月姫 空夢の間[二]



 着馴れたセーラー服に着替えて、仄明るい庭園に出ると、既に玉兎が支度を整えて待っていた。満月の足音を聞きつけた玉兎の耳がぴん、と震える。かと思うと、紅玉の瞳が柔らかく細められた。
 笑顔で挨拶を交わすと、満月は盤石に腰掛け、同じく腰を落ち着けた玉兎を見つめた。
「まだ集まっていない月の欠片の総数は、大体どのくらいあるか分かっているの?」
 問いに、玉兎の表情が情けなく歪む。
 それさえも分からずに、国中に散らばった欠片を集めなければならないのか。満月は、気が遠のく心地がした。
「国の外には出ていないはずだから……どこかに落ちているか、月を快く思っていない人が隠し持っていたりするかだと僕は思っているんだけど」
「けど?」
「それまで、計都が持つか」
「持たなければ? 月神は、計都を説得すると言っていたけれど」
「――ううん、ごめん。大丈夫、何が何でも、計都が蝕となってしまう前に、月を復興させるんだ。そうすれば、月神様が計都を説得してくれるし、計都が元に戻って全てを話してくれれば、日神も理解してくれる」
 微笑む玉兎の言葉は、きりきりとした不安定さを滲ませていて、満月がそれを納得出来るはずもなかった。
 このままでは、きっと駄目。
 不安の根源は霞んで見えない。しかし、月神にも玉兎にも、底知れぬ危うさが纏わりついていた。
「持たなければ?」
 辛抱強く、満月は問いを重ねた。
「持たせるよ。そのために、僕が居て、月姫が居る」
「そう、だね」
 満月が小さく呟いた言葉の裏にあるものを汲み取ったのか、玉兎の哀しい笑みが更に深くなる。
「月姫は、よくものを考える人だね。だから、僕はまだ可能性を信じているんだ。そういう答えじゃ、駄目かな」
 それは、不可能の文字が見えていることを示す言葉。その言葉以上の答えを与えない玉兎は、他に何を小さな胸に仕舞い込んでいるのだろうか。
「頼りない言葉で申し訳ないけれど、努力するって約束する」
 砂利を踏み締め、満月は立ち上がった。庭園を進み、思い立ったように玉兎を振り返る。
「私はね、玉兎。貴方たちが未だに隠しているらしいことについて、やっぱり知りたいと思うし、私が仮にも月姫ならば、知る必要があると思うの」
 玉兎は答えず、満月の双眸に瞳を向けた。
「だから、月姫はあの時のように無茶をするかもしれない?」
 尋ねられ、満月は目を見開いた。正に今、告げようとしていたことを先に言われてしまっては、身も蓋もない。やはり、玉兎はその可愛らしい仮面の下に、満月には力の及ばぬ何かを隠し持っているのかもしれなかった。
「うん、分かってるなら良いの」
「月姫の無茶は、若しかしたら何か幸運を運んでくるかもしれないね」
 冗談混じりの笑いは、やっと玉兎の外見に馴染んだ。玉兎のそういう顔がとても好きだと、満月は朧げに思う。
「そうなるように、祈っていて」
「無謀なことはしないで。多少の無茶は、目を瞑る。僕は、本当に、全てが上手くいったら良いなって思っている。それから、月姫の可能性に賭けたいとも」
 満月は徐に俯いた。
「私はそんな大層な人間じゃないよ、なんて言えなくなるね」
 圧し掛かる重圧も、昏い未来も、怖い。けれど、それから逃げてしまえる人間に舞い戻りたくはない。ここで息づく人々を救える可能性をほんの僅かにでも持っているのに、放り出してしまいたくない。
「月姫が、何でもこなせる万能の超人だなんて、思っていないよ」
 満月は、思わず顔を上げた。玉兎が初めて口にした月姫への否定だ。
「だけど、月姫はこうして輪国に戻ってきてくれて、輪国のために懸命になってくれている。その姿が、僕や月神様の心をどんなに元気づけてくれているか、月姫は知らないんだ」
 絆されることはなく、満月は俯いた。
「それは、もし私が少しでも輪国や玉兎や、月神に貢献出来たら言って。月への理解者は全く居ない訳じゃない。玉兎にも月神にも味方はいる」
 ほら、狐鈴とか。呟いて、満月は顔を歪ませた。特別な力も、知識も持たずに異世界へやって来た女子高生に出来るのは、無謀な行動やそこの住人への気遣いだけだ。
「ううん、ごめん。また悲観的なこと言っちゃった」
 ぎこちなくそう続けて、満月は再び歩み出した。玉兎は少し萎れた様子でその背中を追いかけ始める。
「君だから、まだ僕もこうして前を向いていられるんだ」
 落とされた言葉に、満月が気付いたのかは分からない。互いに無言のまま門をくぐり、景色がぶれる。そうして玉兎の瞳に映り込んできたのは、朱色の小さな祠だった。この先を下れば、すぐ近くに九尾亭が居を構えている。
「まずは、九尾亭?」
「うん。一番可能性がある」
 竹の葉が擦れ合う音に紛れて、物騒な風の音が唸る。また、何か起こるのだろうか。自然と、満月はそう考えられるようになってきた。苦笑を飲み込み、冷気さえ付き纏うような竹林を道なりに進んだ。
 九尾亭の門前に辿り着いた所で、満月は懐かしい姿を視界に認めた。
「狐鈴!」
 駆け寄って、満月は半ば押し倒すように狐鈴の華奢な身体に抱きついた。驚いて、その勢いのままに、後ろに倒れそうになった狐鈴を端伎が横からそっと支えた。
「み、つき?」
 狐鈴は呆気に取られた様子で呟いたが、すぐに驚嘆をぱっと華やいだ笑みに変えた。それから、満月のセーラー服に、玉のごとく美しい滴を、何滴か垂らした。あまりにも表情の変化が著しく、満月はそれについて行くことが出来ない。しかし、こんなにも自分を思ってくれる人が居るのだと思うと、嬉しくて堪らなかった。
「良かった……! 満月、戻って来れたのね」
「うん、どうにか。そっちはどう?」
「満月や玉兎のお陰で、本当に少しずつで狭い範囲の話ではあるのだけれど、日属と月属の間の隔たりが埋まってきているの」
 微笑んで告げる狐鈴の言葉が、救いとなって満月を暖めた。
「狐鈴たちも、頑張ってくれたんでしょう?」
「そんな、私なんか全然駄目よ。自分たちの立場を取り戻すことだけに必死で……月神様はお独りで戦われてらっしゃるというのに」
 悩ましげな狐鈴に、満月は玉兎と目を見合せて笑顔を向けた。
「あの人は、独りじゃないよ。そう言う風に気遣ってくれる狐鈴や、玉兎、頼りないけど私も居る」と満月。
「そうでしょ?」とは玉兎。
 妙に息のあった掛け合いは、狐鈴の心を解したようだった。談笑はそこで途切れ、狐鈴が端伎と顔を見合わせ、頷き合った。
 狐鈴が、九尾亭へと満月らを手招いたのと、どこかで轟音が鳴り響いたのとはほぼ同時だった。
「何!」
 九尾亭の中からも、悲鳴が聞こえてきた。地面に亀裂が走り、幾本かの竹が無残にも崩れ落ちた。ばき、めき、という音が恐怖心を煽る。亀裂から飛び退り、満月は周囲を見渡した。地震、だろうか。地面の揺れを、感知していないというのに?
「北の方、だね」
 玉兎が言い、告げた方角を見据えて口を引き結んだ。どうやら、発生源はここではないようだ。
「今のは――」
 不安げに言った満月は、それ以上言葉を続けることが出来ない。
「禍だよ」
「……禍――まさか、計都?」
「どうかな。計都によるものかもしれないし、だけど輪自体が、今は傾いている。禍は国がある限り直面する問題だから、そうとは言い切れない」
 再び、足元の地面に獣が爪で引っ掻いたような跡が出来た。危うく、その溝に身体を吸い込まれそうになり、満月は悲鳴を上げて、後退した。どうにか、身体を地上に保つ。次々と倒れてゆく竹に上を囲まれ、下には落ちればどうなるか分からない地割れが点在していた。
 次に辺りを見れば、狐鈴の後ろに九尾亭から避難してきた人々が、身を寄せ合って怯えていた。この状況は、極めて危険だ。
「禍を退けるのは、」
「曜神だけがその力を持つ」
 玉兎が切羽詰まった様子で答え、そのまま続ける。
「日神が今、対処にあたっているはずだよ」
 しかし、そうは言っても辺りは破壊されていくばかりで、救いの手は差し伸べられない。
「発生源は、もっと酷い状況だよね」
 玉兎は満月の言わんとしていることに気づいたのか、少し顔をしかめた。
「今、北に向かうのは危険だよ。何が起こるか分からない。この禍、僕が見るに、いつもより状況が酷い」
 そう言いつつ、玉兎は暗黙の内に示された満月の提案を受け入れたようだった。玉兎も、輪国の民が心配なのだろう。
 満月は走りだそうと足を踏み出しかけたが、狐鈴たちの姿を目に留め、思い止まった。
「どこか安全な所はないかな。狐鈴たちも避難した方が良い」
「いいえ、私たちがここを離れる訳には参りません」
 決然と言い放ったのは、いつか満月を嗤った仲居だった。見覚えのある顔たちは、今はもう憎しみを表わしてはいなかった。
「今、九尾亭は月属と話がしたいと言う者や、月属の立場を取り戻したいと願う者たちが集う場としても、使われておる」
 老翁が、満月の瞳に真っ直ぐに視線を送って言った。初めて会った時、目を合わせることさえしてくれなかったのを、満月は覚えている。
「俺たちが、離れたら、やっと得た一縷の希望を失うことになるんだ」
 若い男衆の一人の声が、掠れて響いた。希望を失い喪失に満ちていた九尾亭が、今ではこんな懸命な想いに溢れている。満月は、彼らの変容に驚きを隠せずにいた。
「ねえ、満月」
 そう呼びかけた狐鈴と、その数歩後ろで彼女を護るように立つ端伎の瞳は、切実な想いを映し出していた。
「迷惑じゃなければ、私たちの内の数人を被災地に連れて行ってくれないかな」
「配下による対立をしている場合ではないと思う。力になれるものならなりたい」
 分かってくれる人が居たのだと思うと、満月は目頭が熱くなった。それは玉兎も同じようで、瞳を輝かせている。
「きっと、一人でも多くの助けが居る。だけど、さっき言ったようにここ以上に向こうは危険だよ。僕らも、君たちを守りきれるかどうか」
「大丈夫。無茶はしないから。仲間の命さえ守れない一族だと思う?」
 狐鈴が若女将の出で立ちで微笑めば、否定することなんて出来ない。
 満月たちは、互いに視線を交わして、北の方角を見据えた。
「行こう」


BACK | TOP | NEXT