月姫 鎌鼬の残痕[七]
満月と狐鈴は、暫しの間、互いに沈黙していた。満月は、盗み聞きのような真似をしてしまったことに罪悪感を感じていて、狐鈴はあまりの唐突な満月の登場に心底驚いていた。見つめあうこと数秒、先に動いたのは狐鈴だった。立ち塞いでいた部屋の入り口から、退いて、満月を中へと招き入れる。
広々とした部屋の真ん中には、雪のように白い布団が敷かれていた。そこに横たわっているのは、初老の狐の女性だ。布団の外に僅かに確認できるのは、痩せこけた頬と窪んだ目蓋。顔色は青白く、年齢以上に老いて見えた。病を抱えているということが、ありありと分かる。部屋から聞こえてきた会話から推測するに、女性は狐鈴の母親だろう。
「何か、ごめんなさい」
立ち入ってはならないことのように、満月には感じられた。狐鈴は微笑を浮かべて応じる。
大きく切り取られた窓からは、そんな若い娘二人を包むように、薄明るい日の光が差していた。
「何を気にすることがあるの」
そう言う狐鈴の目は穏やかで、満月を咎めるような色は片鱗さえ見せない。
「この前、話したよね。満月には、もうちょっときちんとした形で紹介したかったんだけど……母様よ」
狐鈴が母親に寄り添うように、畳に膝をついた。それにもたれるようにして、狐鈴の母は、やせ細った身体を、重たそうに起こした。満月は遠慮がちに、その傍に正座をする。
「何のお構いも出来ずに、申し訳ありません。九尾亭の女将を務めております、黄珠と申します」
こほこほ、と咳を伴いながら、狐鈴の母親の淑やかな声が響いた。患っていても尚、優美を思わせるのは、満月の母に似ている。
「初めまして、満月と申します。突然押しかけてしまって、ごめんなさい」
満月は頭を深く垂れた。
この人は、母と同じで、他人の前では決して辛い所を見せないような人だ。そういう人が病に苦しんでいる時、満月のような全くの他人がこうして現れてしまうのは、相当酷なことだろう。
「月姫様、どうかお顔をお上げください」
おずおずと、満月は伏せていた顔を、病床に向けた。二者の視線が、交わる。狐鈴の母――黄珠は、とても優しい目をしていた。
「七年前――狐鈴が、まだ六つの頃です。その頃にはもう、輪国に尊ばれるもの、卑しまれるものという観念が蔓延してしまっていて……私たちの立場は弱いものになっていく一方でした」
色を持った輪国が、黄珠の口から語られる。
「そんな時、狐鈴が病を患いました。流行り病だったのですが、輪にはお医者様はそう多くおりません。病の治療にも、優先順位がつけられ、診てもらえるのは日属のものばかり。月属である狐鈴を治してくれるお医者様など皆無でした」
黄珠は愛しそうに狐鈴の頭を撫で、満月に向かって笑んでみせた。
「月姫様、月神様がどんな方が、ご存知?」
意外なことを問われて、満月は狼狽えた。
月神様といえば、強引で傲慢で……。威圧的な低い声は、他を排するように。冷徹な瞳は、全てを見透かすように。あまりにも違いすぎる容貌と纏う雰囲気に、満月は畏縮してばかりだった。
だけど、と満月は目を瞑った。
「怖い人だと、思っていました。ありえないくらい整った顔をしているし、強引に事を進めるし、人の言葉は聞かないし。でも、あの人……玉兎と同じで、とてもとても哀しそうな瞳をしているんです」
興味深そうに母娘から目を向けられて、満月は何となく言葉に詰まる。
「ふふ、満月、月神様が気になるんでしょう」
狐鈴のからかい混じりの言葉に、満月は頬を赤らめた。
「ち、違うってば」
そういう、恋情ではない。
月神が、気にならないと言ったら嘘になる。どうしたって、こちらの世界に呼んだ張本人は気になるし、そういう事情抜きに考えても、彼の一挙一動にどこか引っかかりを感じられずにはいられない。けれど、それは恋心とは違う。
「月姫様をからかうのではありませんよ、狐鈴」
黄珠は娘にそう口を酸っぱくするのだが、狐鈴は嬉しそうに笑うばかりだ。
「すみません。この子、同世代の女の子の友達というのに今まで縁がないものでしたから」
その裏に秘められた意味を知って、満月の心に黄珠の言葉は妙な重みを持ってすとんと落ちてきた。
卑しまれるものとして、狐鈴はこれまでを生きてきた。外との関わりなんて、ろくに持てなかったに違いない。九尾亭に同じ年頃の少女はおろか、男の子さえいないのだから、狐鈴はずっと寂しさを感じてきたのだろう。
ここでは、満月にとって当たり前のことが、崩壊していた。
私は、沢山のものに囲まれた世界で、どうして何も築けなかったのだろう。不意に押し寄せる後悔に呑まれそうになって、満月は目を伏せた。
「いいえ、私も、狐鈴のような子と仲良くできて、本当に――本当に嬉しく思っています」
「満月……」
少し驚いたような狐鈴の顔に、照れくささが隠せずに、満月はくしゃっと笑った。
「あら、嫌ですわ。話が脱線してしまって」
黄珠はそう呟くと、七年前のことについて再び語り始めた。
「狐鈴の病が身体中を侵し、周りが諦めかけた時でした。私だけは、やはり母親だから、でしょうね。諦めきれずに、お医者様を探して、訪ねて廻って。それでも、どうしようもならなくて……恨んでいた、月神様を訪ねました」
「母様」
月姫の前だと咎める狐鈴の声に、黄珠がそっと首を振る。
「月姫様には、全てを知る義務と、権利があるのですよ」
黄珠が静かに放った一言が、重く腹に応えた。
知らないままではいられないのだと、知らないままにはさせないのだと、そう言われたような気がした。
「月神様に、私は散々暴言を吐いたものです」
黄珠さんが? と満月は開いた口が塞がらなかった。この貴婦人がまさか、暴言を吐いたりするものだろうか。どんな人物を相手にしても、黄珠は声など荒げないと思い込んでしまうくらい、黄珠の態度は大和撫子そのものだというのに。
「私も、無知だったのです。今の輪国の多くの民が、真実を知らずにいるように」
「真実……」
知らぬ間に、言葉が口から飛び出ていて、満月は驚きを隠せなかった。それだけ、真実という単語は満月の心を捉えるものなのだろう。
玉兎の言う真実に、私はどれだけ近付けるだろうか。
「月神様は、私を怒鳴りも見捨てもしないで、狐鈴の病を取り払ってくださいました」
「月神、様が……?」
「ええ」
戸惑いを隠せずに、満月は彼を想った。
あんな怖い人だけれど、この国の神様、なんだもんね。
当たり前のことが浮かんで、満月はふっと微笑んだ。これまでの月神の発言を思い出せば、彼が民を大事にしていることくらい、簡単に推察することが出来た。
それが、狐鈴と黄珠が、月を憎まない理由だろうか。
「月姫様。聞いて、いただきたいことがあります」
黄珠の表情が、突然、険しいものになる。
「月神様は、病を取り払ったというより、病をお身体に吸収したのだと私は思うのです」
黄珠の青白い顔に、追い討ちをかけるように影がさした。
「それについて、月神様は肯定もしませんでしたが、否定もしませんでした。ただ、私はあの日、月神様の手のひらの中に消えてゆく黒いものを見たのです」
それが、どういうことか。予測出来ないほど、満月は馬鹿ではない。いくら神様でも、それは無茶なことではないのだろうか。あの人を蝕みはしないのだろうか。玉兎があんなにも月神を心配するのは、そういった月神の無鉄砲なところも関連しているのではないだろうか。
まだ、片手で数えるほどしか会ったことのない月神が、何故か心配でたまらない。
「失礼は承知の上です。ですが、月神様は、今、お独りなのだと私は思うのです。民に卑しいとされ、それでも、月神様は民を思われて」
独り。ねこばあの館で、月神について満月が感じたこともそうではなかったか。それが、第三者の見解と共に、更に現実味を持って満月の前に示された。
あの人を、どうにかして暖かな光で包んであげたい。胸に迫る思いが、涙腺を緩ませる。
「本当に満月が、この輪国に来てくれて、良かった」
狐鈴の言葉が、優しくて切なくて暖かかった。
BACK | TOP | NEXT