月姫 万華鏡のしるべ[十二]



 後ろを付いて来る玉兎のひたひたと絨毯を踏む気配だけが、確かな感覚だった。後は、沈黙が広がっているのみで、音もなく、匂いも感じなかった。しかし、それでも、ねこばあの館を包む静けさは哀しみではなく希望を含むものなのだということが、ありありと分かった。
 ねこばあの館は、そしてねこばあ自身も、何かを取り戻し始めていた。はじめに人が家をつくる。次に家が人をつくる。それは、先人の言葉だったと満月は記憶している。人は、家を築き始めた。次は――。
 木漏れ日が差し込み、不気味だと思っていた布の光沢が、綺麗な七色に揺らめいた。その光景に初めて気づいた満月は、はっと息を呑む。
「おはよう。よく眠れたかい?」
 穏やかな声色に、自然と緊張が緩んだ。満月の肯定に、玉兎の陽気な声が重なる。覚えず、玉兎と目を見合わせた。玉兎の目尻が下がったのを捉える。
 それは良かったと満足そうに言ったねこばあが、ゆらりと立ち上がった。覚束ない足取りが危なっかしい。満月は滑り込むようにして、ねこばあを支えた。
「年寄り扱いするんじゃないよ」
 咎めるような口調のねこばあに、苦笑で曖昧に返す。
「無理は禁物、だから」
 母が亡くなった頃、祖母が遠路はるばる頻繁に会いに来てくれていたことを思い出す。
 おばあちゃんも、頑固だったな。
 母が逝ってすぐに、祖母も同じ場所へ旅立った。本当は、満月のことを構っていられるほどの体力は残っていない筈だった。祖父はずっと昔に他界していたから、祖母はずっと広い家に独りだった。
 だから、かもしれない。
 もっと、色々話せば良かった。
 後悔先に立たず、だ。ねこばあも、またこの館に一人になるのだと思うと、決意が揺らいだ。駄目だ、と心の中で呟く。ねこばあがそんなことを望んでいないのは明らかだった。
 ねこばあは、まるで満月の心の内を読んだように、
「あたしは大丈夫だよ」と満月の中の蟠りを払拭した。
 それから、丸まった背中を更に丸めて、漆黒色をした巨大なひつの蓋を床の隅に除けた。満月は、ねこばあの肩越しに、その櫃の内の暗闇を見つめる。
「月の欠片、さ」
 ねこばあの言が、満月や玉兎を気遣うように揺れていた。満月はよく分からないといった様子で、もう一度櫃の中を覗き込んだ。
 それでも、そこに広がるのは、常闇とこやみばかりで他には何一つ確認することが出来なかった。
 空っぽ、だよね。
 心の声に、同意を求めた。何故だか分からないけれど、酷く胸騒ぎがした。震える手で、満月は櫃の中に手を伸ばす。
 闇を探る指先が、凍りついた。
 暗闇がただ広がるだけだと思っていた櫃の中に、冷たい感触があった。それは、氷を触った時の感覚に似ていた。だが、氷のように溶けることは決してない。
「これが、月?」
 唇が、上手く動かなかった。指先だけが捉えた冷温が、身体全体の温度を急速に下げていくのを、他人事のように感じた。生理的な涙が、留まることなく溢れた。そして今度は、心が締め付けられるように痛くなる。
 ああ、あの空に浮かぶ星屑は、元はこの欠片と一つのものだったのだ。あの月の残骸も光ることなく空に浮かんでいた。だから月の欠片がどんな形状をしているかなんて、疾うに分かっていたはずなのに、今初めて理解したように、衝撃が走った。
「月は、光らないの?」
「光るよ。いつか、絶対」
 反射的に答えた玉兎の瞳に迷いはなかった。
「お迎えだよ、月姫」
 ねこばあが、再び揺り椅子に身体を預けた。水晶に映った蒼い瞳が伏せられる。
 同時に、満月は身体を手繰り寄せられているような妙な感覚に陥った。頭から爪先までを、黄色い光の粒子が覆い尽くす。何が、なんて問える暇は与えられなかった。
「月姫、月の欠片を持って」
 突然、真横から発せられた言葉に、満月が驚いたのは言うまでもない。目を見開いて、今何て? と精一杯の疑問を瞳に宿した。
 満月の身体より何倍も大きな月の欠片は、とてもじゃないが、普通の女子高生の両腕に持ち上げられるような代物ではなかった。だがそれは、満月が只の女子高生だったならばの話だ。
「月姫の意志は、月の意志」
 歌うように玉兎の言葉は紡がれた。
「願って月姫。月を空に還そう」
 満月はそっと目を閉じる。頭の中に、造作もなく描き出された金色に輝く月に共鳴するように、月の欠片は狭い櫃の内から浮かび上がった。冷たいそれを抱きしめるように胸に持っていくと、どこか懐かしい心地がした。
「ねこばあ様。ありがとう。本当に」
 宙に浮かんだ足を、水の中を泳ぐみたいにばたつかせて、ねこばあに頬擦りをした。動物特有の柔らかな毛並みが肌を擽って、思わず笑ってしまう。
 ここでは、自分の気持ちに素直になれる。思い切り笑ったり、思い切り泣いたり。偽りの仮面を被っている必要がなかった。
「ねこばあに月の加護があらんことを」
 光の粒子がねこばあの身体を優しく纏い、収束していく。薄く微笑むねこばあが、鍵の掛かった小窓を開けると、月の欠片はみるみるうちに小さくなった。
 なるほど、と満月は納得する。どうしてこんな大きなものが、家の中に存在出来たのかという疑問は解消された。本当に何でもありだと目の前の光景を眺める。
 小窓を通過出来るくらいに小さくなった欠片が、光の粒子に乗って空に飛び出した。
 行かなくちゃ。
 玉兎に倣って窓枠を蹴ると、光の粒子がびゅんと加速して、満月の身体を攫って行った。振り返ると、ねこばあは小さくなった窓の奥で、飄々とした顔をして揺り椅子に揺られていた。

 鬱蒼とした森を急上昇すると、視界が開けた。青々とした空に、白い綿雲が一つ二つと流れて行く。競うように舞い上がってきた小鳥達の清かな囀りに耳を傾け、たまに強く吹く風を感じる。目で月の欠片を追いかけると、月の残骸の方へ向かってまっしぐらに向かっていくのが見えた。反対の方角では、朝日が燦燦と煌いている。美しいまでの光に、一瞬、空恐ろしさを感じた。訳の分からない感情は、自分のものではないみたいだ。
「月姫、一先ず、月神様のところに戻ろう」
 距離を置いたところから、玉兎の叫ぶような声が聞こえて、満月は我に返った。
 あの人にまた会うんだ。
 そう思うと、身体が緊張するのが分かった。こちらの世界に来て、随分と心が解放されたような気になっていた。でも、月神は当分、慣れそうにない。元々、異性は過去の経験も祟って苦手だった。乱暴な言葉遣いも、威圧的な態度も、整い過ぎた容姿も、満月の萎縮をエスカレートさせるには十分過ぎる程だった。
 余程考え込んでいたのか、月がもう手を伸ばせば届く距離にあるということに気づかなかった。月は、黒い塊と塊がパズルのように組み合わさって、初めに見た時よりも少々大きな形を成したようだった。
 おもむろに、玉兎が月に向かって手を伸ばすと、月の表面がぶれた。それはまるで、水面に広がる波紋のようだった。月は透明感を伴い、深く満月を包んでいく。
 空間が捻じ曲がり、美しい神殿の様が眼下に映し出された。相変わらず、光は朧だが、前に訪れた時より辺りは明るさを帯びている。
 凄い……。
 以前は輪郭を辿ることしか叶わなかったそこは、実は映画に登場するような高貴な屋敷だったらしい。池には石橋が掛かり、小道の周りの岩は雄雄しくそびえている。松の木の深い緑は、満月を森厳とした面持ちにさせる。敷き詰められた白砂と濃やかな他の色彩との対比が見事だった。しかし、映画の舞台とは決定的に違うものがあった。ここは、只の金持ちの屋敷ではない。本来ならば、暗色を基調としているであろう邸宅は、目を奪われるような朱の七彩で煌びやかであった。流石に、神の住まう御殿なだけある。
 さくさくという足音と共に、どくんどくんという鼓動が加速していく。引っ張られる力が、強くなっていくのが身に沁みて感じられた。月神が、間違いなくすぐ傍に居る。
 玉兎が、神殿に足を踏み入れるのを見送って、満月は少し躊躇する。けれど、不思議そうに満月を向いた玉兎に掛ける言葉も見つからない。泥と埃と傷とで目も当てられなくなったローファーを小脇に抱えて、満月は一歩を踏み出した。


BACK | TOP | NEXT