月姫 空夢の間[三]



 地割れに落ちぬよう、慎重に道を選びながら、かつ急ぎ足で進むのは、やたらと神経を使った。薙ぎ倒された竹たちは、執拗に満月たちの足を掬い、余計に気が滅入る。移動している最中も、禍は轟音と共に、満月たちを何度も容赦なく襲った。
 田畑が広がる地帯は、まるで嵐がやって来たかのように荒らされ、桜の木に花弁は一枚として残っていなかった。焦燥する気持ちを抑え、商店街の方へとひたすらに足を動かす。
 日が大地を照らしているはずなのに、辺りはどんよりと暗い。重たい空気は、満月たちを支配するようで、気分が悪かった。だが、時折漏れる仲間を気遣う優しげな声が、心に揺るがない灯りを灯す。だから、進み続けることが出来た。
「何、これ――」
 商店街を前にして、言葉を失ったのは満月だけではなかった。こういう光景は、ニュース番組や映画などでしか満月は見たことがない。家屋は無残なまでに倒壊し、瓦礫の山が広がっていた。人々の呻き声、叫び声がそこら中から聞こえる。幸い、火の手は上がっていなかった。
 倒壊に巻き込まれることのなかった住人たちが、怪我を負いながらも瓦礫に埋まった人々の名を叫び、決死の救出活動にあたっていた。
 こんな――酷い……。
 想像以上に事態は深刻だったようだ。目の前にあることが現実だと信じたくなかった。硬直したまま動けないでいる満月を覚醒させたのは、九尾亭の面々だった。彼らは、悲痛な顔をしながらも、早々に瓦礫を除け始めている。
 慌てて満月も、目の前の瓦礫を慎重に掻き分けた。少し触れるだけで、指先にいくつもの傷が出来た。しかし、そんなことに構っていられない。
「玉兎、お医者さんはいないの?」
「多分、他の町や村から駆けつけて来てくれるはずだよ! それまで、僕らで何とかしよう!」
 声を張り上げて、玉兎が応えた。
 この街の人々の命が懸かっている。そう思うと、震えて上手く瓦礫を掴むことが出来なかった。
「た――すけ、て」
 子供の声がした。耳を澄まさなければ、分からないほどの、小さな声。切実に光を求める、魂の声だ。
「もうちょっと頑張って。必ず助ける」
 そうして、掘り進めること十分くらいだろうか。暖かで柔らかな感触に触れて、満月は安堵の息を吐いた。
 小さな身体を傷つけないよう、慎重に引っ張り上げる。ねっとりとした血の感触があったが、傷はさほど深くないようだった。
 子供は、ねずみ族の子らしく、くりっと大きな黒い瞳が印象的だった。しかし、満月を認識したねずみの子は、あからさまな怯えを示してきた。
 どうしたのだろうか、と思って、満月は自分が月の者であったことを思い出した。それでも笑顔を取り繕い、ねずみの子を怖がらせないよう、そっと問いかける。
「大丈夫?」
 ねずみの子が、困惑したような色を絡めて、満月を見上げた。
「その子に触らないで」
 満月とねずみの子の間をつんざくように響いた声は、物々しかった。ねずみの子を暖めるように抱いていた満月は、背後の声に眉を顰める。
 見れば、満月に侮蔑を投げつける女が立っていた。女は、負傷しているのか、白い布で肩口を押さえていた。くりっと大きな瞳は、満月が助け出したねずみの子と瓜二つだ。親子だろうか。
「この子の、お母さんですか」
「……」
 まるで、月に答えることは何もない、というように女は目を逸らした。事情は分かっていても、満月の心にはずきんと痛みが走った。
「血は出ているんですけど、かすり傷程度だと思います。お母さんもお辛いと思いますが、手当をお願いできますか」
「……私は、その子の母親ですから」
 満月の腕からねずみの子を取り返すように女は腕を伸ばし、逃げるようにその場を去った。
 満月は気を取り直して、瓦礫の山を崩し始めた。時折、満月は深呼吸をする。空気が薄かった。
 圧し掛かるような気だるさは、何だろう。明らかに、満月の常識の中の災害とは、状況が異なる。禍々しいほどの気は、心を掻き乱し、何か得体の知れない闇を植え付ける。禍は、国の均衡が保たれていなかったり、蝕によって起こるという。若しかしたら、それと関係があるのかもしれない。
「月姫」
 間近で聞こえた玉兎の声に、満月は上向いた。玉兎の身につけた衣服には、赤黒いものがこびり付いていた。慌てて、満月は自分のセーラー服を見下ろす。やはり、満月の服にも同じように血液が付着していた。輪国にジャージを持ってくれば良かったと、満月はこの場にそぐわない後悔をした。
「良くない気が充満してる。大丈夫?」
「私は平気――やっぱりこれ、計都が?」
「その可能性が高いと思う。無理は、しないでね」
 そう満月を気遣うと、玉兎も目の前の瓦礫に手を伸ばした。
 二人、三人、と救出したが、状況はすこぶる悪かった。大怪我を負ったものの手当は、主に九尾亭の女たちが請け負い、何とか凌いでいる状態だった。商店街の外も被害は大きいらしく、他の町村からの救済の手はあまり期待出来なかった。
「――!」
 満月と、玉兎がそれに気づいたのは同時だった。青白い光が、淡く一面に降り注いだ。柔らかな蒼は、人々を喰らう闇を貫き、晴らす。闇に染められた人々の心に、一つの灯りが灯るのを満月は感じた。
「月神様……」
 玉兎が、吐息を漏らすようにその名を告げた。彼の姿はないが、きっとあの冷たい玉座で、どうにか輪の民を救おうと躍起になっているのだろう。
 でも、大丈夫なのだろうか。
 呪を掛けられている、あの人は。曜に縛られた、孤高の人は。
 身体が軽くなるにつれ、心を蝕むのは、不安だった。
 美しい、孤独を映した月神の夜の瞳は、ともすれば儚く消えてしまいそうだ。月神の所へ戻ってその消息を知りたいという衝動を抑え、満月は尚も商店街を駆けずり回った。
 次に、街を包んだのは、暖かな日の光だった。晴尋と初めての接触をしたあの日、満月を焼き殺すように燃えた炎とは明らかに異なる、民を慈しむ光。これが、民が心から慕う彩章の姿なのだと満月は思った。
 日の光は、瓦礫の山を霧散させる。瓦礫が完全に無くなると、荒れた大地の上に、忽然と住民が現れた。皆、辛そうに顔を歪めている。ざっと見ても、重傷者の数がかなり多い。瓦礫が消えても、怪我のためかその場を動けない者が多くいた。だが、日月の加護のためだろうか、誰しも瞳に強い生気を宿していた。
 ざっと見ても、重傷者がかなり多い。瓦礫が消えても、怪我のためかその場を動けない者が多くいた。
「狐鈴、仲居さんたちはどの程度の治療が出来る?」
 着物の裾をたくし上げ、清水をなみなみと注いだ桶を抱えた若女将に満月が問うた。
「医術を心得ている者も数人いるわ。と言っても応急手当程度だけど」
「十分だよ。あそこの広場を簡易救護所にしよう。怪我の程度の酷い人から順番に回して行く。狐鈴にはそこの指揮をお願いするね。搬送や誘導の人手が欲しいんだけど、何人か貸してくれる?」
「勿論よ」
 狐鈴の一声で、九尾亭の男衆が満月の周りにわらわらと集まって来る。共に集まって来た玉兎の後ろに、いつかの教師らが居るのが見えて、満月は顔を明るくした。
「私たちに出来ることがあるでしょうか」
 教師の後ろから、数人の子供たちが顔を覗かせた。多少の怯えはあるが、満月の瞳に真っ直ぐに目を合わせてくる。教師は約束を守ってくれたのだ、と思うと暖かな波に心が震えた。
「はい……! 沢山……沢山、あります」

 いくつかの班に分かれ、満月たちは再び街の中に散り散りになった。
「怪我をしている人は、広場に向かってください。手当を行っています」
 張り上げる声に従い、ざわめいていた人々が少しずつ整然と動き始める。満月たちの働きも、日属の人々に少しずつだが受け入れられているようだった。
「月姫さん、あそこに酷い怪我をしている人が」
 若い衆の一人が示した方向に、満月は急いで目をやった。足から血を流している。真ん丸に膨らんだ腹、手に握られた酒瓶――飲んだくれ狸の親父だ、という端伎の声に、満月は頷いた。傷病者の搬送の方法は、保健体育の授業で習っている。実践は初めてだが、この様子では、彼一人で動くことは困難だろう。
「親父」
 端伎の声に、狸が僅かに反応した。そして、こちらを一瞥すると、ふっと自嘲の笑みを漏らした。
「大丈夫ですか? 今、止血します」
 満月が狐鈴から預かった手巾を取り出すと、狸は身じろいだ。
「月の施しは受けねぇ」
 狸はそう言い放つと、外方を向いた。
「何だと?」
 若い衆の一人の声に、狸の親父がほくそ笑む。
「言ったままの意味だってーの」
 湧き上がって来た険呑とした空気に、満月は唇を噛む。
「そのままじゃ、傷が化膿するくらいじゃすまなくなるよ」
 言ったのは玉兎で、満月の手から手巾を取り去ると狸の足にあてがった。
「さ、触るな!」
 狸の声に、満月の中で何かが爆発した。
「何言ってるんですか! 今手当てしなければ、足を失うことになるかもしれないんですよ!」
 怒鳴り散らして、満月は玉兎の掌に手を添えた。満月の剣幕に、狸はたじろいで、同じ街の住人である教師に救いを求めるような視線を送った。が、教師は首を横に振る。
「この方の言う通りです」
「でも! こいつらの所為で……! お前は、憎くねぇのか!」
 狸の瞳に薄い膜が張られる。余程、大切なものが彼にはあって、そしてそれが奪われたのだろうと、その一瞬で理解が出来た。それも、狸は全て月の所為だと思っている。
「この禍だって、月の所為かも知れねぇ! 何考えてんのか分からねぇ、得体の知れねぇ連中だぞ!」
 狸の喚き声が、民の本心なのだ。違うといくら否定した所で、憎しみと恨みの盾に守られ、心の底には届かない。それでも――届けなければならないのだ。真実を。輪を救うために。
「何と仰ろうと、私も玉兎も月神も、貴方を助けます」
 簡単な処置を終えて、満月は大柄な狸の身体の下に手を差し込んだ。月の若い衆の一人と、端伎が満月に手を貸す。
 それからは、諦めたように狸は一切口を開かなかった。狐鈴たちの待つ広場へ狸を運び、満月はすぐに踵を返そうとしたが、思い止まって狸の隣にしゃがみ込んだ。
「月は、決して貴方方を裏切るような行為はしていません。今だって、月神は馬鹿みたいに貴方方だけを思っている」
「何?」
 狐鈴によって的確な治療を施されつつ、狸が顔を上げたのは一瞬だった。やはりその時も狸の瞳には憎悪があり、満月の言葉など微塵も信じていない様子だ。
 けれど、再び救護に向かおうとした満月に向かって、狸は小さく、本当に小さく呟いたのだ。
 どうして助けたんだ、と。


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