月姫 鎌鼬の残痕[四]
漆黒の闇の中を、満月はひた走っていた。目が慣れても尚、夜陰の他に目視できるものは殆どない。僅かに見える物象と、己の感覚だけを頼りに、竹林を進む。朝の場景とはまた違う夜中のその場所は、神秘的というよりおぞましさを感じるほどであった。風の警告は、朝より強いものとなっている。
まだ、狐鈴の気配はない。本当にこちらで方向は合っているのか。そこが、曲がりくねり、幾重にも分かれた道であったことを、満月はすでに記憶していた。何度か、玉兎を振り返ったが、彼は疑いなくこの道を選んだ。何か、根拠があるらしい。理由を聞きたいのは山々だったが、生憎、満月は全力疾走をしつつ会話のやり取りが出来るほどの、持久力も器用さも持ち合わせてはいなかった。
肌を裂く風が、冷たく痛い。吸い込む空気には、矢尻でも含まれているようで、口の中には鉄の味が惜しみなく広がっている。だが、不思議と足取りは軽く、普段あまり運動をしない満月には、有り得ないような速さで地を駆けていた。
「光が……!」
満月は、竹やぶの向こうに青白い炎を捉え、叫んだ。しかし、その声を掻き消すものがあった。刑事ドラマでよく聞くような、女の金切り声だ。それは、演技をしている訳でも、ふざけている訳でもなかった。恐怖と苦痛が、地を這って伝わってくる。
「何?」
唇ががちがちと震えた。失速しながら、満月は問いかける。
「九尾亭の若い衆だ」
玉兎は冷静にそう言い切った。分かっていたことなのだろう。
「どういうこと?」
「僕たちが、脅かされたように、若い衆は輪の住人を襲っている」
「そんな、何故」
玉兎は項垂れた。そして、分からないと呟いて、力なく首を振った。
勢いを取り戻して、満月は竹やぶを掻き分け掻き分け、事が起こったらしいそこへ急いだ。
既に、狐鈴はそこに到着していて、地べたに座り込んでいた。綺麗だった着物はもう、泥まみれだろう。よくよく見れば、狐鈴は嗚咽を漏らしていた。赤の鮮やかな着物に、ぽたりぽたりと、滴が落ちている。満月は、迷わず、そこに駆け寄って、狐鈴の想像以上に小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
九尾亭の若い衆は、そんな狐鈴から目を背けるようにして立っていた。その内の何人かは、ちょうちんに灯を灯したようで、辺りは薄明かりによって、皆の顔が照らし出されていた。
罰の悪そうな顔、平然と振舞っている顔、狐鈴を気に掛ける顔。様々な顔があったが、心の奥底では皆一様に、狐鈴を心配し、犯してしまった罪を悔やんでいるような気が、満月にはした。
「何故? どうして……」
満月の言葉が、玉兎の真っ直ぐな視線が、若い衆を捉えた。悲鳴をあげた、輪の住人はもうここには居ない。恐らく、狐鈴が逃がしたのだろう。
「お前らが、言うか? 神は、月神は、何をやった? どうして、俺たちが、月属というだけで、卑しまれなければならない?」
狐の声に恨みと、憎しみとがこもる。
「それは……」
玉兎を振り返って、満月は驚愕した。玉兎の瞳には、微かな怒りが燃えている。
「月神様が私利私欲のために災いをなしたと、本気で思う?」
狐たちの中に、動揺の色を示した者がいることを、満月は見逃さなかった。
「事実、そうだ。神ともあろうものが」
笑いを漏らして、狐は言った。
「先代の行動の真実を、本当に理解してる?」
玉兎は、怒りを通り越して、泣きそうだった。
ふと、満月の腕の中で、ごそと何かが動いた。狐鈴だ。
「皆……戻って。何の罪もない人を、脅かして、何が変わるというの?」
狐鈴の声は、怒りと悲しみを封じ込みきれずに、だが、静かに響いた。若い衆は、顔を歪めたが、それでも何人かはその言葉に反論する。
「何の罪もない俺たちが、何故卑しまれる?」
「皆、目を覚まして。そんなの子どもの言い分と変わらない」
狐鈴はすっくと立ち上がった。満月の腕から離れて、狐鈴はきりりとした女将の表情を見せた。
「帰りましょう。九尾亭は旅館として優れていると認められているのだから。いずれ、沢山の宿泊客で賑わうはずです」
楽観視していると言われれば、それまでの発言だった。しかし、狐鈴の微笑みは、それが可能であるという希望を持たせてくれる。狐鈴はきっと、その希望のために、誰よりも尽力しているのだろう。全てを悲観視しているらしい若い衆は、一度狐鈴に歯向かおうとしたが、結局狐鈴に従った。
想像以上に、全てはややこしいみたいだ、と満月は周囲を見渡した。
どうすれば、事態は好転するだろう。日に日に、事情は複雑化し、満月の手には負えないものとなっていく。人の理解も、ものの理解も出来ないまま。
玉兎の言う、真実とは何か。それはきっと、全てを切り開く鍵に違いない。だが、それはどこに落ちているのだろう。
「月姫」
玉兎の呼びかけに、満月は顔を上げる。そして、視界に、玉兎の笑みが広がるのを、目を見開いて見つめた。
「行くよ」
手を差し出され、満月は頬の緊張を和らげた。
冷え切った手のひらを、玉兎に重ねる。それから、満月はああと嘆息した。
なんて、温かい。
氷のように満月を冷たく追い詰める不安も、冷え切っていた体温も、全てが溶かされていくような、そんな気がした。
九尾亭までの帰り道、玉兎に何故狐たちの居場所が分かったのかを聞いてみると、あの通りに化け物が出るという噂を耳にしたことがあったかららしい。それにしても、そんな噂が輪に流れているというのならば、狐たちの立場は危うくならないのか。元々、卑しまれるものとして認識されている狐たちの心象が、更に悪くなりはしないだろうか。
そもそも、何故狐たちは、輪の住人たちを襲っているのか。
九尾亭に着いて、若い衆はすぐに自室へ姿を消した。月の輩と時を共にしたくないというのが、彼らの言い分だった。幸い、仲居たちも、奥の仕事に取り組んでいるようで、こちらには現れなかった。狐鈴は、従業員が誰も居ないのを確認すると、倒れこむように柱に手をついた。慌てて、玉兎がその身体を支える。
「狐鈴ちゃんの部屋ってどこ?」
「奥に……個室が。でも、お風呂に入ってから、帰ります」
狐鈴の微笑みは、いつもと同じ野に咲く花のそれだった。しかし、この少女は無理をしているのだと、満月はすぐに悟る。恐らくは、従業員たちに疲労や傷心しきった姿を見られたくないのだろう。そうして、狐鈴は女将を務めてきたのだ。心の休まる時など、殆どなかったに違いない。
「こんな状態でお風呂なんか入ったら、それこそ倒れちゃうよ」
「でも」
狐鈴は、泥まみれの着物を磨き上げられた床に付けないように、裾を持ち上げながら、力なくそう呟いた。
「私たちが借りさせてもらってる客室。今日だけ一緒に泊まらない?」
玉兎に目線で可否を問いつつ、狐鈴に提案する。私たちがこんなこと言うのおかしいけど、と一言付け加えて、狐鈴の返答を待った。
それに対して、狐鈴はぎょっとしたように、満月を向いた。
「そんな。お客様のお部屋にご一緒するなど、言語道断です」
「その客が良いって言ってるんだから。たまにはちょっと甘えなよ。狐鈴」
何なら、僕は抜けて二人で過ごしても良いし、と能天気に玉兎は狐鈴に笑いかけた。
「でも、皆に何も言わずに外泊したら、きっと心配しますから」
狐鈴は迷わなかった。というより、迷えなかったのだろう。満月と玉兎は困ったように目を合わせる。
「俺が、適当に伝えておく」
背後からの突然の声に、満月は飛び上がった。玉兎は愉快そうに、狐鈴は訝るように、声の主を振り返る。
「……端伎」
狐鈴の声音は、珍しく揺れていた。
「でも、伝えておくって。貴方、口下手なのに」
狐鈴は元気を取り戻したのか、おかしそうにくすくす笑った。
「板前たちが、迷惑を掛けた」
端伎は、無表情で言葉を紡ぐ。
「料理以外のことなんて、気にしてないと思ってた」
狐鈴は、悪びれもせずに、少女の顔でそう言い切った。その様子に、満月は特別なものを感じて、黙り込む。
「少し、休め」
端伎は、そう言い残して、踵を返した。よく分からない人だ、と満月は苦笑する。だが、彼ならば、理解を得られることもあるかもしれないと、雀の涙ほどの期待を抱いた。
「狐鈴ちゃん」
「狐鈴」
端伎にやっていた目を、狐鈴はこちらに戻した。
「月姫様、玉兎」
少女は、優しい、ひだまりのような笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
それは、じん、と胸に沁みる言葉だった。
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