月姫 鎌鼬の残痕[八]



 一人部屋に残された玉兎は、小さな溜息を吐くと、そよとも風のそよがない閉め切られた窓を開け放った。豊かな自然の匂い、人々の呼吸の温度。どれも、玉兎が愛してやまないものであったが、それらはずんと沈んだ情緒をも漂わせていた。輪国の夜明けは、遠い。だが、その暗く重い闇を、照らす光が朧ながらに見え始めたのもまた――。
 初めは頼りなく見えた。しかし、着実に前へ前へと進もうとする確かな志が、包み込むような愛に溢れた人格が、彼女が月姫なのだという確信に導く。
 そして――。彼女ならば、固く閉ざされた月神様の心を、解かすことが出来るかもしれない。輪国の神として生まれ、生まれながらにして侮蔑と嫌悪のただなかに立たされた淋しい男の、深い孤独を。
 
「玉兎。私、外に、行こうと思うの」
 玉兎の待つ部屋に帰ってきた満月は、開口一番、そう述べた。玉兎は、突拍子もないその提案に、ずっこけそうになった。
「月姫、外は」
 満月にとって、更に辛いものが待ち受けているのは明らかだ。満月が輪国にやってきたあの日は、極力、人との関わりを避けた。だから、罵声を浴びせられることも、民衆の怒りに触れることもなかった。だが、今、満月が言う外に行くとは、民と交流をするということだ。
 満月は、人に憎悪を向けられることに慣れてはいない。この、隔てられた九尾亭でさえも、満月は息苦しそうにしていた。そんな彼女が、果たして開いた空間に出て、直に罵詈雑言に晒され、耐えきれるであろうか。
「玉兎。私は真実が知りたい。そして、貴方とあの人を助けたい。何だか大きなこと言うけど、選ばれたからには……ううん、ここに来たからには、月を、輪国を救いたいの」
 真摯な言葉に、玉兎は瞠目した。
「うん。そう思ってくれるのは、凄く嬉しいよ。だけど」
「玉兎、私は全てを自分の目で見て、聞いて……それで判断したい」
 即興の感情などではなかった。満月がこの世界にやってきて、そして様々なことを見聞した結果、出した結論だ。それを否定できるはずがない。
「私、この九尾亭での一件が落ち着いたら、月神様ともきちんと向かい合って話そうと思う」
 満月の言葉の端々に、前向きさが垣間見えた。少女は、ゆっくりと一歩を踏み出し、そして今、走り始めた。その真剣な思いを受け取り、更には、返す時が来たのかもしれない。満月はきっと、全てを受け入れるだろう。そのうえで、真実を見つけ出すだろう。木の葉に埋もれた、密やかな野花を探り当てるように。或いは、岩盤に隠された、小さな小さな原石を掘り当てるように。
 だが、真実への道しるべを示すのは、玉兎一人であってはならない。
 満月は、全くそうと考えてはいないようだが、本来、輪国において、月姫の地位は高い。彼女の結論が、月の者によって用意されたものになってはいけない。無垢なる異邦人は、唐突に国の行く末をも左右する、月姫への変貌を強要された。国を脅かす禍、民草の心、中枢に身を置くからこその惑い、全てに背を向けていては、月姫は務まらない。だからこそ、満月が自分で感じ、考え、真実を見つけ出さなければならないのだ。
 ――最後の布石を打つのは、きっと、月姫を呼んだ月神様自身。
 満月を小娘と評した彼の評価は、変わるだろうか。答えは、明らかだった。
「怖く、ない?」
 茶化すような玉兎の台詞に、満月は笑った。
「怖いよ。でも放っておけないでしょ」
 穏やかな時間が経過する中で、何かが音を立てて、紛う方なく動き始めていた。

 狐鈴に街へ繰り出すことを告げると、一緒に付いて行きたいと懇願された。
「私たちは、外の世界に怯え、全てを過去や社会の所為にし、九尾亭という殻に籠ってしまったの。変わるのなら、まず若女将である私から変わらないとね」は狐鈴の言い分であった。
 狐鈴も随分無茶をするものだと、満月は玉兎と顔を見合わせた。満月や玉兎が輪や月を思うように、狐鈴もまた、九尾亭を思っていた。
「若女将」
 突然の声に、一同はぎくりと肩を震わせた。街へ出るなんてことが従業員に知れたら、猛反対されることだろう。
「何だ、端伎だったの」
 狐鈴はふぅと息を吐いて、緊張の糸を解いた。それを合図に、満月と玉兎もほっと息を吐く。
 端伎は、物言いたげに眉間に皺を寄せて、狐鈴を見下ろした。
「お前一人では、危ない」
 真剣な眼差しだった。狐鈴もまた、含みを持った眼で、端伎を見上げる。自然に、狐鈴がこの前言っていた言葉が思い出された。
 期待や嫉妬で見ない唯一の――。その関係が如実に表れた光景だった。
「子供扱いしないで」
 きっぱりと狐鈴は言い放つ。他の言葉を許さないような言い様に、満月は息を呑んだ。どう見ても、狐鈴は満月より幼い。だが、そのような認識を一切はねのけてしまうような強い意志が、びしびしと空気を打った。
「もう、守られるだけではいられないの。私は仮にも若女将よ。皆を守る立場になったの。こんな哀しい現実を変えたい。私が行かなくて、誰が行くの」
 端伎の無表情な顔に色が灯る。狐鈴の言葉は、九尾亭の関係者でない満月や玉兎をも、はっとさせるものだった。
「俺が、否、俺も行く」
 途端に、狐鈴の瞳が柔らかく端伎を映し出す。
「嬉しいけど、貴方はここで待っていて。九尾亭の留守を預かる人が必要だもの」
 それは、絶大なる信頼を意味していた。端伎はまだ眉間に皺を寄せていたが、遂には目線を狐鈴から逸らした。ふいと狐鈴の頭に置かれた手は、職人の手をしていたが、狐鈴を安心させる熱を持っていた。
「今回はお前に従う。だが、何でもかんでも一人で抱え込むな」
 狐鈴の瞳が濡れたのを、満月は見たような気がした。
 何だか、こんな関係が羨ましい。私はこの国で、どんな関係が築けるだろうか。狐鈴のように、良い人を見つけることが出来るだろうか。
「行ってきます。留守をよろしくね」
「……ああ」
 そうして、満月たちは、外の土を踏んだのだった。

 まだ九尾亭での生活を始めて、三日と経っていないというのに、外の空気がどこか身体に馴染まなかった。まるで、満月が九尾亭に籠っていた間に、世界が変わってしまったように。
 真っ黒い月と、遠く向こうの美しい日の光が釈然としない情景を描き出している。風の音が静かなためか、森はたまに僅かに鳴き声を立てる程度で、警告らしき音は響かない。赴くのは、敵地ではなく、この国を生きる者たちの集う町。その者たちの言を、心を知りにゆく。憎しみは何によって生まれ、どのようにして民衆を切り裂いた差別が産声を上げたのか。その先の、先に、きっと真実が見える。
 竹林を抜けると、一層日光がその熱を上げて満月たちを照らし出した。遠く向こうの緑の山々、近隣を舞い散る桜の花びら。あの日通った畔道から、満月がつけてきた足跡を辿ることはもう、不可能となっている。
 稲穂を啄んでいた雀たちが、満月と玉兎に気づいて、音を立てて飛び去った。雀が向かう先は、この地域で一番人が行き交う場所だという商店街だろう。手厚く歓迎を受けそうだ、と満月たち三人は互いに視線を交わした。
 左の肩を、右の手のひらで強く抱く。
 大それたことを言ったが、本当は凄く怖い。まだ会話さえしたことのない輪の住人たち。何を思い、何を憎み、何に泣くのだろうか。こんな自分に、彼らに会う資格はあるのだろうか。九尾亭の時のように、会うだけで彼らを傷つけ、憎悪を抱かせてしまうのではないだろうか。
 満月の目に、ふと、狐鈴の指先が震え、玉兎の顔に悲痛が浮かんでいるのが飛び込んできた。
 同じだ――。呟きそうになって、満月はそれを呑みこんだ。小さな二人も、己と闘い、国に変化を求めている。全ては、他を思う強く優しい心が原動力だ。
 月神は、月を、輪を救えるのは満月しかいないと言った。玉兎は、真実を見つけて欲しいと告げた。ねこばあは、満月がそれをやり遂げるだろうと信じた。卑しまれるものとされた狐一族の中に、月を信頼する者が居た。
 私が思うべきは、思いたいのは――月を含めた、輪の全て。今ある輪の形が、真実とはずれたものだというのならば、それを正したい。歪みのために泣き、心に闇を抱いてしまった人々を笑顔にしたい。
 逃げてばかりだった弱い自分と、知らず知らず壁を用意していた自分と、別れを告げて。先へ進むための手がかりを探しに行こう。


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