月姫 空夢の間[五]



 静かな、どよめきがあった。誰もが戸惑いと不安を抱いているが、口にはしない。満月と玉兎が手を取って歩いて来るのを、固唾を呑んだように見守っていた。
 満月は、纏わりつく視線を払いはせず、すっと顔だけを皆に向けた。
「明螢様の時代、輪国にある予言が下りました。この街で、私はそれを初めて知った――あの時私は、予言を馬鹿馬鹿しいと切り捨てた貴方たちを肯定することも、否定することも出来ませんでした」
 誰もが、疑いなく月神と帛鳴を悪とし、彩章だけを自国の曜神として崇めていた。そんな中、何も知らず飛び込んだ満月は、酷い憤りを覚えたが、何を言うこともすることも出来なかった。
「だけど、今は予言が真実だと言うことが出来ます」
「そんな訳があるか! 曜神が狂いでもしたら、俺たち国民は一瞬の内にあの世行きだ。俺たちがこうして生きているのは曜神がおわすが故のことだ。それが狂うなど、有り得ない」
 鶴の男の声に、賛同の声がいくつも上がる。
 満月の育った場所とは、まるで違う世界なのだと改めて実感させられる言葉だった。民衆は、曜神を頼りきっている。そして、それが裏切られることなどないと信じ切っている。だから、帛鳴の予言など、信じるに値しない戯言に過ぎない。しかし、それは真実だ。満月がこの輪国という異国で触れてきたもの全てが、その答えに導いた。だから、今度こそ何も失わず、輪国を守るために人々の協力がいる。
「月神も、その曜神の一人です」
 焦る気持ちがない訳ではなかったが、落ち着いて、言葉を舌に乗せる。月姫として満月が出来ることも、月神が望んでいることも、皆を説き伏せることくらいだ。それさえも出来ない月姫ではいられない。
「月は、何かの間違いだった。他国は、一国を一曜が治めていると聞く。この国も曜神は日神様お一人で良い。悲劇の時代を産んだ月など信用できない」
 老爺の言葉に、恨みがこもっているのが分かる。けれど、それは同時に戸惑いを孕んでいる。信用できないと言いつつも、街を救った満月と玉兎の心中を量りかねているのだろう。
 上手く言葉を返せない満月の代わりに、玉兎が口を開いた。
「あの悲劇の時代を招いてしまったのは、皆の言う通り、先代様が禁忌を犯してしまったから。それは、月の重い罪。これからも月はその罪を背負い続ける。だけど、先代様はそれ以外に輪国を守る方法がなかったんだ」
「そんな訳ないよ! あんたたちは曜神を殺して何か恐ろしいことを為そうと企んでいる。羅睺国の次は計都国だって? 何度罪を犯せば気が済むのさ!」
「そんなことをする必要なんてない」
 自分でも驚くほど、落ち着き払った声が出た。その後の言葉を用意していなかった満月は、どうしようかと一瞬思い悩む。
「ねぇ、玉兎。私はここに来て間もないから、禍が起こった時、何がそれを治めているのか知らない」
 悩む必要などなかった。言葉は、するすると空気に触れて、人々の間に広がってゆく。
「日神様が対処にあたっていると玉兎は言ったけど、きっとそれだけじゃないよね」
 玉兎は、少し緊張した面持ちで、哀しい微笑を満月に向けた。それに狼狽えそうになるのを堪え、満月は狐鈴に目を向けた。
「七年前、狐鈴が病を患っていた時、月神は狐鈴の病を取り払ったんだって聞いた。さっきの青い光も、そう。月神は、そうやっていつも輪国を禍から守っていたんじゃないの?」
 問いかけは玉兎だけでなく、皆に向けてのものでもあった。人々の視線が、満月の前を後ろを縦横無尽に行き交う。決まりが悪いような何とも言えない空気が、満月に答えを与えた。
「月神が貴方たちを救いたいと心から思っていること、本当は分かっていたんでしょう? だけど、認めるのが怖かった。認めてしまえば、曜神は貴方たちの中で絶対のものではなくなってしまうから」
 それでも満月の言葉に背を向ける者、疑いの眼差しを向ける者は少なからず居た。けれど、気持ちが動きつつある者も絶対に居た。
「どうか、私たちを信じて欲しい」
 懇願するように言えば、不安を払拭する笑みで応える者が居た。
「信じるわ。九尾亭の若女将の名に賭けて、月の言葉を真実と認め、月のため、そして輪国のため、精一杯のことをすると誓います」
 頭を垂れて、満月の足元に膝を付く。そんなことに慣れているはずもない満月は動揺して慌てふためくが、次々と狐鈴を真似る九尾亭の従業員たちに囲まれ、身動きが取れず、その状況を良しとするしかなくなった。
「私も、月の言葉を信じましょう。輪国民として、月に心からの忠誠を」
 教師が片膝を立て、恭しく地面に跪く。すると、教師を囲んで不安げな面持ちで事の成り行きを見守っていた子供たちも、つられるようにして地面に膝をついた。すると、半端な覚悟では駄目だよと叱る声がする。けれど、しっかと満月と玉兎を見上げたどの瞳も、もう惑いなどを表してはいなかった。
「お、俺も! お前らと月神――否、月神様を信じるぞ」
 狸の不慣れな様子が可笑しくて、けれど嬉しくて、自分のことは棚に上げて満月は笑った。
「僕も、お姉ちゃんたちが僕たちを助けようとしてくれてるってこと信じる!」
 ねずみの子のきらきらとした瞳に見つめられ、満月は照れ臭くなって頬を紅潮させた。ねずみの子の隣で叩頭したのは、その母親だった。
「数々の無礼をどうかお許しください」
 玉兎が、月に非があったのは事実だからと言えば、女はますます畏まった。
 それから、その月への肯定の言葉と拝礼は、波紋のように広がっていった。満月は、自分を中心として街に大輪の花が咲いて行くのを呆然として見つめていた。
 勿論、全員ではない。けれど、こんなにも多くの人が、月を信じようとしてくれている。その事実が、ただただ嬉しかった。
「ありがとうございます――信じてくれて」
 何と返して良いか分からなくて、そんな単純な言葉しか思いつかなかった。
 玉兎が、見開いていた目を、ふっと和らげて満月を見つめた。玉兎は、満月に花を持たせようとしてくれている。最後の言葉を、満月に譲ってくれるらしい。けれど長年尽力してきた玉兎に代わる役が自分に勤められるとは到底思えない。
 満月は迷った挙句、最初にしたように玉兎の手を取った。驚いたように、玉兎が満月を見上げる。
「玉兎が私を良く思ってくれているように、私も玉兎が居るから頑張れるの。だから、一緒に」
 玉兎がきょとんとして、口を開いた。間もなく玉兎の顔がほころぶ。
「私たちだけの力では、輪国の民全てを説得することは難しい。だから貴方たちの、力を借りたい」
「出来るだけ多くの人へ、真実を伝えて欲しいんだ。同じ立場に立つ者の言葉なら、きっと聞いてくれる人がいるはずだから」
 玉兎と目を見合わせ、満月は些か緊張した面持ちで前に進み出た。
「それから、月が信用に値すると思ってくれたなら、どうか月の欠片を月の元へ返してください。月は呪を受けて弱っているうえ、曜が壊れてしまって、月神は身動きが取れない状態です。このままでは、蝕を鎮めることも、禍から民を守るのも難しい。だから、信頼に値すると思ってくれたその時は、」
 満月は玉兎を振り返った。手を繋いだまま立礼し、どうかお願いします、と声を揃えた。繊細な沈黙が下りて、張り詰められた糸が人々の吐息と共に微かに揺れる。
 まだ、民衆には迷いがあるのだ。明螢の輪を救いたいという気持ちは真実その通りだったが、それにより悲劇の時代を産んだ前例がある。だから、月を信じることは出来ても、簡単に切り札を渡す気にはなれない。だからこそ、誠意を見せたいと、満月は思う。

 話に区切りがついたと解して、玉兎が狐鈴に歩み寄り、耳打ちした。それに狐鈴が笑顔で応じて、九尾亭の面々に何やら合図を送り始めた。首を傾げる満月に、玉兎が早口で語りかける。
「日があるうちに、仮の住まいか代わりになりそうな家やお宿を見つけなきゃ」
 満月は、辺りを見回した。初めて訪れた時、賑やかで祭りでも始まりそうな印象だった商店街に、その面影を探すことは極めて難しかった。何もなく、だだっ広い土地に、家を失くした者たちが集っている様は、禍による喪失の大きさを明瞭に映し出している。
「入れるだけの人数を、九尾亭に送る。怪我人とお年寄り、それから子供を最優先するよ。次に女の人、かな。他に近くで借りれそうな住居があれば、そっちにも人を送ろう。それでも入れない人が出てくるはずだから、その人たちには申し訳ないけれど、天幕で我慢してもらう」
 ただ、助けるということだけを考えていた満月には、被災後の住民のことなどあまり頭になかった。いくら環境の違う場所で育ったとはいえ、後のことを微塵も考えていなかった自分が恥ずかしい。そんな心の内を見抜いてか、玉兎が穏やかな眼差しで満月を見上げた。
「大事なのは、知った上で何をするか、しないかだよ。月姫は、もうここの人たちのために動こうしてくれてる」
 満月は頷いて、玉兎は凄いねと小さくこぼした。
 玉兎の言葉に従い、人々がざわめき出す。緊張の糸が解れたのだろう。街の外に当てのある者は、既に数人で列をつくって歩き始めていた。段々と疎らになる街に、残ってしまった者を助けるのが、満月たちの役目だ。
 ふと、空が陰った。満月の見つめる大地に、大きな影がぽっかりと姿を現した。上空に、羽音と呼ぶには些か豪快な翼の羽ばたく音が響き渡る。つい先刻捨て台詞を残して消えたはずの、赤鴉だ。何事かと身構える満月を余所に、赤鴉に騎乗していた晴尋が颯爽と飛び降りて来た。
 すっかり騒がしくなった街を、穏やかでない膜が包み込む。
「今は、貴女たちを傷つけるつもりはありません。この後は、日側が請け負います。それを、お伝えしようと思って」
 満月と玉兎に視線をやって、淡々とした口調で晴尋が告げる。その言葉を聞いても尚、満月も玉兎も警戒を解けずにいた。しかし、人々の目が晴尋の行動を抑制しているのは明白だ。晴尋が隙を狙って、満月や玉兎を手に掛けるようなことはまずなさそうだった。勿論、晴尋の言葉通り、それは今に限ってのことに違いはないが。
「月は、帰れってこと」
 冷えた眼を送るのは、玉兎だ。それは問いかけのようであって、しかし問いかけではない。疑問調ではなく、言葉を刃のように晴尋に突きつけている。晴尋は答えず、白々しい笑みを一つ浮かべるに留まった。
「一緒に、やれば」
 満月の思いつきの提案は、晴尋ばかりか玉兎にまでも黙殺された。満月はむっとして、今度こそ無視されないように、大声で喚く。
「つまり、一先ず休戦ってことなんでしょ。だったら、一緒に……別に行動を共にするんじゃなくても、分担してやればと思ったの。その方が効率が良いのは明らかなことだし、そんなくだらないことで争うのは不毛すぎる」
 それでもその場に突っ立ったままの両者を見かねて、満月は行く当てのない民の数を数え始めた。
 少し経って、玉兎も天幕を張るための用具を集めに行ったようで、晴尋は残った民の半分と少しの人数を率いてどこかの町へ向かったようだった。
 国を思う気持ちが同じならば、きっと理解し合える時が来るのではないか。そう満月が考えてしまうのは、やはり甘いのだろうか。

 作業は日が暮れるまで行われ、ようやく最後の一人まで簡易ではあるが雨風を凌げる暖かな場所に入れることが出来た。食の提供は、どうやら日が引き受けてくれたらしく、満月と玉兎はようやく帰途についた。復興には、時間が掛かるだろう。しかし、衣食住があれば、最低限の暮らしは送れる。
 ほっと一息吐いて、次に気がかりなのは月神だった。呪が及ぼす影響を満月は知らない。けれど、どす黒く染まったあの月を思い起こせば、嫌でも不安が募ってゆく。
「玉兎、心配なら、先に帰っても良いよ」
 九尾亭から漏れる灯りを認めた所で、満月は、黙々と後をついて来る蒼白な顔をした玉兎を振り返ってそう告げた。
「ううん、これは僕の仕事でもあるし、まだ日御子や赤鴉が近くに居るからね。月姫を残して行くわけにはいかない」
 玉兎は、何でもないようにそう返して、満月と肩を並べた。それ以上口を開くことの出来ぬまま、満月は九尾亭の門をくぐる。
 活気があった。禍に見舞われたことなどまるで嘘のように、人々の息遣いは覇気に満ちている。数週間前の、あの閑散として誰もが重く口を閉ざしていた宿が、今は見違えるほどだ。
 仲居の一人が、満月の存在に気づいて、若女将を呼んで来ます、と丁寧に言って再び奥に引っ込んだ。間もなく、急ぎ足で狐鈴がやって来る。
「あの、狐鈴」
 言葉を続けようとした満月の唇に、狐鈴はそっと人差し指を当てる。
「私たち、きちんと満月に言ったはずよ。もう、私たちの決意は堅い。月の欠片は一番奥の部屋よ」
 返すのが遅くなってしまって、ごめんなさい。狐鈴は、少し悔しそうに顔を歪めて、満月と玉兎を見やり、呟いた。
「ただ、何だかここの所、欠片が、何と言って良いのか分からないのだけど……禍々しいの。前までも黒には染まっていたけれど、こんな風に気配が染み出すことなんてなかった」
 狐鈴に連れられ、辿り着いた九尾亭の最奥の部屋に、それはあった。
 固く閉じられた扉の僅かな隙間から、微かに、不穏な気配が滲み出していた。まるで、商店街を襲った禍のように、闇が触手を伸ばしている。
「これは――」
 満月は絶句した。どういうこと、だろうか。複雑な表情をした玉兎からは、感情はあまり読み取れない。
「二人とも、下がって」
 玉兎が、淡々と言い、その場に仁王立ちしている満月を後ろへ追いやった。玉兎は躊躇わず手を伸ばすと、その戸を勢い良く開け放つ。途端、ずしり、という重みが圧し掛かった。
 部屋の真ん中に、どす黒い欠片があった。しかし、ねこばあの館で見た時のそれとは、明らかに性質が異なるように満月には思えた。まるで、これは――。
「狐鈴、ありがとう。皆にも、そう伝えて」
 何か言いたげな狐鈴を玉兎は振り返ったが、彼女にそれ以上の追及を許そうとはしなかった。そのまま、玉兎は微笑んで口を開く。
「悪いようには、ならないから。だから、聞かないで」
 狐鈴と同様に、訳が分からない満月は、玉兎の後を追うしかない。
「欠片には手を触れないで良いよ。願えば、届く」
 舞い降りて来た粒子と共に、欠片も、満月も玉兎も窓を抜けると夕焼け色の空に攫われて行った。待ち望んだ欠片の帰還だと言うのに、まるで喜びがなかった。何かが、おかしい。憤りが、胸につかえて、気持ちが悪かった。
 月の敷地にやっと足をついた所で、満月は玉兎に詰め寄った。
「これは……何?」
 吐き出すように言って、満月は辺りを見渡した。息苦しさに、顔が歪み、手足が硬く強張る。ようやく見慣れ始めた荘厳な光景には、不気味な陰が取り憑いていた。


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