月姫 鎌鼬の残痕[五]



 狐鈴が着物を脱ぎに掛かると、玉兎は頬を染めて、その場からさっと姿を消した。それで満月は、玉兎も年相応の感覚を持っているのだと、今更ながらに再認識する。何だか、玉兎が玉兎ではないみたいだ。ふと漏れた円かな笑みが、去っていく少年の背中を優しく撫ぜた。
「板長さん……良い人だね」
 宿泊客用の浴衣に着替え終わった狐鈴が、少しだけ驚いたように満月を見返した。
「はい」
 はきはきと答える狐鈴の顔に浮かぶのは、幸福や歓喜という類の、満ち足りた表情。狐鈴は少し迷ってから、満月の隣に敷かれた座布団に、そっと座った。
「私は、現女将の子として、九尾亭に生まれました」
 追憶の糸を手繰り寄せ始めた狐鈴は、意外にも穏やかだ。
「じゃあ、女将は世襲制なの?」
「いえ、そういう訳でもないのですが……けれど実質、世襲という形になっていますね。より優れた格の女性が、若女将となり、後に女将として宿の顔となります」
 そういえば、女将の顔を見ていないな、と満月はおもむろに顔を上げる。目が合うと、狐鈴はふっと視線を逸らした。
「母は、一年ほど前に病んで、九尾亭の一線からは退いています」
 満月は、思わず聞き返しそうになるのを、すんでの所で飲み込んだ。それで合点がいく。本来ならば、女将が出てくるであろう事態で、場所で、いつもせかせかと働いていたのは狐鈴であった。この若さで、狐鈴は女将の代わりを務めていたのだ。何と言葉を返そうか、満月は暫し悩む。
「どうか、お気になさらず」
 狐鈴は微笑んで、月姫様はお優しい方ですね、と呟いた。
「母は、厳しくも優しく、正しく私を導き、若女将の座に就かせてくれました。ですが、まだ未熟な私にとって、その役はとても重いものでした」
 狐鈴の気持ちが、手に取るように分かる気がした。母のこと、そして、任された大役のこと。状況は違えど、感じてきた苦しみや葛藤は、多分、同じ所に回帰する。
「私も、幼い頃にお母さんが亡くなって。本当に、優しいお母さんだった」
 狐鈴は瞠目した。それから満月を食い入るように見つめる。
「まだ物心がつく前だった。本当に愛情を沢山、沢山貰ったと思う。でも、それに反比例して、お母さんは弱っていった」
 満月は、それでも微笑んで、狐鈴の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「月姫様というのは、幸福に満ちたものだと、そう思っていました」
 狐鈴がぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
「雲の上の存在で、悲しみとは縁がないものだと」
 満月は黙って、狐鈴の言葉に耳を傾ける。
「でも、違うんですね。月姫様は、ちゃんと色々なことを感じられるお心を持ち、私と同じように生きていらっしゃる」
 狐鈴は、何だか力が抜けたようだった。張り詰めていた訳ではないが、そこに存在していた緊張。それは、狐鈴が、次元の違う生き物だと思っていた満月に対する、一種の境界線だったのだろう。
「私も、つい最近までは、ただの学生だった。それが、いきなり月姫だとか、月の愛娘だとか言われても、意味が分からないでしょ?」
「ええ。私なんかよりも出来の良い仲居は、いくらでも居るのに、って何度も思いました」
 満月と、狐鈴は見つめ合って、それから同時にくすくすと笑い出した。
「それでも、私は月姫なんだって、今ではそう思うの」
 満月はどこかに駆けて行った玉兎を、意味もないのに探して、小さな声で、けれどはっきりとそう言った。自信は全くと言って良いほどないんだけどね、と付け足すと、狐鈴も私もです、と微笑んだ。
「月姫様、本当のお名前は何というのですか?」
 唐突な問いに、満月はしどろもどろになる。そういえば、最近、月姫という役職名のみで、本来の自分の名を呼ばれたことがなかった。
「満月。ええと、満ちる月と書いて……」
 満月の応答に、狐鈴は満足そうに表情を緩ませた。
「素敵な名前」
 さらりとそんなことが言える狐鈴が、眩しい。満月は思わず頬を赤らめた。
「あの」
 狐鈴と、満月の声が重なった。それがまた可笑しくて、けらけらと笑い合う。月姫様からどうぞ、と言われたが、こういう状況で、こちらから言い出すというのは、少しやりにくい。それに、狐鈴に伝えようとしていることが、どうしようもなく恥ずかしいことなのだ。人と関わることに長けていない満月にとって、ここで言葉を紡ぐのは至難の技だった。
「あ、あのね。もし良かったら、名前で呼んで欲しいなって」
 やっとのことでそう切り出した満月に、狐鈴は目を瞬かせた。
「私も……お呼びして良いか、お聞きしようと思っていました」
「なら、敬語もなしね」
 狐鈴は、満月の提案に少し迷ったようだったが、最後には結局「努力はしてみます」と宣言した。
 段々と近くなる距離が、嬉しい。
「そうそう、端伎の話をしようと思っていたのに」
 狐鈴は、いつの間にか逸れてしまった話題を、軌道修正する。
 丁度その時、客室の戸を控えめに叩く音があって、満月は狐鈴と共にそちらを見やった。きょろきょろと辺りを見回しながら入ってきたのは、玉兎だ。
「おかえり」
 満月が笑んで玉兎を迎えると、彼はほっとしたように歩いてきて、向かいの座布団に腰を下ろした。
 玉兎は、満月と狐鈴の関係に変化が生まれたことに気づいたのか、双方を交互に見つめた。
「何かあったの?」
 小首を傾げる玉兎を見やり、満月と狐鈴は互いに目配せをする。
「秘密」
 思わせぶりな台詞に、玉兎は納得がいかなそうだ。そんな玉兎を、狐鈴は楽しそうに、満月は慈愛の表情で見つめた。
「そうだ、狐鈴」
 どこか遠慮がちな玉兎の呼び掛けに、狐鈴は姿勢を正した。
「玉兎は、私の生い立ちなんて聞きたがらないもんね」
 狐鈴は、玉兎が言わんとしていることを、既に解しているようだった。それで、満月も、先刻の疑問を思い出して、狐鈴の憂い顔をそっと見つめた。
「九尾亭の若い衆が、皆を襲う理由、でしょう?」
「うん。あんなことを続けていたら、本当に狐が卑しまれることになってしまうよ」
 玉兎は、神妙な顔つきで、狐鈴に警告を発した。それは、さっき満月が感じた悪い予感と合致する。
「多分、彼らも、それを分かっていると思うの。でも」
 狐鈴は、激情に駆られたのか、言葉に詰まった。
「それでも、輪の皆に、どんな形であれ、認めて欲しくて。だから、あんなことを」
 狐鈴の言葉に、胸が、ざわついた。
 尊ばれるものと、卑しまれるものと。その間に出来た溝を、軽視していたのかもしれない。
 私は、何が出来るだろうか。月の再興を託された私に、一体。輪のために、出来ることはあるだろうか。
 当て所のない旅をしているように、満月は思えた。これまでで一番、己の無力を感じた時だった。

 やがて、狐鈴が再び回想録の一頁を開く頃には、満月も玉兎も押し黙っていた。
「端伎は、女将になるための修行を積む私のことを、期待や嫉妬で見ない唯一の人だった。というより、料理にしか興味がない人だったと言った方が適当かもしれないけれど。でも、私が、荒れていた頃のこの場所で、呼吸が出来たのは、彼のお陰だった」
 狐鈴の一言一言の重みを量り、己のそれと重ね合わせる。荒れていた頃、とは、狐が卑しまれるようになって、すぐのことを示しているのだろうと、察しがついた。
 月姫となってまだ日が浅い満月は、期待も、嫉妬もあまり感じてはいなかった。だが、それは日数の問題ではないのだろう。月の者――玉兎の期待を浴びているのは、常に感じている。けれど、月は民衆に、望まれてはいない。月が、卑しまれているということは、月の愛娘である月姫も卑しまれているということだ。期待をかける者も、嫉妬を燃やす者も、月の外にはほぼ皆無だ。
 対して、狐鈴は、九尾亭の従業員たちから、卑しまれるものとしての狐の位置を、変えてくれるだろうという期待を一身に受けている。ここが、狐鈴と、満月の間の違いだろう。
 狐鈴は、多分、様々な逆境を撥ね退け、若女将の座に就いた。それは、全ての者に望まれたことではなかっただろう。けれど、九尾亭の狐たちは、大方狐鈴に従っている。狐鈴は、若女将として、その素質を皆に認められた。
「だからね、ええと、満月、玉兎。料理馬鹿な彼なら、多分、何かしら協力してくれると思うの。あれでいて、結構情に厚い人だから」
 無口だし、冷たい印象を受けるかもしれないけれど、とぼそぼそ付け足す狐鈴が、可愛かった。
「この前は、板前のことがあったから、あの」
「うん。分かってるよ。また協力を仰いでみる」
 狐鈴を安心させるように、穏やかな口調で満月は告げた。
「ねえ、狐鈴ちゃん」
 にわかに、満月が呟いた。
「狐鈴で良いよ」
「うん、狐鈴」
 満月は、狐鈴を見つめた。細くたおやかな身体、柔らかそうな金色を薄めたような色をした尾、強い意志を感じさせる碧の瞳。嘘偽りなく、そこにあるのは、真っ直ぐな志だった。
「どうして、貴女は月を、私を憎まないの?」
 放たれた問いに、狐鈴が臆することはなかった。
「憎む、理由がないから」
 それは、同情でも憐れみでもなく、狐鈴自身の確かな気持ちだった。
「私はね、月と、月神様と、玉兎と、それから満月。貴方たちを憎む理由も、嫌う理由も見当たらないの」
 そう告げられた当人が訳が分からないとは、変な話だ。
 狐鈴は、いずれ全て分かると思う、と満月に告げた。振り向けば、玉兎も同調するように頷いていた。


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