月姫 万華鏡のしるべ[十五]



 夜が明けた。異世界で迎える朝は、これで何度目だろう。指折り数え始めて、途中でやめた。
 父は、心配しているだろうか。母が逝き、男手一つでここまで育ててくれた父。忙しいにも関わらず、娘の話に真摯に耳を傾けてくれた父。心配していないはずがなかった。
 ごめんなさい。声を出さずに呟いて、昨日の内に洗濯され、乾かされたセーラー服の袖に腕を通した。スカーフからローファーまで、見違えるほど綺麗になっている。自分のことを他人に全て任せてしまうなんて、一生掛かっても慣れそうにない。お姫様という気質は、満月には片鱗さえ備わってはいないに違いなかった。
 ジーパンか何か、動きやすいものがあれば良いのに。スカートの裾を引っ張って、満月は顔を顰めた。昨夜、ズボンのようなものは無いかと環に尋ねたが、彼女はズボンという単語が何を意味するのか、分からなかったらしい。眠りに落ちる直前に、袴と言えば良かったのだということに気づいたが、また起きて侍女たちを探しに行く気力は残ってはいなかった。
「姫様、朝餉あさげの準備が整いましたが、どちらでお食事になられますか?」
 環の声だと即座に解して、小走りに扉に向かう。
「環さ……環、あの、袴とかってない?」
 人の呼び方を変える時は、いつも以上の緊張が伴う。どもりながらの問いに、苦笑した。
「袴……ですか。勿論御座いますが、姫様がお召しになるには、少し」
 優しげに満月を見やり、それから環はもう一度口を開いた。
「本来、姫様は昨晩のようなお着物をお召しになられる方なのです」
「でも、あれでは動きにくいし、それに今着ている制服だって、こちらの世界ではあまり品の良い格好じゃないんじゃないかな」
 ミニスカートだし、足なんか出しているし、という言葉は胸の中にしまっておく。高校入学が決まり、洋品店に足を運んだら、店員は中学校の時よりかなり短い丈のプリーツスカートを持ち出した。満月がわざわざ丈を短くした訳ではないというのに、だ。そういうご時世なのだろう。ロングスカートにして、一昔前に流行ったスケバンを気取るような真似をするつもりもなかった。でも今は、もうちょっと長くしてもらえば良かったと思う。月姫という役柄は、姫という名目でありながら、活動はかなり活発だ。
「そのお洋服は、お身体を冷やしてしまわないかは心配ですけれど、とても可愛らしいから大丈夫ですわ」
 にこやかに言う環に拍子抜けしてしまった。どういう基準なのだろうか。
「姫様は月の象徴ですから、常に美しくあって欲しいのです。勿論、姫様はお召し物に左右されずに、お綺麗なのですけれど」
 満月は勿体無い言葉に慌てふためいたが、穏やかに物事を強引に進めきってしまう環に、勝てるはずもないのだと悟った。どうやら玉兎にしろ、環にしろ、月の人々は、形に拘る性質があるようだった。
「ええと、そういえば朝ごはんの話だったよね。ここで食べる以外に、どこか場所でもあるの?」
「広間で、玉鳳がお食事をされていますわ。姫様が宜しければ、ご一緒したいそうですが」
 玉兎には今日からの予定なども聞いておかなければならない。また後で聞きにいくより食事の席で済ましてしまった方が効率は良いだろう。
「じゃあ、広間の方で。案内を頼んでも良い?」
「ええ、勿論です」
 答えてしまった後で、月神に会うことはないのか不安になった。だが、環に連れられて、朝餉の良い匂いが立ち込める広間に着くまで、それらしい人影は見当たらず、満月はほっとした。同時に、それを残念に思う自分が居て、満月はそんな自分に戸惑った。
 不躾な言葉をぶつけてしまったから、それを謝りたいだけ。そう納得させて、何だか久し振りに見るような気がする玉兎と挨拶を交わした。こちらに連れて来られてから、昨日まで片時も離れずに居た所為だろう。
 環は、満月が腰を下ろすのを見届けると、頭を下げて部屋から去った。環の纏う空気が硬くなった。やはり、玉兎の前では、環と親しく言葉を交わすことは難しいだろう。
 そんなにも隠しておきたいこととは、何なのだろうか。こちらに来て間もない満月に、推測できることなど高が知れている。ねこばあは、玉兎にも、月神にも、時間をおやりと言っていた。でもそれは、時が経つのを待つだけではなくて、きっと彼らにそれだけ信じてもらえるようにならなければならないのだろう。多分、まだ月姫としての価値しか認めてもらえていないのだ。黒川満月としての価値を認めてもらえる時、その時になれば、きっと沢山のことが見えてくる。
「月姫、昨日、着物来たんだって? 僕も見たかったな」
「何言ってるの。もっと綺麗な人が着なきゃ。勿体無いよ」
 朱色の箸に手を伸ばし、いただきますと一言。煮物を口に含んで、そういえば腹が減っていたのだと思い出した。
「月姫こそ何言ってるの。僕、月姫みたいな人が月姫で良かったな」
 玉兎の言葉は真っ直ぐで、満月は不意を突かれたというように咳き込んだ。大丈夫? 問われて、胸を押さえながら大丈夫と答える。
「そう言ってもらえるの、凄く凄く嬉しい」
 はにかんで、玉兎に倣って真っ直ぐな言葉で返した。玉兎の顔が、本当に嬉しそうにくしゃりと歪む。
「考えたんだけど、次は、狐のお宿に行こうと思う」
「狐の? ああ、最初の日、ちらっと見た」
「うん。ねこばあの時みたいに上手くは行かないと思うけど……」
 言葉を濁す玉兎が気がかりだったが、月の欠片を集めなくてはという強い気持ちの方が上だった。ごちそうさまでした、を玉兎と共に口にし、満月は廊下を早足に駆けていった。


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