月姫 万華鏡のしるべ[十四]



 念願叶って風呂にありつく頃には、辺りは夜の姿に変わってしまったようだった。というのも、月の神殿に居ては光の変化が感じられないため、現在が夜なのか昼なのか全く分からない。いつまでも推論に頭を悩ませている訳にもいかないと、頭の回転を早々に切り上げた。
 湯煙が視界を遮り、ごつごつとした岩が足元を掬う。本殿より更に奥に進んだところに湧く温泉は、月の湯と呼ばれ、疲労や怪我によく効くのだと玉兎が得意げに話していた。久し振りに熱い湯に身体を沈める。身体の芯から温まるような感覚に、満月は感嘆した。
 音もなく、静かな夜。己の思考を遮るものがないと、つい考えに耽ってしまう。思い出されるのは、先刻の月神とのやり取りばかりだ。
 少し、思慮に欠けたなと目を伏せた。肩口まで湯に漬かった身体を更に沈める。水をかくように腕を動かすと、ちゃぷんと弾んだ音がした。
 いい気になっていたのかも。
 やはり、自分は不器用なのだろうと天を仰いだ。言葉のキャッチボールが上手く行かない。だから今までは、出来る限り人に合わせて生きてきた。笑顔を浮かべてきた。こうしていざ人と向き合ってみて、上手く行かないのも当然なのだろう。
 月神の心が遠い。不器用ながらに向き合ってみて、感じたのはそれだ。これからも月神とは、否応なしに関わっていかなければならないだろう。
 今は、自分が月姫だという事実に疑いを持たない。もう、認めるしかない。やり遂げるしかない。だが、自分に自信が持てないでいるのもまた事実だ。月の痛みを、全身で感じているからこそ、それを自分などが癒すことが出来るのか不安に思ってしまう。神とはいえ、人一人とさえ上手く繋がりをつくれない自分に、果して月姫が務まるのか。否、と呟きそうになる自分に嘆息して、泥沼化していく自己嫌悪に終止符を打った。
「謝ろうかな」
 今まで、何事にも逃げ腰だった。何かアクシデントが起これば、時が経つのを待って、風化するのを待って。でもそれではいけないのだと、変わるなら今なのだと自らに訴える。
 月神との付き合いをこれからも続けなければならないから。それもある。だが、月神という人に嫌われたくないと思ったのが、一番の理由かもしれない。調子の良い理由だと、満月は自嘲した。こんなにも、彼が気になってしまうのは、きっと月姫という己の立場の所為なのだろうとこじつける。月の愛娘だから、月の神に惹かれる。有り得ないことではないだろう。恋心では決してないのだから。
 風呂から上がり、玉兎に渡された高そうな着物に腕を通した。着方が分からず四苦八苦していると、ノックと共に侍女と思しき女性達が慎ましく入ってきて、着替えを手伝ってくれた。そういえば、月神以来、人間の形をした生き物とは会っていなかった。妙な高揚感を感じたが、終始、彼女らは無言で、満月と目を合わせようとはしない。一人で居た時より心細くなり、満月はぎこちなく年若い侍女を向いた。
「あの」
「どうなさいましたか?」
 抑揚のない声は、まるでロボットのようだ。しかし、満月は彼女が何かに驚いているのだということを察した。僅かにだが、表情に変化があったことを見逃さなかった。
「月神様はどちらに?」
「月神様は只今お忙しいため、お目通り願えません。姫様はどうかご養生なさいませ。また明日から下界に下るのですから」
 姫様という単語に、一瞬きょとんとした。それから、その縁遠いと思っていた言葉が自分に向けられたものだと気づくまで、大して時間は掛からなかったが、当然の如く違和感が拭えない。月姫というのは、意味を持たない熟語なのではなくて、月の姫ということだったらしい。それもそうだと納得しつつ、姫なんて言葉と一介の女子高生はどうやっても結びつかなかった。そういうのは、金髪碧眼の麗しい女や、長い黒髪を垂らした日本人形のように淑やかな娘のことをいうのだ。
 それから目の前の姿見に映った自分を見て、驚愕する。唐紅からくれない色の表着うわぎには、美しい色彩の蝶が舞い、結い上げられた黒髪のてっぺんには豪奢な髪飾りが挿されていた。
 着飾る必要なんてないのに。満月は鏡を直視できず、横へ目をやった。それから、思いついたように侍女を見渡す。
「あの、どなたか少しお話を伺っても良いですか?」
 おずおずと申し出ると、初老の侍女が先ほどの年若い侍女にそっと頷いた。満月はほっと胸を撫で下ろす。
 脱衣所を後にし、侍女に言われるまま進むと、美しい庭が見晴らせる広い座敷に着いた。どこからか水の流れる音が聞こえる以外は、静寂に包まれている。流水の音は清らかで、心を安らかにする作用が働いているような気がした。
「何と、お呼びすれば良いですか?」
「私どもに、特に名前はないのですが……姫様がお望みになられるのならば、どうかたまきと」
 環はそう言うと深々と頭を下げた。
「私のような者が、姫様にお声を掛けていただくなど、本当に恐れ多いことなのです」
 環の言葉に、満月はふるふると首を振った。何を言っているのだと問いたくなるのを我慢する。
「あの、可笑しなことを尋ねますが、環さんは人間、ですよね」
 我ながら、変な質問をしたと満月は後悔する。予想通り、環はきょとんとしてから、予想と大きく外れた言葉を返した。
「いいえ、姫様。私たち侍女は、月の精です」
「月の、精?」
 また不可思議な言葉が出てきたと満月は首を傾げる。無知をまた曝け出してしまったというのに、環は顔色一つ変えずに丁寧に説明を続けた。
「はい。私たちは月の力により生み出された月に仕える僕なのです」
「それじゃあ、玉兎も月の精なんですか?」
 自然と湧いた疑問をぶつけると、今度は否定が返って来た。
玉鳳ぎょくほうは特別なのです」
「玉鳳?」
「玉兎様のことに御座います」
 何だかややこしい。満月はうろたえた。
「玉帥は月に選ばれし月の使者なのです。ですから、月から生まれ落ちた私たちとは違います」
 環は少しだけ微笑んだ。段々と、環の顔に表情の変化が見られるようになって、満月は安堵した。
「良かった。環さんも笑うんですね」
 満月がそう微笑むと同時に、環の顔はまた硬くなってしまった。満月が落胆の色を隠せずにいると、環が申し訳なさそうに微かに笑った。
「私どもは、ただ雑務をこなすだけで良いのです。恐れながら、姫様はこの世界に関することをまだあまりご存知ではありません。今はまだ知るべき時でないとの上からのお達しも御座います。無作為に姫様にお教えすれば、姫様にとって災厄ともなりかねません」
 そこまで聞いて、何となくだが、環の、月神や玉兎の意向が理解出来た。侍女たちとの関わりが深まれば深まるほど、情報は満月の方に入ってくるだろう。だから、表情まで消し去ろうとした。理解はしても納得しようとは到底思えなかった。
「でも、私は」
「姫様。どうかお許しください」
 懇願する環に、それ以上問いただすような真似は出来なかった。
「こっちこそごめんなさい。教えてくれてありがとう。本当はこういうことだって私に言っちゃいけないんでしょう?」
 黙っておきますと続けてから、満月は環を見上げた。環は瞠目して、それから穏やかに微笑んだ。
「夜は冷えます。姫様、お部屋までお送りいたしますわ」
「またお話出来ますか? あの、こういう話じゃなくて、ただの世間話でも何でも。私、こちらの世界で同じくらいの年の人の姿をした女の子と話したりするの初めてで、凄く嬉しかった」
 勿論、月の精だということは分かってますと付け足すと、環は口に手を当てて上品にころころと笑った。
「姫様のお話しのお相手がまた出来るだなんて光栄ですわ。それから姫様、私のことはどうか呼び捨てに」


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