月姫 灯火、囚われの孤高[八]



 朱の鳥は、満月を一瞥すると、すぐに大地に視線を戻した。落下する満月は、それに目を奪われながらも、今は受け身の態勢を取ることで精一杯で、鳥どころではない。このまま地面に叩きつけられた場合、どの程度の怪我を負うのだろうかと他人事のように考えて、満月は下方に目を向けた。
 どうやら、満月は月神と正しく引き合ったらしい。満月がたった今落ちているのは、丁度月の宮の真上辺りだった。しかし、どうにも腑に落ちないことに、闇夜をじらじらと照らす篝火が、珍しくいくつもの人影を宮中に浮かび上がらせた。その数は十五を超えるだろう。こんなにも多くの人を、満月が月の敷地内で見たのは初めてだった。
「――め!」
 懐かしい声が鋭く、耳を掠めた。目を凝らせば、落下する満月の真下に、灯りに照らされた白兎の姿が確認できた。それで、隣に佇む黒づくめの男の正体も、自ずと分かった。
 一面に白砂が敷かれた庭に、満月の身体は一直線に落ちて行く。一番背の高い松の木の頂点部分を過ぎて、流石に満月は焦り出した。しかし、焦ってどうなるものでもない。激突まではあと数秒だった。
 ひやりと身体中が竦み上がったのはほんの一瞬で、衝撃は僅かだった。硬くなりきった身体に、衣越しの微温が触れる。見開かれた満月の瞳に映る景色は鮮やかで、否が応でも視界に入る月神の表情は、不快そのものを表わしていた。瞬時に月神に抱き留められたという状況を理解した満月は、月神の腕の中を懸命にもがいた。人形のように美しい外見からは想像できない程に、月神の体つきはがっしりとしている。もがく満月の視界に、月神の硬く握りしめられた拳がちらついた。何か違和感のようなものが脳裏を過ったが、満月がその正体に気づくことはなかった。やっと地上に降ろされ、満月は少々迷った後、ありがとうと頭を下げた。
「何故、来た」
 そう問う月神の瞳には、満月の表情が澄明に映し出されていた。
「何故って。勝手にするって言ったでしょ」
 文句あるの、という風に言葉にとびきりの皮肉を込めて、満月は吐き捨てた。
 ずかずかと歩き出そうとした満月は、今度は月神の左腕の中に引っ張り込まれ、思いきり顔を歪めた。何なの、と語気を強めれば、目の前を通過する閃光があった。白砂の上に突き刺さったそれが、一本の矢であることに満月が気づくまで、大して時間は掛からなかった。
 瞬時に、射手を振り返った満月は、驚いて声を上げる。
「日御子……」
 いつかのように、晴尋と視線が交錯した。引き絞られた弓から放たれた矢が、静謐を砕き、容赦なく満月を目指す。
 月神は満月を抱えてその場を飛び退くと、舌打ちをした。寸刻前まで満月が立っていた場所には、鏃が突き立っている。
 こういう状況だから、月神は満月を呼ぶことを躊躇ったのだろうか。その月神の厚意を踏みにじりやって来た満月は、少しだけ反省する。満月の存在は、月神と玉兎の重荷にしかならない。満月には、力がなかった。何かを守るためには、相応の力が必要なのかもしれないと、悟ったように満月は思う。けれど、月神と玉兎のたった二人が日を相手取り、月を守り通すことは出来ないというのもまた、事実だろう。輪国に来てしまった以上、三人目の役割くらいは果たしたいと思った。
「そなた、月姫か」
 聞き覚えのない声の主を探して、満月は視線を走らせる。そうして、満月ははっと目を丸くさせた。特異ではあるが、外見だけを見れば、妙齢を過ぎた女だった。燃えるような紅蓮の髪はゆるやかにうねり、常磐色の眸子の燦々とした光は、満月に向かって強烈に降り注いでいた。しかし、それが纏う雰囲気は、その頃の女では到底備えることの出来ない威厳に満ちている。年齢不詳、とはこういう人物のことを言うのだろう。一瞬で、満月はその正体に気がついた。後ろを固める幾人もの人間は、彼女の従者だろうか。
「日神、様」
 彩章を取り巻く空気に圧され、言葉を紡ぐのが酷く難しかった。
「姫よ。何故、月の肩を持つ」
 ふと、月神が前へ進み出て、満月はその背中に庇われた。彩章の瞳はそれでも満月を見つめ続ける。
「……真実を、見つけたからです」
 月神を押し退け、満月は宣言した。
「中々、興味深いことを言う」
 溢された嗤いは、言葉に反して冷たい。
「月の者は、皆、何に冒されたのだろうな。揃って暗愚なる道を選ぶ」
 彩章の後ろに控えていた者たちが、一斉に弓を引いた。雨のように降り注いだそれを、月の精たちが満月の代わりとなって受ける。その中には、環の姿もあった。
「――!」
 あまりのことに、愕然として声が出なかった。鏃の刺さった部分から、精たちの形が失われてゆく。どろりと溶けるようにして、月の精は満月の目の前から突然消え去った。
「大丈夫、月に還っただけだよ。永遠の別れじゃない」
 玉兎が、満月の手を引いて囁いた。
「月姫は下がっていて。ここは僕と月神様が引き受ける」
 当然のように言う玉兎が、恨めしかった。満月は足手纏いになるために、再び輪国を訪れた訳ではなかった。
「引き受けるって、何するの」
「何って」
 戸惑った玉兎を一瞬だけ睨めつけ、満月は降って来た矢を躱した。
「貴方も、そんな物騒なもの持って、何する気なの」
 責め立てるように月神に言うが、彼の顔は相変わらず読めない。月神の左手に握りしめられた刀の刀身は、めらめらと燃える篝火に照らされて美しいまでに輝いていた。
「敵に集中しろ。死ぬぞ」
 今度は、矢ではなく灼熱が辺りを取り囲んだ。日神の動かす手の通りに、炎が生き物のように動いている。月神が炎に向かって手をかざすと、青白い光によって炎が絶たれた。
「月神様、どうかあまりお力を遣わないでください」
「一国の曜神を相手取ってか? それは随分と暢気なものだな」
 玉兎の懇願をあっさりと退けた月神は、ちらりと何か言いたげな満月を一瞥する。
「輪国を守るのは、貴方と日神様の二人なんでしょう。貴方たちが争っていたら、国はどうなるの」
「その通りだな、姫は正しい」
 くつくつと嗤い、彩章が言った。
「何を企み、二代に渡って兇変をでっち上げているのかは知らぬが、世界も国も考えぬ神など、私は必要ないと考える」
「姫君も玉鳳もその者の愚かさがお分かりになってきたことでしょう。貴方方が日の勢力に加われば、こちらも大いに動きやすくなります。どうでしょう、彩章様に助力する気はありませんか」
「愚かなのはどちらか、よく考えてみると良いよ、日御子」
 玉兎の冷たい視線を、晴尋は嘲笑するだけで反論することはしなかった。元より、晴尋は玉兎の考えが変わるなどとは微塵も思っていないようだった。
「日御子、日神様、どうか月神の言葉を聞いてください。この人は決して、事をでっち上げたりなどしていません」
 駆け寄りそうになったのを、月神に引き留められた。腰を攫われ後退したと同時に、満月が居た場所に矢が十数本、躊躇なく突き刺さった。日は、月の言葉を聞く気など全く持ち合わせていないのだと、瞬間的に悟った。
「どうしてです。月神を失えば、輪国に禍が――」
「その者が禍ということが分からぬか、姫」
 違う、と反駁しかけて、満月は声を失った。
 真横に居たはずの月神の姿が、彩章の目の前にあった。満月と玉兎の眼前には、青白い光で出来た防御壁のようなものが置かれ、それは矢も投槍をも跳ね飛ばした。玉兎が、壁をどんどんと強打するが、壁は敵だけでなく玉兎を通すこともなかった。
 悲痛の叫びは、月神に届かない。
「呪を掛けられても尚、その身のこなしとは、流石と言うべきか」
 刃を交える二人の曜神は、どちらも輪国にとってかけがえのない存在だというのに――。月神と彩章こそ、荒んでしまった人々の心を癒す希望と成り得るに相応しい。だのに、どうしてその二人が切り結ばねばならない。
 どちらも、何より輪を思うからこそ、こうして対峙しているのだ。
 火花を散らしながら斬り合う二人を見据えながら、満月はいつの間にか晴尋の姿が見えなくなっていることに気づいた。
 前方、後方、左右を見渡すが、晴尋の姿はどこにもない。何故だか、額に嫌な汗が滲み出てきた。
 篝火の灯りの届かない夜陰にまで視野を広げて、満月はそこに鋭く光る何かを見た。反射的に、小石を数個、拾い上げた。目に映ったものが何であるか、考える前に身体が飛び出していた。防御壁が周りを覆っていたことを、満月は壁を突き破ってから思い出した。
 鋭い光が月神に向かって放たれる。真っ直ぐに飛ぶ光は、確実に月神を仕留めようとしていた。
 従者たちの番えた矢が、一斉に自らを守るものを失った満月を狙う。数本を避けたが、一本が僅かに腕の肉を抉った。
 よろめいたが、満月は走り続けた。すぐ先で金属がぶつかり合う音が響いていた。
 晴尋の放った矢に気づいて、彩章は矢の軌道からずれた。月神にそれを悟られないように、斬撃を避ける振りをして後退する様は見事だった。
 振りかぶって小石を彩章に投げつけると、今度こそ彩章はそれを避けて一歩下がった。その隙をついて、満月は月神に思いきり突っ込んだ。衝撃が腕に響いて、尋常ではない痛みを招いた。鈍い音が響いて、満月と月神の身体は地面に倒れた。僅かに遅れて、矢が通過する。数歩先の地面に刺さった矢を見て、満月はやっと息を吐いた。そして、慄然とする。晴尋が放った矢の鏃が、じっとりと濡れているのだ。毒矢か、と月神が言ったのが聞こえた。
 月神は立ち上がると、満月を支えて青白い光に包まった。飛んできた火の玉は、髪の毛一本焼くことなく、潰えた。
 不意に、天空から壮美な啼き声が響いて来た。歌声のようでいて、叫びにも聞こえる。
赤鴉せきあが啼いておる――禍か」
 夜空を仰ぎ、彩章が呟いた。
「月神よ。元凶が消滅すれば、安寧が訪れる。そうは思わぬか」
「見極めを誤ったな、彩章」
 くっと彩章は喉を鳴らした。
「戯れを」
 彩章が手をかざすと、再び灼熱の炎が現れた。しかし、今度は満月たちに襲い掛かる炎ではなく、柔らかに日の者たちを包む炎だった。
 勢いよく、炎は闇夜に浮き上がり、満月に何を言う隙も与えなかった。
「……行っちゃった」
「俺を殺すことより、民を救うことを選んだのだろう」
 応えた月神の瞳を、満月は見つめた。駆け寄って来た玉兎が、涙目で月神と満月を交互に怒鳴った。
 応急手当で、玉兎に傷を処理され、満月はありがとうと微笑む。
「どうして、助けた」
 月神の呟きに満月は目くじらを立て、それから少し考えた後に、逆に眉尻を下げた。
「どうしてだろうって自分でも思う。だけど、貴方が狙われているのに何もしない訳にはいかないでしょ」
「怖いのではなかったか」
 満月は、呆れたように溜息を吐いた。
「怖いよ。怖いに決まってる。だけど、怖いからって何もしなかったら、私、きっと後悔してた」
 まだ奇妙なものを見るように満月を見つめている月神は、放っておいた。どこか嬉しそうな表情の玉兎を抱き締めると、心に灯りが点ったような気がした。
「おかえり、月姫」
「――ただいま」
 微笑むと、何故か涙がこぼれた。


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