる。
「月姫。案外おっちょこちょいなのかな……」
 それにしても、月は美しい愛娘を選んだのだと玉兎は感心する。何も、絶世の美女という訳ではない。けれど、人を惹きつける何かがあった。月の柔らかな光と彼女の姿が重なり、そして共鳴する。
「ああもう、僕、何考えてんだ」
 今は、月と月神様と輪国を救うことこそが最優先事項。
 玉兎は速まる鼓動を無視して、二度目の眠りについた。


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