月姫 鎌鼬の残痕[三]



 客室を後にし、満月は九尾亭のほの暗く長い廊下を真っ直ぐに歩いていた。九尾亭には、嵐が去った後の静けさのような静寂が充満していて、その中で微かに囁かれる声が、満月の胃をきりきりとさせた。何をひそひそと話しているのかなんて分からなかったが、自分や玉兎のことを話しているのだということくらい、簡単に推測出来た。
 陰口は、慣れっこのはずだった。だが、まさか異世界に来てまでそれが続くだなんて。自分には一生、安息の時は訪れないような、そんな気持ちになってしまう。
 玉兎との話し合いの結果、九尾亭においてのこれからの活動方針は情報収集に徹することに決まった。効率の面から、玉兎とは別行動を取っている。狐たちは、月の欠片との交換条件を明示する訳でもなく、月の侵入を頑なに拒否するばかりだった。こちらが拝み倒した所で、結果は見えている。そんな狐たちから月の欠片を返してもらうには、彼らと関わり、ねこばあの時と同様に対価をこちら側で示すしかないだろう。無論、ねこばあの場合は、相手が良かったから返してもらえただけに過ぎないのだけれど。
 満月は、ふと、ささめく声ではない何かの音を耳にした。とん、とんという軽快なリズムが、どこかから聞こえてくる。それは、自分に向けられたちくちくと刺さる囁き声を掻き消してくれるようで、満月は幾ばくか速度を上げて廊下を進んだ。音に近づくにつれ、それは確かなものとなっていく。
 お母さんの、音だ。
 満月は、心がざわつくのを感じた。幼い頃、亡くなった母であったが、確かに、台所に立って包丁で野菜や魚を切るその音は、満月の耳に鮮やかな記憶として残っていた。
 音の発生源だと思われる部屋の前に辿り着いて、満月は深呼吸した。部屋と廊下とを仕切る戸はなく、調理場は至って開放的だった。勝手に入って良いものかと満月は扉の前で右往左往する。せめて、戸が閉まっていたならば、ノックで簡単に来訪を知らせることが出来たというのに。
 駄目だ、と口内で一言する。こんな所で臆していたら、月の欠片どころの話ではない。
「失礼します」
 小さな声で調理場に呼びかけて、満月はそこに足を踏み入れた。とんとん、ぐつぐつ、じゃあじゃあという料理特有の音が響いている。旅館の中でも裏方的役割である調理場は、質素な作りをしていた。山のように並ぶ食器。彩り豊かな食材。しかし、その場を任された調理師の姿は中々見当たらない。それなりに大きな旅館の調理場ならば、数人の調理師が居ても良いはずなのに、と満月は更に奥に進む。
 そこで、満月はやっと一人の調理師を見つけた。後姿だが、風格漂うその背中から、その狐がかなり高齢なのではないかと推察する。
 調理師は、満月の姿をその瞳に認めると、細い目を更に細めた。睨まれているのかと、満月は身体を竦ませた。同時に、満月はその調理師が意外にも若い男であることに驚いた。年の頃は三十くらいであろうか。
 男は、満月の姿を捉えたにも関わらず、何にも言わずに再び背を向けてしまった。男も、他の狐のように月の者を嫌っているのだろうかと、無視された理由について考えてみる。けれど、男の眼は、嫌悪を表してはいなかった。
「あの、少しだけお時間を頂けませんか?」
 男は答えなかった。寡黙な人だ、と満月は一人思う。
「あの、お名前だけでも伺いたいんですけど」
 男は傍にあった大根に手を伸ばした。こちらを向く気配はない。
「……悪いんだが、出て行ってもらえないか?」
 男は、冷淡にそう言い放った。満月は一瞬怯むが、男の声に憎しみは灯っていない。都合の良い考えなのかもしれないが、これは彼の元々の性質なのだと思い込む。
「あの」
「ただでさえ不真面目な奴等だ。月の輩が居ると、もっと仕事をさぼる」
 男は、満月には理解の及ばないことを呟いた。どういうことか尋ねたが、返答はない。それから暫くの間は、大根を切る軽快な音だけが調理場で聞こえる唯一の音だった。
 これ以上ここに滞在しても、収穫の見込みはない。満月はそう判断し、お邪魔しましたと頭を下げて、その場を後にした。

 満月は再び情報収集を始めたが、他の狐たちは、悪意のある無視か罵倒の言葉を口にするばかりで、その日は何の収穫もなく終わるかに見えた。
 夜も更け、夕食を玉兎と共にする満月の部屋に、こんこんという控えめなノックの音が鳴り渡る。
「どうぞ」
 丁寧な辞儀の後、顔を上げたのは狐鈴だった。
「入っても宜しいでしょうか?」
「勿論」
 満月が快く返事をし、玉兎が奥から座布団を一枚持ち出した。狐鈴が、ありがとうと微笑んでから、座布団にちょこんと座る。
「どうしたの?」
「ええ。何か進展はあったかと思って」
 狐鈴の言葉に、満月と玉兎は顔を見合わせて苦笑いをした。
「やはり、そうですか」
 狐鈴は憂い顔だ。そう簡単なことではないと、狐鈴も分かっていたのだろう。
「あ、狐鈴ちゃん。私、聞こうと思ってたことがあるんだけど」
「何でしょう?」
 興味深げに、だが心配そうに狐鈴が答えた。彼女は、狐たちの満月や玉兎に対する態度について、懸念していた。
「ううん。悪いことではなくて。あのね、調理場に居た男の人……あの人は誰なのかと思って」
 狐鈴は、満月の言葉にほっとしたような様子だ。
「板長のことですね。彼はこの九尾亭において、食を担う板長を務めています。名前は端伎はぎ
「板長さん」
 身体に沁み込ませるように、満月はそう呟いた。
「若いのに、あれでいてとても料理上手で。無口ですけど、とっても素敵な方なんですよ」
「うん。この料理、本当においしい」
「でしょう? 九尾亭の自慢なんです」
 狐鈴が嬉しそうに、端伎のことを話して聞かせる。狐鈴が、本当に従業員を大事にしているのだということが、ひしひしと伝わってきて、何だかそれが酷くくすぐったく幸せなことに感じた。
「それで、板長がどうかされましたか?」
「何ていうか。他の方たちとは少し対応が違って」
 満月はあやふやな返事をした。的確な表現が見つからず、薄弱に笑う。
「板長は、そうですね。そういう人なんです。言葉が足りないことが難点なんですけど」
 狐鈴は悪戯に微笑んだ。満月もつられてくすりと笑みを漏らした。
「それで、その板長が……月の輩が居ると、もっと仕事をさぼるって。ええと。確か、ただでさえ不真面目な奴等が」
 記憶を手繰り寄せ、端伎の言葉を繰り返した。途端、狐鈴の顔は険しいものとなる。
「板前たちのことですね。彼らは特に月を、その、嫌悪していて」
 狐鈴は申し訳なさそうに目を伏せる。
「そっか。それで」
 月の輩などのために料理は作らないということか。事態を呑み込んだ満月は哀しげだった。
「まさか――!」
 唐突に、品良く座っていたはずの狐鈴が立ち上がった。先ほどまで、薄桃色だった頬は蒼白で、焦りと不安がごっちゃになった顔をしている。
「狐鈴ちゃん?」
 満月は狐鈴を見上げて、彼女の名を呼んだ。しかし、いつもは丁寧に返ってくる声が、何故だか今回は返ってこない。
 狐鈴はその切羽詰った表情のまま、畳の地面を蹴って、部屋を飛び出した。満月は訳も分からず、玉兎に疑問と驚嘆をその顔色だけでぶつける。
「追いかけよう」
 玉兎の声を聞くなり、満月は狐鈴と同じように部屋を飛び出していた。


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