月姫 灯火、囚われの孤高[五]



 ゆらゆらと、揺り籠は揺れる。或いは、水中を漂っているのだろうか。満月は、その深く、昏いところを見つめていた。
 手を伸ばしてみようとして、すぐにそれが不可能であることを知った。満月の瞳には、確かに、その捉えどころのない闇が映し出されているというのに、そこを歩いたり視点を動かすことが出来ない。まるで、テレビや映画を見ているような感覚。しかし、さも、そこに満月が存在しているように、温度や空気は感じ取れた。
 どれくらいか、そこを見つめていると、どこからか色彩が滲みだしてきた。それは、下腹を膨らませた女を形作ってゆく。傍目から見ても、彼女が妊婦だということが、はっきりと分かった。
「信じてもらえないなんて、分かっていたことでしょ?」
 快活そうな、若い女の声につられるように、周囲に色が灯ってゆく。そこに胡坐をかく男の影を認めて、満月は思わず彼の名を呼んだ。が、それは声にならずに、掻き消える。この空間の中で、満月は完全なる傍観者だった。
「少し落ち込むくらい、勝手にさせてくれ」
 男の双眸に陰りが射す。月神だと思った男は、容姿は瓜二つであったが、どうやら違う・・ようだった。
「これで、貴方が神様だっていうんだから、笑っちゃうわよね。神様って何でも出来るから神様なんじゃないの?」
 女は、そう言いながらも、別段男を咎めるつもりはないようだった。明るい声は、どこか苦笑交じりで、それだけで満月に好印象を与える。
「何でも出来たら、この国が生まれることさえ、なかっただろうさ」
 溢された言葉に、女の顔が歪んだ。
「そうね……そうね、明螢」
 涙を浮かべて、女が壊れ物を抱くように、男の首に腕を回す。
 明螢、とは確か先代の月神だ。それでは、この女は何者だろうか。
珱希えいき……私は、羅睺神の元へ行く」
「止められないのね」
 珱希が、明螢に回した腕を、己の手のひらでぎゅっと握り締めて呟いた。明螢の双眸は、真っ直ぐにどこかを見据えていて、珱希を振り返る様子はない。
「貴方って、やっぱりこの国の神様だわ」
 噛み締めるように、ゆっくりと明螢の耳元で囁いて、珱希は微笑んだ。
「その子を、頼んだ」
「頼まれた、わ。ねえ、明螢。悲劇が生んだ出会いだったかもしれないけれど。私は明螢に出会えて良かったと、心から思うわ。貴方は?」
 明螢は、口をへの字に結んで、一拍沈黙した。それからやっと、珱希を振り返って、
「悪くはなかった」と呟いた。
 その様子に、珱希が吹き出して、明螢の長い黒髪に顔を埋めた。
 ジリリリリ、という騒音が彼方から響いてくる。和やかな、けれどどこか切ないその情景はそこで途切れ、満月の意識は急速に覚醒へと向かって行った。

 満月は、その日いつもより早起きをして台所に立った。赤色と青色の弁当箱を持ち出し、その中に色取り取りのおかずを詰めてゆく。これくらいの年頃の少女が、期待と不安を胸に抱えてお手製弁当を贈る相手は、普通は意中の相手や恋人なのだろうな、と思うと、訳もなく苦い笑いがこぼれた。
 思考が中断して、満月はやはり思い出す。今朝の夢は、輪国の過去の一片だったのだろうか。月神は、羅睺神も、明螢も、共に斃れたと言っていた。ならば、あれは明螢の生前の姿だろう。
 女は、確か名を珱希と呼ばれていた。彼女の名は、まだ一度も情報として与えられたことがない。だが、明螢と相当親しそうだということは推測出来た。
 それにしても、何故、あのような夢を見たのだろう。今までは、このようなことは一度もなかった。女のことも含めて、月神に聞かなくては、と満月は心に留めた。
 弁当を鞄に詰め終えて、満月はふと、ダイニングテーブルの横の壁に掛けられたカレンダーを見据えた。以前より、仕事量を減らしたとはいえ、それでも悠里の仕事の予定がびっちりと書き込まれている。その真っ黒な紙の中に、満月によって、ぽつりと一点だけ赤い丸が加えられていた。月神と約束した三日目は、もう明日に迫っている。
 テレビ画面から聞こえる明朗な声が、いつも家を出る時間を五分過ぎていることを告げた。慌てて、満月はテレビのスイッチを切る。そうして廊下を駆け、少しして玄関の扉の鍵が閉まる音が黒川邸に鳴り響いた。

 低い空に萌した白光が、灰色の空を朧に照らす。冷気は刺すように鋭く、体温を奪った。
「何も、こんな所に招待することないじゃない」
 背後の京華の咎めるような声が、きりきりと満月を責めた。
「だって、空の下の方が気持ちいいかなって思ったから」
 マフラーを何重にも首に巻きつけて、膝掛けをマントのように羽織りながら、そう呟く満月に説得力はない。
「屋上なんて、初めて」
 それは満月も同じだった。いつもは屋上は閉鎖されているから、きっとこんなことは滅多にないのだろう。美術部の顧問に、どうしても学校の屋上から見る風景が描きたいのだと熱心に訴えて、やっと開放してもらったのだ。満月は、美術部員だった。もうすぐコンクールがあるため、早々に作品を仕上げなければならない。が、それはきっと叶わないはずだ。今度、輪国を訪れたら、いつ帰ってこれるか、全く想像がつかない。
 しかし、美術部員とコンクール前という特権を利用して、京華を屋上に招いた。暗雲が垂れこめる教室は、あまり気分の良いものではない。それは、当事者の京華なら、尚のことだろう。
 満月は、徐にスケッチブックと鉛筆を鞄から取り出して、弁当を囲む京華の隣に広げた。
「本当に描く気なの?」
「とりあえず、形だけでも。デッサンだけなら、すぐ済むし」
 ぐるりと辺りを見回し、校庭でサッカーをする男子生徒たちの所で目を留めた。ざかざかとスケッチブックを擦る鉛筆が、砂埃を巻き上げて走り回る男子生徒たちを描き出してゆく。
「黒川さん」
 妙に真剣な眼差しで名を呼ばれて、満月は京華を振り仰いだ。
「あんまり私に関わると、貴女の株が下がるわよ」
 唐突な一言に、満月は目をぱちくりさせる。
「そんなこと、私が気にすると思った?」
 あっけらかんと、満月が問う。京華は少し、言葉に詰まった。
「ううん。私、他人からの評価ばかりを気にしていた。妙な理由で学校を欠席する前までは。本音を言えば、今もやっぱり、多少は気になっちゃうんだけどね」
 眉尻を下げて、満月が嗤う。
「でも、今は自分を曲げてまで、周りに与しようとは思わない」
 前は、波風を立てないように、調和を心がけて、そうやって学校生活を送っていた。だが、そこで掴んだものは、掴めたものは、何だったのだろう。だから、今度は後悔の無いように、生きてみたいと思った。
「長永さんの事情も知らないで。下げるなら、勝手に下げれば良い――今は、そう思ってる。だからそれを曲げたりしない」
 勿論、クラスメイトにあからさまに態度を翻されたら、きっと満月は落ち込むだろう。満月は、彼らの良い部分も沢山知っている。けれど、自分に嘘を吐くのは、もう沢山だった。
「なんて、言ってみたけど。私も長永さんのことなんて全然知らないのにね」
 苦笑交じりの言葉に、嫌味はない。知っているのは、京華がさくら園という児童養護施設に身を寄せていること。それから、多分、何か理由があって身体を売っていること。
「弟よ」
「は?」
 どういう話の流れか分からず、満月はぽかんと口を開いた。
「どうして、と一昨日だかに言ったでしょ。難しい病気の弟が居るの。それに、私たちには両親が居なくてね。弟を治すためには莫大なお金が必要で、ただの高校生の私にはああするしか方法がなかった」
 それでようやく、満月は京華に何故そんな行為に及んでいるのか、と尋ねた時のことを思い出した。まさか、今、その答えが返って来るとは、誰も思わないだろう。
 あらましを語る京華の表情は、月神の面影をちらつかせる。
 こういう時、何と言えば良いのだろう。対処法どころか、掛ける言葉さえ見つからない。ただの子供でしかない己の無力を痛感して、満月は情けなく自らの眸子の光を弱めた。
「別に、同情とかが欲しくて言ったんじゃないから。そんな顔しないでくれない?」
 冷やかな声が、追い討ちを掛ける。
「ごちそうさま。お弁当、結構おいしかったわ」
 振り返りざま、そう言う京華の声音は、俄かに柔らかさを孕んでいた。
 一足先に教室に戻った京華を追いかけるように、満月が荷物をまとめて立ち上がる。
 先代月神・明螢は、輪国を救うという大義のために、大罪を犯した。京華は、弟を救いたいという想いのために、社会のモラルから外れた。どちらも、守りたいものがあってのことで、満月はそれらを真っ向から否定することが出来ない。
 ――では、月神は、何をしようとしている? 輪国の民は、月神が悲劇を繰り返そうとしていると告げなかったか。もしも、それが本当ならば、月神が向かおうとしている己の果ては……。
 予鈴が鳴り響いて、思考に終止符を打つ。これ以上、考えられるだけの気力と勇気がなくて、満月は教室までただひたすらに走り抜けた。

 教室に飛び込んで、満月は級友たちからの白い目を向けられた。分かっていたこととはいえ、胸にずきんと痛みが走る。
 顔を上げていられなくて、床と睨めっこをしながら席に向かった。こういう時、毅然と前を向けたら、どんなに良いだろう。それが出来ない自分が、情けなくて惨めったらしくて仕方なかった。
「満月ちゃん」
 辺りをはばかるような小声に、ぴくりと全身が反応する。気づけば、いつも弁当を一緒に食べているメンバーが、周りを取り囲んでいて、満月は内心ぎょっとした。脅えと咎めと疑問の入り混じった眼差しが、満月を食い入るように見つめていた。
「何?」
 いつもの調子を保てたかは定かではないが、声は震えずに済んだ。
「京華ちゃんとは、関わらない方が良いって言ったよね。理由も併せて」
 里菜の酷く戸惑った声に小さな罪悪感を覚える。里菜は、ここ数週間で一変してしまったクラスの状況を、満月に事前に知らせてくれていたのだ。他ならぬ、満月のために。満月が、再び平穏に生活していけるように。
 けれど――。
「皆の思っているようには、長永さんに接することは出来ない」
 言い切られた言葉に、里菜たちの表情が曇る。
「私は、もう自分に嘘吐きたくないの。だから、ごめんね?」
 始業を知らせる鐘が鳴って、里菜たちは曖昧な空気の余韻を残して散り散りになる。ちくりと微かな痛みが湧いてきて、満月はそっと瞑目した。
 考えの一致は叶わなかった。けれど、彼女たちがくれた優しさや、安らかなひと時は本物だったから。満月はありがとうと形作り、遅刻気味な教師の到着を待った。

 満月は、向けられる視線や言葉が、がらりと変わりつつある学校を、帰りのホームルームが終わるとすぐに抜けだした。いつも、京華もこうして一目散に、学校の敷地内から居なくなってしまうのだ。昇降口まで降りて、辺りを見回すが、京華らしき人影は見当たらない。今日は特別急いでみたが、京華に追いつくことは不可能だったらしい。
 満月は軽く息を吐くと、鞄を背負い直して校門を踏み越えた。
 それから、数分も経たない内に、聞き慣れたメロディが鞄から流れ出した。慌てて、目当ての物を取り出して、満月は首を傾げる。携帯の画面には、父の名が表示されていた。こんな時間に悠里が電話をかけてきたことは、これまで一度もない。余程、大事な用なのだろうか。
「もしもし、どうしたの?」
『否、特に用がある訳じゃなかったんだけどね』
 満月の心中を察してか、悠里の声が少し言い辛そうに揺れた。
 それを聞いて、満月は眉間に皺を寄せる。輪国にて数週間の外泊をしてからというものの、父はますます過保護になった気がする。事が事だけに無理もないが、満月は自分のことより仕事のことを心配して欲しかった。
 悠里は自分の仕事に誇りを持っている。だからこそ、過労で倒れてしまうのではないかと、満月が思案してしまう程、良く働く。それなのに、ここの所は、満月に構いきりで、家で顔を合わせてしまったりもした。それは、多くの家庭で普通のことなのであろうが、黒川家では珍しい出来事であった。
 その上、今度は、真昼間からの電話だ。
「お父さん、あんまり私に構わなくて良いから」
 沈黙が下りて、満月は慌てて訂正する。
「あのね、嫌って訳じゃないの。だけど、ほら、仕事の真っ最中でしょう? クビにでもなったら、家、破綻じゃない」
 懸命なフォローに、悠里のくすくす笑いがこぼれる。電話越しなのに、妙にくすぐったくて、満月は思わず身を捩った。
『ここに来て、反抗期かと思ったよ』
「まさか」
 和やかに笑い合い、それから思い出したように満月が呟く。
「でも、何か気になったりしたから電話かけてきたんでしょう? 何もないのにかけてきたのなら、私、即刻切るからね」
 語尾を強めて高らかに宣言する娘に、悠里は苦笑を返す。
『否、リビングのカレンダーの赤丸が気になってね。あれは、満月と兼用のカレンダーだったけど、滅多に満月が書き込むことなんてなかったから』
 それでか、と満月は短く嘆息する。
「……私、多分、明日――また家を空けることになると思う」
 悠里が目を見張り、息を呑んだのが、何となく分かった。
『……そう、か』
 絞り出された言葉に、ぎゅっと胸が締め付けられた。ずっと、二人でやって来たのだ。母が死んでから、これまで、ずっと。輪国で一人になって、満月は片翼がもがれたような感覚を味わった。それだけ、父親に依存していたのだろう、と思う。満月がそうなら、悠里も当然のようにそうして心を傷めたはずだった。折角、こうしてまた生き会うことが出来たというのに、ほんの数日を過ごして、いつまた会えるか知れない別離を迎えるというのは、あまりにも酷な話だった。
 だからこそ、帰って来てすぐに、可能性の話として輪国への旅立ちを告げておいた。悠里が、満月と過ごすことに慣れてしまわない内に。
 だが、それでもこんなにも辛い。家族との別れは、こんなにも心を抉る。
 だから――。
「お父さん。凄く勝手な提案なんだけどね」
『うん?』
 お互い、声色がどこか大人しい。
「私が居なくなることで、少しは家計が浮くでしょう?」
『そりゃあ、そうだけどね』
「お父さんも、私の手料理以外はあんまりがっついて食べたりしないし」
『凄い自信たっぷりに言うね』
 ここが押しどき、とばかりに満月は口調を速める。心なしか、歩調までも速くなっているのは気の所為に違いない。
「だから、一人や二人、家に家族が増えたって、そこまで問題じゃないでしょ?」
『そうだね――って、え?』
 すぅ、と深く息を吸い込んで、満月は勤め先の父に向って祈るように懇願した。
「家に、養子として、さくら園にいる二人の子を、迎えてあげて欲しい。それから、その内一人の子の医療費を払ってあげて欲しいの」
 辺りの喧噪が、薄れてゆく。その場に立ち尽くした満月に、静かな声が響いて来た。
『満月、そう簡単な話じゃないことは分かるね?』
「うん。だから、医療費の方は私が帰ってきたら、バイト……就職してからでも働いてちゃんと返す。そういうのは、きちんとやるから」
 真摯な態度で訴える満月に、穏やかさに怒気を滲ませて、悠里が口を開いた。
『そういう問題じゃないんだよ。満月は、困っている人が居たら、誰でもほいほい家族に迎えるのかい?』
「――それは」
 悠里の言う通りだ、と気付いて満月は黙り込む。前方の信号が、赤から青に変わっても、満月はそこを動くことが出来なかった。動きだした人々の中で、満月の時間だけが針を進められずにいる。
『満月が、僕のことも思って、そう提案してくれたのも分かるよ。あの広い家に一人は寂しい。それに、満月が、その子たちを大切に思っているのも分かる。経済的には、満月の言う通り、どうにかなるかもしれない。だけど、新しく家族になるってことは、凄く大きな意味があるよね』
 全くその通りだった。目先のことに囚われて、その意味に気付けずにいた。
『で、その子たちは、そのことについて何て言ってるの?』
「否……まだこのこと、話してさえいないし、一人の子には会ったことさえないの」
 怒られるかと思って、言葉が尻すぼみになって消えて行った。
『――会ってみよう。その子たちが望むなら』
 満月は目を丸くした。視界いっぱいに、そっけないコンクリートの地面が鮮明に映る。
「良いの?」
『これまで、わがまま一つ言わなかった満月の頼みだからね。でも、会って、きちんと話してみて決める。これは、凄く大事なことだから』
 穏やかな春の日射しのような声が、心に降り積もってゆく。
 同時に、思慮が浅すぎた自分への嫌悪が、じわじわと広がって行った。
「ごめんね。沢山、迷惑掛けて」
 ぽつりと、漏れ出た悔恨の念に、悠里の言葉が覆い被さる。
『良いよ。家族だからね』
 こぼれ落ちた一筋の滴が、灰色の地面に小さな染みをつくった。


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