月姫 鎌鼬の残痕[九]



 始めの日、あれだけ賑わっていた商店街は閑散とし、不穏な湿り気を空気に孕んでいた。風音はけたけたと笑い声をあげ、遠く向こうで雷光が空を引き裂いた。気のせいか、満月の足どりも次第に慎重なものとなってゆく。
 飲み屋の前にきて、満月はそこから漏れてくる温かな匂いにはっとした。すかさず、玉兎が店の戸をがらがらと音を立てて開けた。やはり、そこにも人影はない。しかし、そこには店でつくられてから間もないであろう酒のつまみのいくつかが、カウンターに並べられていた。
 雀のもたらした報せが、街中の人々を動かしたのだろう。それは、雀の権限が高いことを意味するのか。それとも月の者が来たという報せの内容そのものの重要性を意味するのか。前者の影響が多少はあったとしても、後者の方が断然納得出来てしまう。
 更に注意深く、商店街の裏路地を抜け、中央通り近くに差し掛かった。商店街の中枢辺りから、辺りを窺うようなひそ、ひそという調子の音の切れ端が聞こえ始める。満月たちが近付くにつれ、次第に大きくなっていくその音と共に、虚空からぱらぱらと細雨が降り始めた。
 商店街の中枢では、人々が周囲を警戒していた。中には石や棒を手にしている住民もいて、満月は飛び出して行く踏ん切りが中々つかずに、玉兎を振り返りそうになった。
 駄目だ――。逃げないと決めた。弱い自分に負けたくなかった。ここで甘えたら、失望される。輪国の人たちにも、すぐ後ろで満月の背中を見ているであろう玉兎にも。何より、数秒先の自分が、それを後悔するだろう。そんなことは、したくない。自分の決意がそれだけのものだったとは、絶対に思いたくない。
 玉兎と狐鈴の整った息遣いを聴覚に感じる。無意識下で呼吸を合わせ、一、二、三――満月たちは人々の前に躍り出た。
 人々が息を呑むのを、肌で感じる間もなく、投石が開始された。制服に覆われていない柔な部分に小さな、小さな傷がいくつも出来てくる。血液が滲み、僅かに抉られた肉が、痛んだ。次に飛んできた木材は、満月の肩を強く打ち、地面へと落下した。
 人々の顔には、憎しみと哀しみとが折り重なり、頬を伝う雨は、まるで彼ら自身が流す涙のようだった。
 それに比べれば、きっとこんな小さな傷なんて、全然痛くない。何も知らずに月姫の座に就いた私が、辛いなんて言えない。言えるはずがない。
 満月は毅然と前を向いた。
「私が、月姫です。貴方たちと話をしに来ました」
 驚くほど、満月の放った声は落ち着いていた。怒りも哀しみも憐みも何もなく、ただただ、覚悟がそこにあった。人々の攻撃が、一旦止む。
 誰かが「月姫」と呟いたのを皮切りに、人々は口々に思い思いの言葉を発した。それで正気を取り戻したのか、数人がこちらに向かって再び小石を投げ始めた。鋭利な刃物のような形状をしたそれは、満月の頬をぱっくりと裂き、首元を掻き切るように滑った。
「よく、その姿を晒せたものだな」
 誰かが静かにそう言った。満月は何も返さなかった。玉兎も、満月の気持ちを汲んだのか、黙り込んで真っ直ぐに人々の顔を見つめる。
「家族も、村の者も、全て死んだ。月の所為で……!」
 絞り出された声は、怨恨に染まっている。
 村が――? それは、どういうことか。聞きかけて、やめた。
 既に、頭が混乱している。どういった切り口で、輪国民の意見を収集すべきか。そんなことまで考えていなかった、浅はかな自分の考えを叱咤する。
 どういうことだと問い、何も知らない自分を告白すれば、この目の前の人々は酷く憤り、傷つくだろう。反対に、上っ面で取り繕って、この輪という国に住む人々の話に、適当に相槌を打つという場合、彼らに平気で嘘を吐くということになる。告白するか。嘘を吐くか。どちらの選択も、したくなかった。
 過去に、何も知らぬ自分を露見させた時。九尾亭の仲居は、ご自身の責任――つまりは月の、月姫の責任を分かっていないのかと言った。あの仲居が、吠えたのは、怒りではなく失望によるものだと今ではよく分かる。満月の与り知らぬ所で起こった何かの責任を、説明をされていない満月が知らないのは当然のこと。しかし、関知していないことだと開き直れるような根性は持っていないし、持ちたくない。
 もしも、嘘を吐く場合。当り触りなく、事は運ぶかもしれないと直感的に思った。月を罵倒する言葉は、この場に満月が留まる限り、聞くことができるだろう。それだけでも、十分な情報を回収できる可能性は大いにある。民を傷つけることも失望させることも少ないかもしれない。
 どういう決断を下すのが正しい? そもそも、正しいとは、何だ。本当に、輪を思うなら、どう行動する?
 ――お前しか居ない。
 響いたのが、月神の声だと知るのに、数秒を要した。何故、今。狼狽した満月の脳裏を掠めたのは、玉兎の濡れた真っ直ぐな瞳だった。
 そうか、と息を吐く。
 真実を見つけるのは、私自身。私しか居ないと言った月神を、私は信じる。
「話を、中断させてしまってすみません。でも、私から、貴方たちに聞いてもらいたい話があるんです。どうか、聞いていただけませんか?」
 玉兎は、満月の一回り大きく成長した背中を眩しく見つめた。彼女はきっと言うだろうと、どこかで思っていた。真実を掴むのに、自身を取り繕うような真似は、あの真っ直ぐな性質が許さないだろう。
 静まり返ったその場に、雨の音だけが煩い。
「私はついこの間まで、ここではない国で、学生という身にあって、輪国のことは何も知りませんでした」
 それについては、人々も周知のことのようで、特に反応は示さなかった。
「でも、ある日、玉兎が現れて、私をこの国に導き、月姫の座に就かせました。私はその日から、月の人にまもら――そう、守られて。この国について何も知らずにいました。例えば、輪国の過去とか。現状を」
 それが輪国にとって、現在大きな問題となっているであろうことは、予想に容易い。月の過去が、現在の差別という問題を引き起こした事実は、もう知っている。
 満月の婉曲だが的確な言い回しから、それを察した人々は、一様に苦い表情を浮かべた。
「それから、今も。私は貴方たちの哀しみと憎しみの理由を、よく知らない」
 ざわめきが、いかずちのように駆けて行った。
 最初に、信じられないというような瞳が、満月を穴が開くほど見つめ、次に、怒りが沸き起こった。そして――失望。
 投げつけられた小石より、その事実が、痛い。それでも、揺るがないでいられるのは、これまでを支えてくれた人たちの言葉が、しっかりと胸に刻まれているから。
「こんな、月姫で許されるはずがないと思います。こんなことを打ち明けるのも、私の勝手で、貴方たちに向ける顔がない」
 結果、彼らを傷つけ、失望させた。その事実は、覆されないし、正当化もされないだろう。
「だけど、私は貴方たちの口から、貴方たちの言葉で、全てを聞きたい。何があったか。そして何を思うのか」
 人々の反応は、様々だった。
 だが、話ができる程度まで、人々の敵意が消えている。月による言葉でなく、輪国民の言葉を。その満月の意志は、多少なりとも伝わった。

 ぽつり、と誰かが呟いたのはその時だった。
帛鳴びゃくめいという名の、予言者がいた」
 言葉はそこで途切れ、次は高い女の声が響く。
「その予言者は、輪に降りかかる病や災害をことごとく予知したわ。皆、予言者を頼り、神もその言葉を信頼してわざわいを早い段階で退けた」
「でも、ある日予言者は天をも神をも裏切るような予言をした」
曜神ようじん転じてしょくとなる。異邦にその翳りあり。やがて蝕は日輪を覆い、月輪を覆い、輪国より光を排するであろう」
 幼い声を振り返ると、玉兎が真っ直ぐに満月を見つめているのが分かった。周りを取り囲む人々の顔色は、一瞬にして青ざめる。玉兎の放ったその難しそうな文字の羅列は、人々に大打撃を与えたようだった。
「曜神っていうのは、月神様のように、国を守る神様のこと。日輪と月輪は、輪国の象徴である日月のことだよ」
 玉兎の噛み砕いた説明が有難い。
「それじゃあ蝕って?」
「禍の象徴のことだよ。帛鳴がそう名付けた」
 玉兎はそこまで言うと、満月の視界からすっと消え去った。過剰な月の介入は、判断を誤らせるという玉兎の見解だろう。
「つまりは、神様が禍となる可能性があって、異国でその疑いを持つ神様が現れたってこと? 輪国より光を排すっていうのは、日月の光を排すってことだから……」
「神の死を意味する」
 低い声が己の発した言葉に戦慄した。満月も、遅れて冷水を浴びせられたように、背筋をぞっとさせる。
 ……月神の、死――?
 まさか、と口走りそうになって、満月はぎゅっと口をへの字に結んだ。まだ、聞きたいことが沢山ある。
「でも、そんなことあるわけないでしょ? 馬鹿馬鹿しい話よ。帛鳴の狙いが何だったのかなんて知らないけど、帛鳴はその予言によって輪国に混乱を招こうとしたわ」
 女の言葉に、満月は首を捻った。
「待って。どうして予言を信じなかったんですか? 帛鳴の企みがばれたとか?」
 満月の疑問によって、人々の輪の中に、再び喧騒が生まれた。
「ばれるもばれないもないよ。予言を一回聞けば分かることじゃんか。だって、曜神が蝕なんてものになるなんてことは、絶対にないもん」
 玉兎とそう年の変わらない猿の子が、当たり前のことを告げるかのような表情で満月を見上げた。
「何で、そう言いきれるの?」
 呆れ返った人々の様子にも、納得がいかない。
「この世界において、国は曜神の存在で成り立っています。曜神がいなかったら、この国はそもそも存在し得ないのです。曜神がそんなものになったら、この世界そのものの存在自体が危うい」
 そう言ったのは、子供たちに取り巻かれている男だった。粗末な身なりをしているが、発言を終えてから、子供たちに尊敬の眼差しを送られていることを考えれば、教師をしていると推測するのが妥当だろう。
 満月の母国である日本では、神は実在していなかった。考え方や価値観に違いが出るのは、おかしいことではないかもしれない。しかし、どうも素直に頷くことができなかった。
「それはまるで、神が決して間違わないとでも言っているみたいです」
 満月の反論に、人々は瞠目し、恐れを滲ませて満月を窺い見た。その中で、教師の男だけが、興味深そうに満月を観察する。
「面白いことを、仰る。それならば、貴女の国では、神は間違うのですか?」
 そもそも、質問の内容がまず間違っている。
「神自体が存在しません。宗教として神の信仰はあったけれど。そうですね……私の国では特に、神の存在は神話の中のおとぎ話のようなものでした」
 それに、と満月は心の中で付け足す。
 輪国に実在する神を見ても、満月の国で言うような、いわゆる神様だとは思えない。あんな風に、感情の起伏を見せられて、全知全能でないばかりか、異国の女子高生であった満月を頼る。
 あれは、神というよりも寧ろ、人間に近い。輪国民にとって特別な存在であるということも鑑みても、元を辿れば人間の腹から生まれた国民と何一つ変わらない、王というイメージの方がしっくりくる。
 教師は暫く、怪訝そうに眉を顰めていたが、
「そうですか」と短く返答した。
「私の国では、いえ私が住んでいた世界の歴史の中で、国を治める統率者は、何度となく間違いました。だから、疑いなく神を信じる貴方たちに、何か引っかかるものを感じるんだと思います」
 戦乱が起ころうが、流行り病が蔓延しようが、日月が全てを取り払い輪を守る。ねこばあの言葉を思い出して、輪国が満月の暮らしていた場所とはあまりにも異なることを、再認識させられた。
 この国では、神が全てを左右する。
 そして、国民は神を半ば狂信的に信じる。
 満月は、またも疑問の吹き溜まりが渦巻いたのを感じ取り、口を開いた。
「貴方たちの言葉を聞いていると、神を強く信仰しているように思えるけど、実際は皆、月神を憎んでいる。矛盾しているように思えるんですが」
 いくつもの容赦ない笑い声が、雨音に紛れた。思わず構える態勢になった満月は、何が何だか分からない。
「俺たちがこの国の曜神として認めているのは、日神ひのかみ様だけだ」
 日神様――その一言がどくんと胸を打ったのは、気のせいではない。
 ねこばあは、玉兎は、輪国が日月で成り立っていると言った。その片方に、月神という神がいるならば、もう片方にも日神という神がいて然るべきだろう。そのことに気付けなかった自分が、情けない。
 ならば日姫と呼ばれる者もいるのだろうか。段々と速くなっていく鼓動を抑えきれずに、満月は次の言葉を待った。
「先代の月神は、愚かにも帛鳴の世迷言に乗せられ、禁忌を犯し、自らが禍となって輪に悲劇の時代をもたらした」
「あの時代、国には流行病が跋扈ばっこし、貧困と災害が体力と気力を、芯から奪っていったわ。老人も子供も、皆死んだ。作物が実らなくなった畑、淀んだ川。緑は芽吹かなかったし、正気を失った民が、武器を振り回した」
 すすり泣く声が、雨音よりも耳を打った。
「日神様は、それをお一人でどうにかしようと必死で戦われた。今日の安寧があるのは、日神様のお陰だ」
 その言葉の根底にあるのは、強い信頼。希望という名の、光。
 強い眼差しからは、誰もが日神を愛し、そして月神を蔑んでいるということが見て取れた。揺らぎそうになる。足元をじわじわと侵食されていくような、ぐらりと世界が回るような、両足で土を踏んでいるのが嘘のように思える感覚。
 私はどこに身を置いている。まるで自分が悪者になったような、いたたまれない気持ちだった。
「現月神は、再びその悲劇を繰り返そうとしている」
 救いようのない言葉が響いたのは、まさにその時だった。


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