月姫 万華鏡のしるべ[十]



 脚立や梯子におっかなびっくり足を掛ける。その覚束ない足取りを誰かに一目でも見られたものなら、と満月は顔を引きつらせた。悪いことは言わないからやめておけ、と忠告されるのが関の山だ。満月自身も、止められるものなら止めてしまいたかった。しかし、不運なことに責任感は強い方だから、今更仕事を投げ出す気にはなれない。その証拠に、右手にはモップが固く握り締められていた。洗剤をたっぷり塗りたくったブラシや雑巾は左腕に抱えられている。
 玉兎の合図で水撒きが始まると泉から汲み上げてきた水が、アーチを描くようにして落ちて行った。木漏れ日の僅かな光を取り入れて、一心に輝こうとする瑞々しい水沫が蜘蛛の巣に直撃する。張り巡らされた白糸は中々頑固だ。その主は今、視界に映っていない。玉兎によると、もう家を捨てた後なのだそうだ。蜘蛛の一族は、頻繁に家の引越しをするらしい。
 湿った屋根に手をかけ、一気にそれによじ登った。大体、屋根に上るなんて野蛮なことを、生まれて此の方経験したことなんてなかった。何だか気持ち良さそうだなぁなんて、気楽に思っていたのも当然だ。けれど、ねこばあの館の屋根はじっとりと湿り気を孕んでいた。森の中にある所為なのだろう。よく分からない緑色の物体が爪に入り込む感触は、気持ち悪くて仕方ない。
「でも、掃除のし甲斐がある……よね」
 苦笑してモップを持つ手に力を込めた。白い泡がぶくぶくと膨らみながら、汚れを攫って行く。
 掃除に没頭し始めたら、その後の時間は隼の如く過ぎて行った。それなりに綺麗だったはずの制服は、気づいたらねこばあの館に同化するように汚くなっていた。でも、それが何だか頑張った証でもあるようで、満月はそれを少しだけ誇らしく思った。
「今日は、これくらいで良いんじゃないかな」
 玉兎の声に従って、梯子を降りる頃には、辺りには夜の帳が下りていた。本日の進行具合は、屋根と外壁のみであったが、随分と美しく様変わりしたと満月は心を躍らせた。
「僕、ねこばあのところに行ってくるけど、月姫も行く?」
 玉兎がそう尋ねたのは、玄関から続くまだ埃だらけの絨毯に足を伸ばした時のことだった。
 その問いに、満月は少々迷いを見せる。ねこばあの瞳に見つめられると、まるで全てを見透かされているような気分になってしまうのだ。居心地が良いはずがない。記憶を手繰り寄せて、玉兎がねこばあの占いをまやかしなどではないと断言していたことを思い出す。この世界の占い師は、本当にそういった特殊能力を持っているのかもしれない。
 でも、もしもそうなら話を聞いてくれるかもしれない。心の内を理解してくれている相手なら、小恥ずかしいのは変わらないが、一から人に話すより随分と楽だ。何より、玉兎や月神が教えてくれなかったことも色々と聞けるかもしれない。この世界において、満月は無知だった。
「うん。一緒に行く」
 光沢の不気味な光を縫って行くと、初めて会った時のようにねこばあは静かに佇んでいた。あの時のことが、随分と昔のことに感じられる。ねこばあは水晶を擦っていた手をゆっくりと己の身体に持って行くと、やはりあの時のように、にやりと唇の端を持ち上げた。
「何だい、月姫。また悩んでるのかい? 玉兎、あんたの話はどうせつまらない業務連絡だろうから、また今度来なさいな」
 あたしゃ面白いことが好きなのさ、ねこばあはそう続けた。玉兎は少し不満げに表情を崩したが、渋々といった様子で了承の言葉を口にした。
「ねこばあ。月姫に変なこと吹き込まないでよね」
 振り返りざまに、玉兎はねこばあを一瞥した。
 変なことってどんなことだろうと満月は頭を悩ませる。大体、変なことがありすぎる。それはもう、天と地が引っ繰り返ったような、どんと胸を突く衝撃だった。
「あたしゃ本当のことしか告げないよ」
 まだ納得の行かないらしい玉兎は、ふっと笑んだねこばあを尻目に、「それが心配なんだってば」と険しい顔を見せた。しかし、それほど間を置かないうちに、艶美な布を長い耳で揺らして玉兎はその場を後にした。
「さて」
 ねこばあは空気を転化させた。同時に、満月の身体が些か強張る。それにしても汚れたもんだね、というねこばあの感想に対応する暇は与えられなかった。
「ねぇ月姫。最初に言っておくよ。月の選択は、輪のために。九つのほしのために」
 きっと前置きのつもりなのだろうが、その前置きが支離滅裂だ。満月は探るように目を細めた。それから、腰を掛け直したねこばあの向かいに、椅子が用意されているのに気づく。満月は大きな音を立てないように、その肘掛椅子に身体を預けた。失礼しますの言葉は遅れて発せられた。ばつが悪そうな表情が、露出する。
「良いさ。まだ分からなくっても。それより月姫、何が知りたいんだい?」
 微笑が満月の中の知識欲を駆り立てた。
 知りたいことなんて、沢山ある。そんなに簡単にまとまるはずがなかった。それなのに、結局口を吐いて出たのは、
「月姫って何なんですか?」の一言だった。


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