月姫 万華鏡のしるべ[十三]



 月神の神殿は、授業中に国語の便覧で見た寝殿造の邸宅とほぼ合致するものがあった。しかし、平安のそのままを構築したのではなく、洋を取り入れ、近代化させたような造りをしていた。それでも洋のものがまだ真新しく馴染んでいないことから見受けるに、満月の暮らしていた国より、遥かに早く文明開化が実現したといったところだろうか。色使いの上品さと、主張しすぎず喧嘩しない程度の程よい和洋折衷は、日本が明治時代、急速に進めた欧米化の流れの中では成し得なかったことであろう。輪の国は、現代でもなければ、過去でもない。全くの異世界だった。
 それにしても、と満月は目を落とした。
「玉兎、お風呂に入りたいんだけど」
「後で入らせてあげるよ。今は月神様にご報告しなきゃ」
 玉兎が歩を進める先にあるのは月神だということは、引力と呼ばれる不思議な力によって、嫌でも分かってしまっていた。併せて、満月は月神という人間について、何も知らなかったが、月神が神という高位な生き物だということは知ってしまっていた。
 そのような人に会うならば、それなりの格好をしなければならないのではないか。汚れたセーラー服では、失礼に当たるということを、玉兎は失念しているのではないのだろうか。月神のことを、信仰している訳ではないし、横暴な男にそこまでの配慮をする必要はないのかもしれない。でも、年頃の満月にとって、異性の前で適当な格好をしているというのは、耐え難いものがあった。その相手が完璧なまでの美しい容貌をしているのなら、尚のこと。せめて、風呂にだけでも入ることが出来たなら。請うように玉兎の背中を見つめたが、彼は相変わらず足を動かしているだけだった。
 重々しい扉は、数日前月神を訪ねた時と同じく、堅く閉ざされていた。やはり、玉兎の声に返ってくる言葉もない。練香の匂いは、満月の嗅覚に懐かしさを覚えさせた。
「月神様、只今戻って参りました」
 月神の横たわるその場所が、キシ、と主に代わって返答をした。満月は慌てて髪を梳く。いつもならばするりと通る指が、毛の先の方で引っかかった。満月は強引に指を下まで引き下ろした。その僅かな痛みと共に、唇をきつく結ぶ。月神という人は、こちらが気を緩める隙を与えてはくれない。
 でも――。満月はちらと御帳台に目をやる。
 月神の周りの空気は、ぴりぴりと硬い。それは、満月を萎縮させるものではあったが、相手を圧倒するだけのものではなかった。何となく、何となくだが、張り詰めすぎて、あちらの方が折れてしまいそうな、そんな感覚を満月に植え付ける。不安定で見ていられない、と手を伸ばしそうになってしまう。そして、月神を知りたいと、今までの満月であったらありえない積極的な感情を抱かせる。
 どうかしている、と満月は頭を振った。異世界に来て、頭が可笑しくなってしまっているんだ。そうでもなければ、そんな不可思議なことを思うはずがない。
「あのばばあが、よくも大人しく月の欠片を渡したものだな」
 月神がくつくつと喉を鳴らした。満月は、それに反応して跳ねる心臓を抑え付けるように、息を深く吸った。その時だった。蘇る記憶と、冴え渡る思考。頭の中で繰り返される、月神の声。
 低く、威圧的な――。満月ははっと目を見開いた。
「あれは……貴方だったの」
 玉兎に初めて会ったあの日、自宅において耳にした声は、月神によるものだった。月神に直接確認しなくても分かってしまう、偉そうで怖くて低くて、だけど哀しい音色の声。
 月神の怪訝そうな顔が御帳台から覗いて、満月は条件反射のように一歩後退りをした。
 駄目。心の中で呟いて落とした目線をもう一度上げた。それだけでも、満月にとっては尋常ではないくらいの勇気が要る。玉兎には、それが分かっていた。紅玉の美しい瞳の中で、満月は挫けそうだった。
「私、貴方に。貴方に呼ばれました。家で、玉兎が来る直前に」
 言葉の順序が目茶目茶になっていることは、自覚していた。月神の顔が険しくなる。満月の言った言葉の意味を図りかねているのだろう。
「玉兎が、貴方が私のことを呼んでいるから、待っているからと言っていたけれど、今の今まで半信半疑だったんです。私が選ばれた理由……何を根拠に、月姫、愛娘が私だと思ったのか。ずっと、分からなかった」
 部屋の空気が変わったのを、直に感じた。肌がひりひりと痛んだが、満月は月神から視線を放さなかった。
「誰でも良かったんじゃないかって思ってた。例えば異世界から私くらいの女子高生をさらってきて、その人を月姫として迎える。引力なんて不思議な力は、後から与えれば良い。それで、たまたま私の家のベランダに現れた玉兎が、たまたま私を連れてきたんじゃないかって」
 誰も動かなかった。玉兎が何か言いたそうに口をもがもがとさせたのが、視界の端に映った。けれども、今ここで月神と向き合わなければ一生後悔するような気がして、満月は頑なに空気の質を緩めようとはしなかった。
「だけど、そんな偶然で月姫が決定する前に、貴方の声がした。だったら、私は月の意志で、月姫に選ばれたってことでしょう?」
 満月が月神を見据えた。月神が目を鋭く光らせたが、不思議と、恐怖は感じなかった。
「不安だったんです」
 溜めていたものをぶちまけるような感覚のはずなのに、その言葉は口からさらりと流れ出た。月神の眼光は見たものを金縛りにしてしまうほど強いものだったが、それを受け流せてしまえるくらい、今は落ち着いていて迷いがなかった。
「何?」
「私なんかがそんな救世主みたいな役目を果たせるはずがないって。月を見て、玉兎を見て、ねこばあ様を見て、貴方を見て、救えるものなら救いたいと思ったけれど。軽い気持ちで挑んじゃいけないことだということくらい、私にも分かります。決意もしたけれど、何回も迷った。だけど、月に――貴方に選ばれたのなら、出来る気がするんです」
 これが私が月の愛娘と呼ばれる所以なのかもしれない。以前、月を見て、涙したように。理屈などでは言い表すことの出来ない、まるで家族のように愛すべき大切な存在。月に選ばれたのだという事実が、こんなにも私に力をくれる。
 そういった引き金を用意してもらえなければ、自分を信じることが出来ない。人を救う勇気が持てない。情けない話だが、仕方ない。そう思うと同時に、そんな自分を変えていけたら、と思い描いた。
「やはり、小娘は小娘か」
 踵を返し、月神が嘲るように一言した。満月の心に躊躇が生まれる。握り締めた拳が震えた。伸びた爪が手のひらの皮をえぐる。
「それでも、貴方が私を呼んだ」
 次に飛んできた月神の睥睨は、さっきまでとは比べ物にならないほど強く鋭いものだった。磨き上げられた刃物のような瞳に身が竦む。
「いい気になるなよ」
「あの時――貴方、とても……とても哀しそうだった」
 何がそんなに哀しいの、と聞くことは叶わなかった。気がつけば、月神は部屋を後にしていて、後には釈然としない満月と、困惑と恐れと悲痛をごちゃ混ぜにしたような顔の玉兎が残された。


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