月姫 万華鏡のしるべ[九]



 小鳥たちの囀りが段々と鮮やかになっていく。眠りから覚醒し、満月は布団から飛び起きた。一直線上にある埃の積もった鏡台は、とてもじゃないが使い物にならなそうだ。満月は制服のポケットから手鏡を取り出した。昨夜のような失敗は二度と繰り返したくはない。ベッドサイドに配されたアンティークな棚の上にそれを置く。鏡の映す範囲は狭いが、こちらの方が何十倍も鮮明に、色彩を導き出した。そして、満月は少々困惑する。昨晩、適当に羽織ったネグリジェはあまりにも大胆な形状をしている。大きく開いた胸元から、紅い傷が覗いていた。弧のような奇妙な形をしているそれは、多分先日まではなかったはずだろう。それとも、今まで気づかなかっただけなのだろうか。満月は指でなぞるように弧を描いて、凹凸が全く存在しないことに驚いた。昨日今日やらかしてしまった傷ならば、瘡蓋特有の感触があるはずだし、痣ならば青色をしていたり、紫色をしていたりするのが普通である。補足すれば、内出血キスマークの可能性は絶対ない。沸き上がり始めた不信感を押し込めるように、満月はそれを頭の隅に追いやった。
 焦る気持ちを抑えて、靴下も左右を間違えることのないように慎重に履き終えた。もう一度、小さな鏡から見えるセーラー服を念入りにチェックする。おかしいところはないはずなのだが、昨日の「下着事件」のことがまだ頭にこびり付いて離れない。
 どんな顔をして玉兎に会おう。
 そう頭を抱えていた時のことだった。部屋をノックする音が、突然に鳴り響いた。「僕だけど……」の声に満月が驚愕し、顔を青くしたり赤くしたりしたのは言うまでもない。相手は兎だし、まだ子どもだと自分自身を納得させようとするが、どうにも納得がいかなかった。胸の中にある蟠りはきっと、玉兎に対するものではなかった。
「……どうぞ」
「月姫ってば、そう警戒しないで。僕は月の使者。月姫に危害を加えたりしないよ」
 玉兎はカーテンを開くなり、微笑んで見せた。入り込んだ一筋の光が、玉兎の白い毛に微光を放たせる。昨日とは違って、今日は太陽が空にあるようだ。勿論、この洋館は深い森の中にあるため、僅かな光明しか見出せないのだけれど。
「う、ううん。貴方のことを警戒してる訳じゃないの。ただ、ちょっと自分が恥ずかしくて」
 最後の方は、殆ど独り言を言っているような気分だった。特別な力もないうえ、頭まで回らないようでは、玉兎の言う「月姫」として役不足なような気がする。それに、決心がすぐ揺らいでしまうようなこの根性も、情けなくて堪らなかった。
 そんな満月の胸中を見透かすように、玉兎は満月のすぐ傍まで近づいて、諭すように口を開いた。
「たった一つの失敗で落ち込まないで。いずれ風化して笑い話にでもなるよ」
 それより昨日の話を聞かせて、は多分玉兎の気遣いによるものだったのだろう。
「うん。栄華の時代……なんて大袈裟なものをいきなり築くことは出来ないんだけどね。私に出来ることは何だろうって思った時、まず思いついたのが掃除だったの。勿論、あまりに当たり前のことだとは思うんだけど……でも平安時代の貴族の宮殿も、輝かしかったフランス王宮も決してこんなに汚らしくはなかったでしょう?」
 玉兎にフランスという言葉は通じなかったが、何となく満月の考えていることを汲み取ってくれたようだった。あの時ははしゃいでしまったが、冷静になって考えれば誰にでも思いつく発想だ。それなのに、玉兎は嘲ることも幻滅した表情を見せることもなかった。ただただ、満月の話に黙って耳を傾けてくれる。右も左も分からないような奇天烈な世界で、こうして呼吸が出来るのは、玉兎のお陰に違いなかった。
「それじゃあ人手が要るね」
 満月の自信なさげな提案を聞き終わった玉兎は、当然のようにそれに同調した。
「ただ、それが厄介かな。輪国の住人は、最近じゃ気味悪がってここに近づかないんだ」
 理由は聞かなくても分かった。太陽の光も届かないような鬱蒼と茂る森――そして寂れた幽霊屋敷のような洋館。そんなところに好き好んでやって来る者など、余程のホラーマニアか、又は泊まる家のないホームレスか。
「でも、昔はちゃんと館に住み込みで働く人が居たんだ。黒猫の一族だよ。ほら、月姫も輪国に来て最初の日、見かけたでしょ?」
 言われてやっと、その強烈だったはずの光景を思い出した。可笑しなことだらけで、それを手繰り寄せるのは少し困難を要した。ブーツと碧の瞳と尻尾が頭の中で再現される。
「じゃあ、その人、じゃなくて猫たちなら、可能性はあるってこと?」
「ねこばあはきっと、雇うなら黒猫じゃないと受け入れない。でも、その肝心の黒猫はあまりねこばあに良い印象を抱いていないんだ」
 困ったような表情は、またもや満月に哀しげな印象を与えた。玉兎の小さな身体の中に押し込められたその感情たちは何を意味するのだろうか。どうして、と尋ねかけた満月に向かって、玉兎は静かに言葉を紡いでゆく。
「黒猫たちは本物としての能力を持つねこばあに、それはもう心酔していた。だけど、過剰な信仰心は時として、強い反発を招いてしまう」
 慕っていたものが、期待を裏切ったり自分の価値観とずれを生じた時。人はそれに対して罵声を浴びせるだろう。暴挙に出るだろう。ねこばあと黒猫の間に出来た溝はきっと深い。
 だけど、私なら逃げてしまう。現実を直視できずに。
 ふと、そんなことが浮かんでしまって、満月は窓辺に目をやった。
「それ……ねこばあは何て?」
 ぎこちなく玉兎を向いて、問いを重ねる。
「何にも。哀しそうに微笑むだけ」
 そう言葉にした玉兎の顔も哀しいという事実を、彼は知っているのだろうか。
 多分、私なんかが踏み込めない。だけど、どうにかしたいと思う。
「黒猫たちを説得することは出来ないの?」
「難しいね。少なくともそれは、月の欠片が全て集まってからの問題になると思うよ」
 玉兎はどうやら詳しい事情を説明する気はないようだ。そのことに微かな寂しさを覚えるが、今の満月では解決出来ないという判断なのだろう。それはきっと、正しい判断なのだと満月はどこかで悟る。何も出来ない自分が、歯痒くて堪らなかった。
「ねえ、玉兎。二人だけでも掃除は出来るよね。効率悪いけど」
 小さく響いた科白は、玉兎に笑顔を取り戻させた。

 ねこばあの館の物置部屋は、今まで見てきたどんなごみ屋敷をも凌駕する汚さを誇っていた。塵埃に鼻腔を擽られくしゃみは連発するし、整理整頓されていない全てのものが投げ込まれたような物置の床は足の踏み場が全くなかった。部屋の面積は狭いくせに、そこには占い道具らしきものから家具、衣料品、食料に至るまであらゆるものが収納というか放置されていた。食料は言うまでもなく腐っていて、異臭を放っている。こんな状態だから、目当てのものを見つけるには相当な時間を要した。箒、塵取り、モップ、ブラシ、雑巾、叩き、ばけつ、桶、脚立……掃除用具が埃塗れで使い物にならないなんて話は聞いたこともなかったが、満月の前に広がる場景は正にそれだった。一先ず、掃除用具を綺麗に洗うことから始める。
「期限は長くても二週間。それまでに月の欠片を回収するよ」
「うん。必ず」


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