月姫 灯火、囚われの孤高[二]



「ただいま」
 かじかんだ指先で玄関の扉に手を掛け、一気に引いた。もわん、と漂ってくる暖気が、満月を迎え入れる。数週間仕事を休んだ父も、今は職場に復帰し、また大きな家には満月一人となった。正確には、ちゃんと二人居るのだけれど、やはり、滅多に顔を合わせることは出来ないだろうから、一人という表現の方が合っている。
 凍りついたような足先を廊下に滑らせ、洗面所に入る。石鹸を泡立て、念入りに手を洗い終えると、満月はセーラー服の胸当てをまさぐった。紅い傷に気づいてから、ずっと考えてきたが、これは多分満月が輪国に赴くことになったことが、関係している。それは洗濯物の裏に玉兎を見つけた時のことなのか、輪国の地を踏んだ時なのか、はたまた月神に出会った時のことなのか。否、それよりも何故、このような傷が満月の身体に刻まれたのか。
 鏡の向こうを凝視していた満月は、諦めたようにその身を洗面台から離した。
 やめよう。考えていても埒が明かないことだ。
 満月は、鞄を背負い直して、よろよろと自室に向かった。主の居ない間も、父が掃除しておいてくれたおかげで、埃一つないベッドに倒れ込む。
 頭の中を、里菜の言葉がぐるぐると廻っている。自分も、ただの高校一年生にしては、少し常人とかけ離れた人生を送ることになったと自覚している。しかし、長永京華の噂が本当ならば、それもまた――哀しいことだと思う。ただ、あんな一つの噂でそれを丸ごと信じるというのも、全く馬鹿な話だ、と輪国を訪れたことで気づいた自分が居る。以前の満月は、そんな疑いはどうあれ、多勢の意向に流されてしまっていた。
 けれど、自分の眼で見、自分の耳で聞くまでは。
 窓の外を振り仰ぐ。輪国の真実は、どこにあるのだろう。輪国の民の心中、日神側の動き、輪国の過去……やっと、何かが見え始めてきたという所で、輪国から切り離されてしまった。
 私しか居ないって、私が必要だって思って、良いんだよね?
 輪国のために、月のために、何が出来た訳でもない。けれど、この引力が、ぷつりと切れてしまうまでは、そう思っていたって罰は当たらないはずだ。だから、もう一度。こんな中途半端に、終わらせたくない。終わらせない。
 何か、出来ることは……。どこか頼りない光を夜陰に溶かし込んで三日月が現れると、満月は苦笑を漏らしつつも、つと立ち上がった。

 翌日の昼休み、溜まった提出物を職員室に出し終えた満月は、人気の少ない冷たい廊下でそれを目撃した。がらの悪そうな男子生徒数人が、長永京華を取り囲んでいる。直感で、まずい、と思った。
「お前みたいな汚ねぇのを買ってる奴らには、いくらでも差し出す身体だろ」
 げらげらと下品な笑い声が木霊する。上履きの色から判断すると、上級生。そういう話はあまり得意でない満月だったが、このまま放っておく訳にもいかない。対処の仕方を考え付く前に走り出したことを後悔しつつも、満月は男子生徒たちの間を縫って、京華の腕を引っ掴んだ。京華の双眸が、刹那の揺らめきを見せる。
「長永さん、先生に呼ばれてたでしょ。早く行こう」
 有無を言わせない口から出まかせの言葉を並べ立て、満月は無理矢理京華を引きずった。
「おい、お前」
 男子生徒の指が、満月の肩に掛かる。振り払おうかと一瞬考えたが、もっとややこしいことになりそうだったので、極上の笑みを顔に貼り付けて振り返った。
「何でしょうか」
 男子生徒の瞳が、怯んだような微弱な光を灯した。その隙に、満月は猫のように筋肉質な男たちの間をするりと抜け、職員室の方へ逆戻りした。一応、形だけでも職員室に向かった方が賢明だろうという判断だ。
 階段を下り、薄ぼんやりとした踊り場で、京華は満月の腕を振り解いた。反射的に振り返れば、強い光を宿した漆黒が睨むようにこちらを見つめていた。
「大丈夫? あの、勝手なことしたって思っ」
「そう思うなら、今後一切私に関わらないで。余計なお世話よ」
 そう言い放った京華の瞳には、月神と同じものが滲んでいる気がした。冷たい拒絶も、まるで彼のそれを再現しているようで。満月の胸に、小さな棘が数本突き刺さる。
「――ごめんなさい。だけど」
 俯いた満月が、顔を上げると、京華の姿はもうそこには無かった。一刻の間、立ち往生した満月は、昼休みの終わりを告げるチャイムに背中を押され、その場を後にした。

 円形からなる輪国は、その稀なる神のあり方から、土地を二分している。勾玉を組み合わせたように分断された東の地を、月域ゲツイキと言い、主に月属の者が住む。反対に西の地は日域ジツイキと言い、主に日属の者が住む。最近では、主に商いを生業とする人々が、その枠を超え、行き来するようになってきているが、それも一部の地域でのことだ。その点、狐鈴の住む窟州クッシュウは東都が置かれていることもあり、日属の者の出入りも激しい。満月が窟州楽阜ガクフの商店街で日月間の溝を取り払うきっかけをつくったことは、この輪国にとって大きいものとなるだろう。
 狐鈴は、しとねの皺を伸ばしながら、異国の少女を思った。玉兎が血相を変えて、月姫が居ないと告げた時のことを思い出す。満月を探しに一人で竹林に飛び出した玉兎を心底心配したが、環によって保護された玉兎を見て、安堵の溜息を漏らした。あれも、月の要。失えば、大きく輪は傾くだろう。輪国が二人の神に預けられたのは、決してこんな風に無意味な争いをするためではないと、狐鈴は思う。
 だから、早く戻って来て、満月。
 不意に、頭に置かれた温度に、狐鈴は小さく息を呑んだ。無口ゆえに、その真意は定かではないが、満月が異国に帰ってしまってから元気を失くした狐鈴を心配してくれているらしい。不器用な端伎の胸に身体を預けて、狐鈴は小さく微笑んだ。

 晴尋により、こちらに飛ばされてから四日目。久々に私服に袖を通すと、妙な心地がして仕方がなかった。十分歩いたところで捕まえたバスの中は、携帯を初めとする電子機器と向かい合った人で溢れていた。国が違えば、こんなにも人も物も世の中も違うのだと、悟ったようなことが頭に浮かぶ。大きな窓の外には、沢山の車と沢山の人が忙しなく行き交い、高層ビルの凹凸の先に見える空は、酷く小さく見えた。
 今までは、これが当たり前だった。だが、それが当たり前ではない時代や世界があるのだと気付くと、ここはともすれば、不可思議で滑稽な世界なのではないかという漠然とした思いが、ぽたりぽたりと胸の中に液体として溜まっていった。
 終点の最寄り駅でバスを降り、目的地まで電車で向かう。雑踏の中を進んで、やっと満月はその場所に辿り着いた。
 うず高く積まれた本たちの、古めかしい匂い。ほの明るく店内を照らす照明と、奥で卓上に寄り掛かる店主。本好きが功を奏して、何度かこの古本屋には足を運んだことのある満月だったが、今回は探している本があまりにも怪しすぎた。
 手当たり次第にそれらしい本を見つけては、ぶつくさ――勿論心の中で――呟いたり、興味津々と何ページか読みふけった。最終的に満月が選んだのは三冊で、表紙にはそれぞれ怪しげな文字で「異世界への扉」「平行世界研究」「魔術と儀式、その全て」と書かれている。レジで財布を出したぎこちない表情の満月を、店主はしげしげと眺めながらも、「ありがとうございました」と穏やかに笑んで、送り出した。
 裏路地近くに差し掛かり、満月はふと、車道にさりげなく停められた高級車に目を留めた。後部座席のウィンドウはスモークガラスによって遮られ、中は見えない。
 他人の車の中に興味を持つだなんて下世話なことだと気付いて、満月は何事もなかったようにそこを通過しようとした。次いで、車のロックが外れ、ドアの開く音が背後で聞こえた。
「もう、中村さんったらぁ」
 鼻に掛かるような、甘ったるい華やかな囁き声に、満月は思わず足を止めた。くすくすという女特有の笑い声が、耳にこびりつくように響いた。
 振り返って、満月は少なからず動揺した。格別の美貌が派手派手しく彩られ、真冬だというのに胸元が大きく開いたドレスを身に纏うのは――。あまりの変貌ぶりにその答えに自信はないが、多分、この女は……。
 女も、満月に気づいたのか、一時艶やかな微笑を崩したが、特に慌てた様子もない。中村さんと呼ばれた男は、一見するとどこかの御曹司といった様子だった。
 若しかすると、噂は本当なのかもしれない。そんな疑いが脳裏をよぎった。
「な、がえさん……?」
 満月の小さな声に、女は美しい笑みを崩さず、視線だけを凍らせた。
「知り合いかい?」
 中村のいかにも人の良さそうな声が、きんきんと耳に痛い。
「ええ、ちょっと外してもよろしい?」
 慣れた様子でふんわりと微笑む京華は、まるで別人のようだった。先日とは逆に、満月の手首を京華の冷たい手のひらが浚って行った。
 ヒールのかつかつという硬質な音が、裏路地の物陰まで続いて、そこでぴたりと止まった。手首を解放され、京華が紫色のドレスをひらめかせ、ゆったりとこちらを向く。
「長永さん、どうして――」
「関わらないでと言ったはずよ」
「でも――!」
 正に、京華の言うとおり、余計なお世話なのかもしれない。強く憤りを感じている自分と、淡白な京華の対応がちぐはぐで、満月は徐々に立場がなくなって行く気がした。
「身体、大事にしないと」
 恐る恐る呟いた言葉だったが、本心だった。病気で亡くした母が居るから、その思いは人一倍ある。
「そんなこと……貴女に言われるまでもないわ」
 冷たく突き放した声に、満月は怯んだように顔を歪めた。しかし、思い直して真っ直ぐに京華の両眼に視線を注ぐ。
「なら!」
「これは私の仕事よ。邪魔しないで」
 絶対零度の眼差しは、満月の全身を凍らせるのに、何の造作も必要としなかった。素早く踵を返して、京華の背中は見る見るうちに小さいものとなってゆく。声にならない声を上げた満月を、京華が振り返ることはなかった。


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