月姫 灯火、囚われの孤高[四]



 白壁に背を預け、京華はあからさまな溜息を吐いた。
 これまで、色々な男と関係を結んできたが、ここまでしつこく迫られたのは、初めてだ。氷の眼差しを二度も受けて、尚もわざわざ出向いて来るつわものが居るとは。それも、何故だろうか。目の前に立っているのは、京華より僅かにではあるが背も低く、スカートを履き、更には胸までしっかりとある女だった。
「貴女も……懲りない人ね」
 呆れたような一言に、満月は微笑んだ。
「携帯って凄いよね。まさに文明の利器? 先生に長永さんと話がしたいって相談したら、すぐに貴女の住所、教えてくれたの」
 とんちんかんな満月の受け答えに、京華はますます脱力する。
 しかし、そういうことか。交友関係を上手く作れていない転入生を心配した優等生が、担任にでもそのことを相談すれば、住所くらい簡単に掴むことが出来るだろう。
 京華は、満月の頭の頂点から爪先までに目線を走らせ、威圧するように少しだけ睨んでみた。少々動揺したように身を竦ませた満月であったが、すぐに先ほどの胡散臭い笑顔を復活させた。ただのお節介かと思っていたが、もっと性質が悪かったらしい。
「私に関わって、貴女に得があるとは思えないのだけれど」
 目的は何かと暗に匂わせて、京華が問う。
「友情に、損得は関係ないよ……なんて答えじゃ、長永さんは納得しない、か」
 満月の伏せられた睫毛の下の双眸が、強く煌めく。京華は僅かに身じろいだ。
「長永さんね。私が知っているある人に似てるの。勝手に私がそう思っただけで、貴女の都合なんて何も考えてなくて、長永さん、迷惑かもしれないけど。あの人と同じで、放っておけないから」
 ぴくりと、京華の指先が震える。満月の言葉には、躊躇があったが、決して偽りは含まれていなかった。
 京華は白い息を立ち昇らせた。そしてゆっくりと囁く。
「本当に、勝手ね」
 満月の表情が、微かに歪むのを捉えて、京華はそれから逃れるように曇天を見上げた。
「貴女にどうこう出来る話じゃないの」
 そうだろうなと満月は思った。京華の背の影に刻まれた文字は、「さくら園」。満月も耳にしたことのある、児童養護施設の名だった。今朝、担任からその言葉を聞いた時の衝撃は、満月の心に波紋を呼んだ。
 何か、深い事情があって、京華はこの施設に身を寄せながら、あのような行為をしているのだろう。
「うん。だけど、もし良ければ、仲良くしてくれる?」
「私が断っても、貴女、纏わりついて来るんでしょ」
 纏わりつくだなんて、まるでストーカーのような扱いに満月は少しだけ落ち込んだ。だが、尤もだとも思ってしまい、苦笑する。
「明日、学校で」
 ひらひらと振られた手から、光がこぼれ落ちたような錯覚に、京華は暫くそこを動くことが出来なかった。


 日が落ちかかり、砕けた黒い月が、微弱な光を発し始める。玉座にしな垂れかかるような格好で、月神は己の腕を輪国全土の描かれたかび臭い盤の上へ伸ばした。
 ……やはり、少しずつだが、禍の気配が濃くなってきている。
 それも、その悪い気は、丁度輪国北西の辺りから流れ込んで来ていた。あちらは日域で、本来は月の関知が許されていない。だから、月神も直接その禍の被害を見た訳ではない。だが、その被害が着々と大きなものになっているのは、目に見えて明らかだった。月神に取り除ける禍にも、限度がある。
 ずる、という嫌な音と共に、盤の上の黒い塊が亡失する。同時に、月神の呻き声が静寂の中に散った。掌に吸収されたはずのそれが、今にも溢れ出しそうに波打っている。掌を固く握りしめても尚、それは蠢き、この地に禍をもたらそうとする。
 早く、気付け。
 西の地を見据え、ただそう願う外、方法がなかった――否、本当は知っている。禍を退けるだけの方法ならば。
 月神は、再び盤に目を落として、それから異界の少女を思った。そろそろ、月姫からの連絡が来るだろう。昨晩、本当のことを――真実を教えてくれと乞うた少女。あの娘にならば、全てを託しても良いかもしれない。
 糸の先から、じんわりと温かい「気」が流れ込んでくる。月神は、僅かに瞑目して、満月の呼びかけに応えた。

「月神、月神! 早く返事して」
 ベッドに腰掛け、濡れた髪から滴を滴らせながら、満月は彼の地の神の名を呼んだ。十五分ほど呼びかけているが、全く反応がない。
 黄珠の言葉、晴尋の言葉が蘇る。若しかしたら、という悪い予感が、全身を凍りつかせた。
「――月神」
 ぽぅと灯りが点ったような、そんな感覚が、身体のどこかから駆け上ってきた。不安が、あっという間に霧散していく。霧の中にあった糸の先が、月神の気配が、今ははっきりと感じられた。
 ――何だ。
 淡々とした受け答えに、満月はむっとしながらもほっとした。
「何だ、じゃない。心配させないで」
 言うつもりのなかった言葉が、溢れ出してしまい、満月は顔をしかめた。
 勿論、月神を心配していない訳ではない。けれど、お前呼ばわりされるわ、横暴すぎるわで、本人の前でそれを認めるのは何だか癪だった。
 ――本当のことが、知りたいと言ったな。
 満月は、しかめっ面を解いた。どくん、と心臓が脈打つ。
「民の言葉も、日の言葉も、少しだけど聞いた――今度は、月の言葉が聞きたい」
 ――出来るだけ、掻い摘んで説明するが、長くなる。急に倒れても手傷を負わないような所に居ろ。
 言われて、満月は額を抑えた。昨夜、突然倒れて出来たたんこぶが、まだ痛む。そういうことは、昨日の内に言っておいて欲しかった。
 ――輪国を初めとするこの世界には、国が八つある。九人の曜の神……つまりは曜神がそれぞれの国を守っていることから、それらを総称して九曜くよう国と呼んでいる。
「九曜国なのに、八つの国?」
 ――輪国には、俺と彩章、二人の曜神が居るだろう。
 ああそうか、と満月は納得する。
 ――円形の輪国を、星の海を挟んで他の七つの国が取り囲んでいる。北東の木曜国から順に、火曜国、土曜国、金曜国、水曜国、計都けいと国、羅睺らご国という。九曜国は、神の存否で繁栄も衰退もする。禍を取り払うのも、恵みをもたらすのも、曜神。だが、その力が弱まれば、国は傾き、禍が国を滅ぼす。だから、どの国も基本的には神の存在が絶対のものとなっている。
 商店街で感じた違和感は、そのためか。満月の世界では、統治者一人の存在が、直接的に国の盛衰に関わることは殆どない。特に今の時代の日本を生きる満月には、狂信的な神への信仰は、理解しがたいものであった。しかし、神の存否が一国の存亡に影響する世界ならば、そうであって然るべきなのだろう。
 ――玉兎に、帛鳴の話を聞いたらしいな。
 満月は少し、答えに詰まる。
 ――曜神転じて蝕となる。異邦にその翳りあり。やがて蝕は日輪を覆い、月輪を覆い、輪国より光を排するであろう。覚えがないか?
「え……ああ、予言者の。何だか、恐ろしい予言みたいだったけど、誰も信じてなかった、よ?」
 思わず疑問調になってしまったことを自覚する。そういえば、あの時も、民の言葉に納得出来なかったのではなかったか。
 どうして、誰も帛鳴の言を信じないのだろう、と。
 あの時は、予言自体の問題から、神や国といった問題に話がすり替わってしまったから、あまり気に留めなかった。その上、満月はその生まれから、予言者といった類の話はよく分からない。だが、その予言者は、病や災害をことごとく予知し、神もその言葉を信頼したと言う。もしも、あの予言が真実ならば――。
 ――先代月神・明螢めいけいは、ただ一人帛鳴の予言を信じた。そして、日神である彩章は、それを信じなかった。
 何かが、繋がり始めた。そんな感覚に、満月は震えた。きっと、これは予感、だった。
「それが、全ての元凶?」
 沈黙が下りた。それが答えだと、満月は思った。
「貴方は? ――信じるの?」
 ――予言は、真実だ。
「でも、確か予言者は、月神と日神の死を予言したのよね? どちらも、生きているけど」
 ――明螢が防いだ。
「先代の月神が? なら、どうして先代は――貴方もだけど――、あんな風に蔑まれたり、憎まれたりしているの?」
 ――本当に、何も知らないな。
 月神が、何を思ってそんなことを言ったのか、満月には分からなかった。だが、無知を軽蔑し、馬鹿にしたような口調では決してなかったように思う。ただ、言葉だけが独り歩きしたような。だからか、月神の感情を読み取ることは不可能だった。
 訝しげに首を捻った満月に、何事もなかったように、冷えた声が降り注いだ。
 ――経過から説明する。
 淡白な響きに、満月は曖昧に頷いた。
 ――明螢は、蝕と化した国から流れ込む禍を払って、何とか持ちこたえていたが、それも限界を超え始めた。明螢は……蝕が輪を喰らい尽くしてしまうことを危惧して、一人で蝕となった国、羅睺国を訪れた。
「一人で? 何で?」
 ――彩章は、予言を全く信じなかった。当時、彩章に最も近いといっても過言ではなかった側近中の側近、帛鳴の言葉を、真っ向から否定した。それだけでは飽き足らず、日宮殿から帛鳴を追放した。
 それでは、民衆が言っていた帛鳴を信頼した神とは、彩章のことだろう。満月は記憶の中の引き出しを出し入れしながら、そう見当をつけた。
 ――親しい友人同士でもあった帛鳴の言葉を聞かない彩章を、月神である明螢が諭すなんてことは、あの時不可能だった。ただでさえ、考えをひっくり返すには時間を食う。それに、曜神同士の干渉は、天の定めた大罪にあたる。だから、当時の輪を救うには、一人で羅睺国に乗り込む外、方法がなかった。
「それで、どうなったの?」
 ――羅睺神も、明螢も、共に斃れた。事情を知る者は少なかったから、明螢については、愚かにも帛鳴の狂った企みに乗せられ、勝手に死んだ愚神、ということで片づけられた。それから暫くは、天の大罪を犯してしまったためか、曜神を一人失ったためか、輪も不安定な時代が続いた。
「それが、禁忌ね。それで、その時代は悲劇の時代と呼ばれている。月が卑しいとされ、差別が生まれたのもこの時代?」
 ――そうだ。
「じゃあ、輪国の人が、予言をこれっぽっちも信じていないのは?」
 ――さっきも説明したが、この世界の在り方が大きな意味を占めているだろうな。民は、絶対的な信頼を自国の曜神に寄せているし、それは他国の曜神に関しても同じだ。まさか曜神が国を禍の元に変えてしまうだなんて思わないだろう。
 でも、と満月は反駁した。
「亡くなった先代様だって、曜神でしょう? 確かに、先代様の行動が悲劇を生んでしまったのは、事実かもしれない。だけど、例え、その予言を信じる気持ちが自分たちには全くなくても、信頼している曜神の一人がそれを信じて、その後何らかの原因で曜神が亡くなったのなら。先代様の行動や、その理由を何一つ知らなかったとしても……多少は、心が動かされると思う」
 少なくとも、自分ならばそうだ。心から信頼していたものが、いきなり自分の信念とは異なる暗愚な選択をすれば、自分の信念に多少の疑いは持つ。
 ――動かされなかったものが居なかったわけではない。少数だが、確かに存在した。これが他の国ならば、事情は違っていただろうな。
 自嘲めいた月神の言葉に、満月ははっと息を呑んだ。
「この国には……曜神が二人居るから? 相反する意見を言う神様が、二人」
 ――九曜の加護は、必ずや国を安寧へと導くと言われている。そんな希望を打ち砕く予言を信じたくないという民意が、信仰を彩章に集中させた。結果、予言は無いものとされ、今では輪国の曜神は彩章一人だという風潮が浸透し始めている。
 満月は、そこで唇を噛んだ。誰も、嘘などは吐いていなかった。真実の一片が、多くの人の中から抜け落ちているだけで、そこには悪意など存在しない。
 だからこそ、玉兎も月神も、あんなに悲痛そうな表情をしていたのだろうと、今更気づいた。
 深く息を吸って、満月は目を見開こうとした。瞼が重い。腕に爪を立て、霞む意識を保とうと奮闘する。
 これまでの月神の説明は、先代の時代のことが主だった。過去を変えることは出来ない。けれど、これからのことは、きっと変えていける。
 まだ、聞きたいことは山ほどある。満月が輪国の月姫として降り立った理由は、ただ月の欠片を集め、月の再興を図るためなどではないのだと、今でははっきりと分かる。日神が動き始め、満月を輪国から遠ざけたのは、きっと始まりに過ぎない。輪国に戻れば、きっと良くない状況が待っている。
 だから、一刻さえ無駄に出来ないのだ。異分子である満月は、何においても、手取り足取り導いて貰うしかない。あちらに戻って、全てを聞いていたのでは、きっと時が足らない。
「力不足で、ごめん」
 そんな満月を嘲笑うかのように、やはり世界は暗転した。


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