月姫 空夢の間[六]



 月宮殿を取り巻く空気が、禍に見舞われた商店街を包んでいた良くない気を彷彿とさせるものであることに、満月が気づかないはずがなかった。
 全身を押し潰そうとする圧力は、枷となって身体の自由をじわじわと奪っていくようだった。胸を刺激するのはきりりと冷え込んで行くような悲しみと、じっとりと粘着質な苦しみばかりで、暗い淵に追い詰められた満月は、そこから這い上がることが出来ない。
 やめて――。実体のない陰に向かって、満月は空虚な懇願をするほかなかった。
「月神様がお力を使い過ぎてしまって、均衡が崩れたんだ」
 ということは、この陰が取り巻く状況は、今に始まったことではないのだろう。闇は月神が抑止していただけに過ぎず、それが今は崩れて露わになっている。
 以前から、満月は宮中の雰囲気に多少の苦手意識を持っていたが、それは日が差し込まないためだけに過ぎないと思っていた。しかし、満月がこの空間に違和感や不安を覚えることには、どうやら他にもっと大きな要因があったらしい。
「これは、何なの」
 震える唇で満月は問うた。
 だが、玉兎は何も応えず、俯いて地面を見つめるばかりだ。
「玉兎、」
 次の句が、恐ろしくて続けられなかった。まさか、でも、という問答がしつこいほどに繰り返される。困惑に揺れる満月の瞳は、玉兎に見つめられ、怯んだように動揺を示した。
「僕たち月が、禍の権化かもしれないと思った?」
 心の内を言い当てられ、満月は表情を失くした。すぅと背筋が冷えて行く。
「私は月を信じたい、よ。だって、さっき皆に尤もらしく大演説した後だよ。私は貴方たちが嘘を吐いているとは全く思えないから、皆に全部話したの。だけど、同時に、この状況が理解出来ない」
 玉兎は、ゆっくりと頭を振った。それが、何を意味しているのか、満月には分からない。
「月姫ももう月の一員だから、このまま隠しておいて良いことじゃないって分かってた」
 玉兎は、嘆くように呟いて、満月に背を向けた。
「待ってて。相応しい人を、呼んで来るから」
 それだけ言って、玉兎は足早に門の外へと去って行った。取り残された満月は、いつも以上に理解不能な展開について行けない。
 玉兎が何を言わんとしているのか、まるで分からなかった。けれど、玉兎が「隠していたこと」が、月が禍の権化であるということではないように思える。それは、満月の希望でしかないのかもしれない。だが、満月にはそうとしか思えないのだから、今はそれを信じる。信じたい、と思う。
 その他に、自分に出来ることはないと結論付けて、満月はようやく月宮殿に急いて帰って来た理由を思い出した。
 ――そうだ、月神。
 果たして、玉兎を外に行かせてしまって良かったのだろうか。玉兎こそ、一番に月神を心配していた。申し訳なく思いながら、ならばせめて玉兎の代わりに月神の様子を確かめてこようと決意する。待つようにと玉兎に言われたが、大人しく待ってはいられない。
 陰に取り憑かれたようにして建つ豪奢な社を見渡し、満月はその中心へと歩き出した。初めはゆっくりと、けれどすぐにそれは駆け足となって、満月を月神の居る方へと導いて行く。
 回廊から見える正殿は、月宮殿の中でも一際禍々しさが増しているような気がした。胸騒ぎは収まらず、その隙を突くように、陰が満月の心の中に入り込んで行く。
 ――こんなものに、心を支配されたりしない。言い聞かせるように強く思うと、満月の中の陰はまるで光から逃れるように去って行った。
 正殿の扉の正面に立ち、満月は扉にそっと手を触れた。陰が、するすると満月の身体に纏わりついて行くような錯覚を覚える。もしも邪気というものが現実に存在するならば、こんなものなのだろう。悪寒を覚えながら、けれど躊躇うことなく、満月は扉を開け放った。
 室内は相変わらず暗く、灯りといえば、帳台を微かに照らす頼りない蝋燭の光だけだった。玉座に月神の姿はなく、満月は室内に目を凝らした。細い衣擦れの音を聞きつけて、満月は帳台の中に人影を認めた。ふと、月神の昏い瞳と、かち合う。満月を映した漆黒の瞳は、何を思っているのか、満月には何一つ分からない。
 月神は上体を柱に預け、浅く肩を上下させていた。とりあえず、生きては、いる。死と隣り合わせだというこの国の神だから、そんな当たり前のことにさえ、満月は安堵を覚えた。
 満月は恐る恐る月神に近づき、帳台のすぐ傍で足を止めた。
「玉兎は」
 何と説明して良いか分からなくて、満月は少し思案する。
「これが何なのかと聞いたの。そうしたら、玉兎が相応しい人を呼んで来るからと言って」
 勝手なことをと月神は吐き捨て、押し黙る。月神は一人で納得してしまって、満月の疑問は全く解決されていない。
「それで、この禍々しいものは何なの?」
 答えに期待せず、満月は問うた。簡単に月神が教えるような情報ならば、玉兎が答えに渋るはずがない。案の定、月神は答えなかった。
「私が、月姫が知る必要もないことなの?」
 思わず、満月は身を乗り出して尋ねていた。帳に手を掛け、月神を見据える。月神の瞳は、僅かにも小波を立てず、沈んだ色で満月の心を染めて行った。不安になって、満月は後退る。が、月神の腕に手首を捉えられ、満月はそのまま帳台の中に引っ張り込まれた。
「な、に」
 するの、とさえ言えなかった。月神の乱れた衣に頭を押し付けられ、満月は身動きが取れない。耳に掛かる月神の吐息は、その冷たい瞳や声からは想像がつかない程に熱かった。ぞくりと、全身に艶めいた感覚が走り、満月の肌は粟立った。
 反射的に月神の胸を突き離そうと腕を伸ばしたが、呆気なく両手首を掴まれ、組み敷かれた。茵の柔らかな感触を背に感じ、満月は全身を強張らせる。真っ直ぐに下ろされた宵を思わせる月神の瞳は、まるで呪縛のように満月を縛る。やっとのことで、満月は顔を背けた。
 月神の左手に絡め取られた手首は微塵も言うことを聞いてくれない。右手が、満月のセーラー服の襟に伸びる。思い直して、満月は月神の瞳を睨みつけた。そして勢いのままに、月神の股間を蹴り上げる。月神が僅かに呻き、力を緩めた隙に、満月は月神を張り飛ばして帳台から飛び降りた。
 息を荒げ、扉まで辿り着いて、満月は月神を振り返る。顔を歪めたままでいる月神に、満月はぴしゃりと言い放った。
「最っ低! 金輪際、私の半径三メートル以内に近づかないで!」

 百面相をしながら、行き先など考える余裕もなく、満月は早足で宮中を突き進んだ。
 月神の吐息の、肌の、たぎるような熱を思い出せば、顔が赤くなった。そんな自分が情けなく、満月は唇を噛み締める。異性と、あれほど近くで見つめ合ったのも、組み敷かれたのも初めてだった。しかも、月神は満月が今まで会ったことのあるどの男より、秀でた造作をしている。異国の神ということからか、そういった意味での警戒は、何一つしていなかった。
 しかし、訳が分からない。輪国の危機、月の危機だというのに、月神は何をしようというのか。小娘だと嗤った身で、満月を求めたのは、何故。
 思い出すほどに、怒りと羞恥と疑心が募った。月姫として過ごすうちに、多少は心が通い始めているのではないかという甘い幻想は、打ち砕かれた。月神の考えていることなんて、何一つ理解出来ない。その上、月神は満月にこれ以上の何かを教える気は更々ないのだ。
 やがて、流水の清らかな音が聞こえ始め、満月は次第に冷静さを取り戻して行った。辺りを見回して、そこが以前環に連れられやって来た座敷であったと気付く。そこにも勿論陰は取り憑いていた。だが、その空間はいくらか闇が和らいでいるような心地がした。ふっと身体の力が抜け、満月はその場に座り込んだ。
「姫様?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、環の姿があった。
「戻られていらっしゃったのですね。どうかされましたか?」
 いつもと変わらない環の柔らかな声に、満月の中で張り詰められていた何かが、ぷつんと切れた。頬に、一筋の滴が落ちる。はっと環の瞳が見開かれた。
「どうされたのです」
 暖かな腕で丸ごと包み込まれ、満月はわっと声を上げて泣き始めた。背中に回された環の手のひらが、満月を愛おしむように優しく撫でる。一分か二分か、或いはそれ以上に泣き喚いて、満月は泣き止んだ。
 感情を一気に放出し終わり、満月は十六にもなって泣き喚いてしまったことに今更ながらに気づいた。
「ごめんなさい。私、こんな年にもなって何やってるんだろ」
 恥ずかしさで紅潮した満月の頬を両の手のひらでくるみ、環は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。姫様のお心を少しでもお慰め出来るのなら、これ以上光栄なことはありませんわ」
 これ以上ない慈愛に満ちた言葉は、今は亡き母を思い起こさせた。だから、だろうか。こんなにも、心が安らかに静まってゆく。
「理由は、今は言えそうにないの。散々迷惑を掛けておいて、ごめんなさい」
「いいえ、姫様のお心のままになさってくださいませ。さあ、お顔を上げて」
 項垂れる満月を、環は決して咎めたりはしなかった。おずおずと上向き、満月はどうにか笑った。それなのに、気のせいか、環の表情は少し陰った。
「どうか、ご無理はしないでください」
 そう残して、環は立ち去った。再び、静寂が落ちる。
 そういえば、月神に残した捨て台詞はきちんと彼に伝わっただろうか。メートルなんて言葉は、この空間に全く馴染まない。尺や間といった単位を学校で習った気もするが、一メートルが何尺なのか何間なのかだなんて、記憶の彼方にある。兎に角、今度からは不用意に近づかないようにしようと満月は決意し、庭園をぼんやりと見つめた。
 人影――? 満月は思わず身体を固くする。月神であったら、死に物狂いで逃げなければならない。しかし、それが早とちりだったと満月はすぐに気付いた。影は二つあり、どちらも月神の外見とはかけ離れていた。
「玉兎……?」
 その横に連れ立って歩いているのは、多分、ねこばあだ。久し振りに見るねこばあの姿に、満月は心が浮き立つのを感じた。立ち上がり、満月は二人が居る方へと駆け出す。ぐんぐんと両者の間にあった距離は縮まってゆき、満月に気づいた玉兎の声が澄明に響いた。
「月姫! 待っててと言ったのに。凄く心配したんだからね」
「ごめんなさい。相応しい人って、ねこばあ様?」
「うん」
 ねこばあに目をやって、満月は微笑んだ。
「久しぶりだね、月姫」
 にやり、とねこばあは笑う。蒼い瞳が、楽しげに細められる。
「ああそれより、月神様にお会いした?」
 不安げな玉兎の声に些か良心が痛んだが、満月はふいと視線を逸らした。
「元気なんじゃない?」
 冷たく言ったが、言葉とは裏腹に満月は次第に不安になってゆく。本当に、月神は元気だっただろうか。もし、ああせざるを得ない理由があったのなら――。そう考えてしまう自分を満月は叱咤した。抵抗したにもかかわらず、力でねじ伏せるようなやり方は、明らかに間違っている。
 そう思いながらも、玉兎の顔はやはり曇ってしまって、堪えられず満月は付け足した。
「大丈夫。会話もしたし、別状はなさそうだったよ」
 幾らか表情を和らげた玉兎に、心の中で謝罪する。玉兎は何も悪くないのだ。
「月神に、手でも出されたかい?」
 ぎくりと身体を固まらせると、ねこばあのやれやれといった様子の溜息が聞こえた。
「あれは、とことん芸のない男だね。明螢を追うことしか出来ぬとは」
 ねこばあは呆れた様子だったが、すぐに満月の方を労るように見つめた。
 満月は、ねこばあの言葉を理解出来ずに首を傾げたが、説明はされなかった。
「で、あれはあんたを泣かせたわけかい」
 慌てて満月はごしごしと目縁を擦った。玉兎がはっと息を飲んで、それから哀しそうに俯いた。
 誤解されては堪らないと思い、満月は口を開く。
「でも、あの、その……月神を蹴り飛ばして逃げて来たから、平気よ」
 ねこばあは、かっかと笑い声を上げた。堪らなく、愉快そうだ。玉兎は複雑そうな顔をしている。主の無様を聞かされたのだ。何をどう言って良いか分からないだろう。
「そりゃあ、大した武勇伝だね。どれ、振られた男の顔を見に行ってみようか」
 ねこばあの陽気な声は、不思議と気分を浮上させてくれる。玉兎の顔も、先ほど満月と別れた時より随分と優れているようだ。しかし、自分を襲った男の前にわざわざ出て行けるほど、満月は肝が据わってはいなかった。
 それでも、満月の感じている不安や疑問を解決し得る可能性を持ったねこばあについて行かなければ、答えを得ることは出来ないかもしれない。満月は、気持ちを引き締め、先に歩き出したねこばあを複雑な思いで追いかけた。


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