月姫 万華鏡のしるべ[十一]



 ねこばあは薄く微笑むと、聞いていないのかい? と満月に問い掛けた。すると、満月は困ったように視線を泳がせた。聞いたことには聞いたのだ。ただ、満月を納得させるような答えには、未だに辿り着いていない。
「月の愛娘だと玉兎が言っていました。ただ、それもよく分からなくて。月の欠片を集めるのが仕事だとも」
 ねこばあは微動だにせず、目玉だけをぎょろりと動かして満月を見つめた。何かを吟味するような表情の後、ねこばあのしわがれた声が、幼い子に語りかけるように優しく響いた。
「愛娘は正解だね。でも、月の欠片を集めるのが仕事というのは、百点満点中十点しかあげられないよ」
「どういう……こと、ですか?」
 ねこばあはやれやれといった様子で、首を振った。
「あの子でさえ、ここまで阿呆じゃなかったよ。それとも、先代が聡い子だったからかねぇ」
 ねこばあが何を言わんとしているかは、よく分からなかった。しかし、満月に対して呆れているようであるということは何となく分かった。
 現実世界で、ちょっとでも他人にこんな顔をされようものなら、満月はその日一日、自己嫌悪に陥っていたものだ。ねこばあの言い方が、咎めるような口調ではないということも影響しているのだろうか。不思議と今は心に傷が出来なかった。
「もうちょっと分かりやすくお願いできますか?」
 するりと、口から言葉が零れ出た。
 ねこばあはお決まりの不気味な笑みを浮かべる。良いだろうの言葉は、やけに低音だった。満月は、長い時を生き抜いてきた風格を、まざまざと見せ付けられたような気がした。
「輪国はね、日と月によって成り立っているのさ。輪を支えている根幹とでも言おうかね。戦乱が起ころうが、流行り病が蔓延しようが、日月ジツゲツが全てを取り払って輪を守ってんだよ」
「じつげつ?」
 満月が瞬くと、ねこばあは年寄りの話に茶々入れるんじゃないよと語気を強めた。そう言いながらも、ねこばあは日月とは、日と月のことだと教えてくれた。
「輪では、日月は神化されててね。月姫っていうのは、月の意志によってある時期に現れる月の愛娘のことだよ。」
 一つ一つを丁寧に頭の中にしまっていく。訳が分からないだけの支離滅裂な世界を理解するためには、兎に角知識が必要だった。
「ある時期って何ですか?」
「月が愛娘を求める時期のことさ。それがどういうことを意味するのかは、あんた自身が感じ取っていくべきことだよ。月の寵愛を一身に受けるであろう、あんたがね」
 そこまで言うと、ねこばあは席を立った。
 潮時か。また明日、再挑戦しようかとねこばあに挨拶をしかけた時だった。
「月姫、何、ぼさっと突っ立ってるのさ。三人分のディナー、誰が作ると思ってるんだい?」
 年寄りに労働させる気かい? ねこばあは塵の山から杖を探し出し、それを床に突き立てた。お世辞にも、軽快な足取りとは言えない。ずーり、ずーりと床を擦る靴の音は、たまたま点けたテレビでやっていたホラー映画に出てきた、眼を失った老婆のそれに似ていた。
「夜は長い。まだ聞きたいことはあるんだろう?」

 ねこばあの館には、食材が有り余っていた。勿論かびが発生しているので、食べられたものじゃない。けれども、この館がまだ「栄華の時代」を謳歌していた頃は、食材の宝庫とも呼ばれたことがあるかもしれない、と満月は思った。
 腐敗した食べ物の中から、保存性が高く、どうにかまだ口に出来そうなものを探し出した。
 ろくなものが作れないだろうなという満月の予想に反し、それなりの「ご馳走」がテーブルに並べられた。裏口の傍の貯蔵庫を覗いてきておくれ、というねこばあの頼みにより、新鮮な野菜と魚が手に入ったためだ。
 ねこばあはそれを最後の最後まで出し渋ったのだが、満月が困り果てているのを見かねて、そう進言した。
 館の様子から想像するに、ねこばあは近頃、一切の家事という作業を何も行ってはいないはずだ。況してや、わざわざ外出してまで食料を調達しに行くということは考えにくい。
 何故、新鮮な食物が手に入ったのだろうか。
 その疑問は、泡沫のように、すぐに消え去った。
 ねこばあはどうも他の者を嫌う傾向がある。満月の世界の言葉で言うならば、人間不信というやつだ。そう言い切れるだけの確信はない。だが、こんな人里離れた不気味な洋館に一人で棲んでいるということは、そういうことなのではないだろうか。
 私は、一人が怖い。
 上辺だけの付き合いが、どれだけ意味のないことかは十六年間で嫌でも学んでいる。今、異世界においても信じることが出来る現実世界との繋がりは、父くらいしか思いつかない。今まで、何を築いてきたのだろう。十六年という、長い月日が馬鹿みたいに感じられた。しかし、それでも、絆だとか繋がりだとかいう目に見えないものは、本物なのだと満月は信じていた。それは、父が居なかったら、若しかしたら知らなかったかもしれない感情だった。
 輪国を生きる者と触れ合い、第六感で感じたのは、「孤独」の一言だった。
 私には、お父さんが居る。でも、玉兎には? ねこばあには? 月神には……?
 玉兎とは今現在、一番多くの時を共にしている。右も左も分からない異世界で、満月にとってはかけがえのない存在だ。しかし、玉兎はどうだろう? 彼は、気さくで飾り気がなく、人と言葉を交わすことに長けているように見えた。だけれど、玉兎が、感情を持つ生き物らしく本心を曝け出したのは、きっと月神に関係することに携わった時だけだ。
 月神は、横暴で嫌な奴だというのが満月の認識だった。けれど、玉兎はそうではないと、優しくて笑顔が素敵な方だと笑顔を咲かせた。それは、本心だったに違いないが、一方的な愛情では孤独は満たされない。
 彼らの周りの空気が悲哀を含んでいたのは、人の温かみを感じられずに、空虚なままで居たからかもしれない。
 食欲をそそる匂いが部屋いっぱいに充満する頃には、満月の中でそう仮説が定められ始めていた。
 十数人が楽に並ぶことの出来るダイニングテーブルを、ぴかぴかになるまで磨き上げた。ねこばあの館は、部屋自体も家具も全てが立派であったが、まずは食事を口に出来る環境を作りださねばならなかった。昼間の大掃除に比べたら大分楽だったが、広間の軽い掃除は当然行った。
 並べられたディナーの品目は、全てねこばあの出した案が採用された。どうだい年寄りの知恵は、という言葉に、満月は愛想笑いを返すことしか出来なかった。
 タタタタ――軽快な足音が耳を叩いて、満月は軽く目線を上げた。
「ほら、玉兎のお出ましだよ」
 バンッという大きな音と共に、広間に飛び込んできた玉兎は大きく肩を上下させていた。その様子を、ねこばあは終始落ち着いて眺めて、お得意の薄い笑みを披露して見せた。
「良いッ……ハァ、匂い、が……! する、なぁって思って走ってきたんだ、けど。りょ、料理! 作るなら……呼んでくれたら良かっ、たのに!」
「だって。玉兎、疲れているでしょう?」
 目をぱちくりとさせた満月に、玉兎は眉根を寄せる。
「それは月姫も一緒だよ! もう! 本当なら、僕が月姫のお世話をしなくちゃいけないのに」
 玉兎のぶつくさは三人が食事の席に着くまで、続けられた。ねこばあの「男ならそんな細かいこと気にするんじゃないよ」と「仕事は人から言われてやるもんじゃないだろうよ」が会心の一撃を玉兎に喰らわせたようだった。
 グラスに注がれた液体は、妙な色をしていた。玉兎が輪国で最上級の美味とでも言わなかったら、口にすることなど不可能だったに違いない。舌の上を溶けるように滑ったその液体は、想像を遥かに上回る格別の味だった。そのうえ、その液体を飲むと、話が弾むそうだ。それは若しやアルコールの類なのではないだろうかと思ったが、未成年がアルコールを飲んではならないという法律はこちらにはないようなので、お構いなく喉に流し込んで行った。
 いつもなら、用心深くて、そんな外れた道からは目を背ける満月であったが、今日は何だか思いきり自分を解放してしまいたい気分だった。飲み過ぎると目が回るよという玉兎の忠告もあまり聞かなかった。
「月姫は、薬春ヤクシュンに強いんだねぇ」
 感慨深げに呟いたねこばあに、玉兎が同意するように頷いて見せた。
「薬春……ってお酒のこと?」
「そうとも言うね。これは楼春ロウシュンっていう酒さ。飲み過ぎは身体に悪いからね。ほどほどにしておきな」
 今度あたしと飲み比べの勝負といくかい? ねこばあは少し嬉しそうにそう言った。
 お手柔らかに。満月がにっと笑うと、ねこばあは、あたしは酒に強い女が好きなんだよと小さく零した。

 それからはまるで小さな宴会のようだった。楽しく談笑したり、時に鼻唄が混じったり。そうして夜は更け、遂に限界に達しそうになった頃、ねこばあは本題を切り出した。
「玉兎。月姫に仕事の話、してやんな」
 それまで楽しげだった広間に、一瞬で緊張が伝わったのを、肌で感じた。喉を通る楼春の味が、先刻より落ちたようなそんな錯覚に陥る。
「ねこばあ、僕に喋らそうって魂胆で、こんな高価な薬春用意したんだ」
 玉兎がねこばあに軽く冷眼を送る。ねこばあに悪びれた様子はない。満月はというと、高価なものだったんだ、と飲み過ぎたことを少し後悔するに留まった。
「いんや。仕事の話くらいならあたしにも想像がつくからね。でも、あんたの口から言うことに意味があるんだよ」
 ねこばあはそこで押し黙る。玉兎も、それを理解したようで少し俯いて目線を横にずらした。
「ただ、一番適しているのは月神だね。あの根性なし、まだ拗ねてんのかい?」
 それを聞いた玉兎は、思い切り顔を歪めた。それから、これでもかというほど口を開いて、
「月神様は――! 拗ねられてなどいない! 月を守るために!」と叫ぶように言った。
 どういう、ことだろう。
 満月は黙って二人のやり取りを見守る他なかった。
 ただ、分かるのは、満月には言い難い何かが存在するということ。
 ふと、顔を上げて、満月は息を呑んだ。ねこばあが哀しくて、けれども、柔らかな笑みを浮かべたような気がしたのだ。それはまるで、慈愛に満ちたような、自嘲めいたような、同情を寄せるような。
「月姫、期待させたようで悪かったね。あたしの口から言えるのはあれくらいだよ。玉兎にも、月神にも、もう少し時間をおやり。そうすれば、きっとあんたの疑問も、あんた自身が抱えるものもきっと解決するさ。どうしても、苦しくなったらあたしのところにおいで。あたしが見込んだ子だ。月姫、あたしはあんたがきっとやり遂げるって信じてるよ」
 ねこばあは爪を引っ込めてから、そっと満月の頭に手を乗せて、不器用に掻き撫でた。
 あ――。
 不意に、涙が零れそうになる。何故だか分からないけれど、何よりも暖かくて優しい言葉なのだと満月は悟った。
「月姫、玉兎。明日朝一番にあたしの部屋においで。月の欠片は、あんたたちに返そう。もう、十分の働きをしてくれたよ」
 玉兎が、小さな声でありがとうと呟くのが聞こえた。玉兎の表情に気づいて、まだ掃除が済んでいないと告げることがどれだけ野暮なことなのか理解した。
 ただ、これからも出来る限りねこばあに会いに行こう。
 自分がねこばあの孤独を癒せる存在だなんて、驕るつもりは更々ない。でも、ねこばあとの飲み比べの勝負の約束くらいは守りたいと心から思った。
 そして、いつか、ねこばあに同じくらいの優しさを返せたら良い。
 だから、心を込めて。
「ありがとう」


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