月姫 空夢の間[七]



 正殿にくゆる薫物の香が、先刻の思い出したくもない情景を脳裏に浮かび上がらせる。蝋燭の炎は、満月を惑わすように揺らめき、淫靡な魔力を疑う程に魅惑的だった。
 月神は帳台の柱にもたれかかっているだけで、静寂を破った満月たちに向く視線に覇気はない。
 視線が交錯した、と満月は思った。断定できないのは、満月を一瞥した月神の瞳が、何も映してはいなかったからだ。
「玉兎、許可なく外部の者を引き入れたな」
 ねこばあを見やり、月神が言った。
「あたしは蚊帳の外って訳かい」
「まさか。貴様が全ての発端だろう、帛鳴」
 満月は瞠目し、ねこばあを注視した。帛鳴とは、蝕の危機を知らせた予言者であるはずではなかったか。
「帛、鳴? ねこばあ様が……?」
「この子にそれさえも教えずにいるなんてね。そうさ、月姫。あたしが帛鳴だ」
 ふっとねこばあが――否、帛鳴が嗤い、満月を混乱に陥れた。
 誰も、満月に帛鳴の死を教えた訳ではなかったが、彼の者の生を教えた訳でもなかった。明螢や珱希が死に、そればかりか多くの民が死んだと聞かされていた満月は、自然と、その時代を生きた帛鳴も同様に命を落としたと思っていた。しかしそれは満月の思い込みであったらしく、現に予言者は目の前に居る。
「なら、蝕を退ける方法は!」
 帛鳴に駆け寄り、満月は縋るように答えを待った。しかし、満月の期待に反して、帛鳴は首を左右に振った。
「あたしゃ、あくまで、予言者に過ぎないんだよ」
 帛鳴は自嘲するように呟き、再び月神を見据えた。
「それで、あんたは明螢の後追いなんか、やるつもりじゃないだろうね。否、もっと酷な――その闇に染まり切った身体で、己の曜子に触れるのかい」
 帛鳴の言葉は、仰々しく月神を捉えている。曜子、と言った帛鳴の顔は、確かに満月を向いた気がした。
「月姫は、月の愛娘。つまりは曜の子。だから曜子と呼ばれているんだ」
 耳打ちする玉兎に頷き、満月はそっと月神に横目をやった。
「ならば、どうしろと言う」
「思い出せないかい、月神。珱希が、あんたにたった一つ残したものを」
 帛鳴の澱んだ色をした瞳に、一瞬憂いが帯びた。しかし、月神はそんな帛鳴の様子を気にも留めずに、するすると言葉を紡ぐ。
「あの女が居なければ、俺は生まれてこなかっただろうに」
 月神の冷えた笑みは、壮絶なほど美しく、儚い。
 鳥肌が立ち、思わず身震いをした満月に、月神の昏い目が凄艶に細められたまま向けられた。
「曜神が男子である場合、継嗣を産めるのは、その曜の曜子のみだ」
 さぁーと血の気が引き、目の前が真っ白になって行く。身体を駆け巡る憤りと哀しみが、荒れ狂う嵐のようだった。
「私しか居ないと貴方が初めに言ったのは、そういう……こと、だったの」
「他に、何を期待する」
 月にとって、満月は継嗣を残すための道具だったのだろうか。だから、先刻、月神は満月を襲ったのか。月神の顔に広がる昏い笑みを見て、満月は思う。
「嫌、そんなの……嫌だ」
 独り言のようでいて、満月のか細い悲鳴に似た言葉は、その場の空気を打った。
「どうして今、月神を継ぐ者が必要なの」
 はたと気付いた満月は、月神を詰問した。が、月神は答えない。
「若しもの時のためだよ。月姫」
 苦し紛れの微笑を玉兎が浮かべた。若しもの時、とは月神が斃れた時のことを言うのだろう。誰よりも月神を心配する玉兎に、そんな残酷なことを言わせた自分にも月神にも、満月は腹が立った。
「私は計都と話し合うって聞いた。それなのにどうして、」
 顔を背けた玉兎は、月神を切実な思いで見つめた。だが、月神は玉兎の視線を何ともないように振り払った。
「ねぇ。継嗣を残すためだけなら、私をこれまで自由にしてきたのは何故」
 子孫を残すためだけの月姫なら、月神の寝所に縛りつけておきでもすれば良かったのだ。でも、月神はそうすることはなく、満月を下界へと送り出した。足手纏いになるような、月の欠片の回収に向かわせた。更には月を疑わせるような民の声までも聞かせた。その意図は、どこにある。
 僅かにでも良い。己を照らすものが欲しくて、満月は問うた。
「気紛れだ」
 表情を変えずに、淡々と月神が答えた。けれど、そんな答えに満月が納得するはずもない。
「月姫に賭けたいと、思われたのでしょう?」
 痺れを切らした玉兎が、代わりに言った。
「ほざけ。小娘ごときに何を賭ける」
 輪国に連れて来られた初日、月神が口にした小娘という満月への認識、それが今も変わらず彼の口から出てきた。ほんの僅かずつでも、月神との関係を築いていたはずだと思っていた満月の希望は、いとも簡単に打ち砕かれる。
 と同時に、立ち上がった月神の纏う印象が、以前より薄らいでいることに満月は気づいた。病で徐々に身体を蝕まれていった母の姿に、陰に内包された月神の姿が重なる。しかし、母以上に月神は独りだ。
 ――どうしてこの人は、私を見ない。差しのべられた暖かな手を取らない。
 気づいて欲しいと思った。月神が意図して気付くまいとしているのなら、尚更、こちらを向かせてやりたかった。
 つかつかと月神に歩み寄り、満月は背伸びをした。手のひらを、真横から振り上げる。その勢いのまま、満月は月神の横っ面を、渾身の力を込めて引っ叩いた。ついさっき、自ら月神に近づくなと言ったことは、忘却の彼方にある。
 渇いた音は、主殿を大きく揺るがした。その音と共に、月神の瞳が僅かに見開かれた。右手に痛みと共に、禍々しく重いものが流れ込む。それで満月は、月宮殿を取り巻く陰が何であるかを理解した。
 陰が、月神を蝕んでいるのだ。だから、それに触れた満月は、気がおかしくなりそうになる。
「これは、月神が禍を退けた、代償?」
 月は、呪を受け、更には散り散りとなり、殆ど曜の力を残してはいない。それでも禍を退けようと、月神が己と己の曜を犠牲にしたというのならば、この陰に取り囲まれた月の状況も、陰に巣食われた月神の姿も、頷ける。それは、満月にとって、とても哀しい真実だった。
「真実を訴え続けて、変わる民は確かに居た。日神様が居ようと、月が為そうとすることを信じてくれる人が居たの。月神が一人で全てを抱え込む必要はない。私は、無知だけど、月神が明螢様を手本に計都に挑もうとしているらしいことは分かったよ。若しも、貴方が自分を犠牲にしようと思っているのならば、それは間違ってる」
 満月は、真っ直ぐに月神を見上げた。月神の瞳は、満月を向いているはずなのに、満月を映さない。
「こっちを、見て。そんな風に、何もかも諦めないで」
 月神は、知らないのだ。商店街に咲いた、大輪の花を。人々の、危ういながらも真っ直ぐな、月への思いを。
「独りじゃない。誰もいない訳じゃない。信じようとしてくれている人たちが多く居る。それなのに、耳を塞いで、目を閉じて、周りの人たちの心に気づかないでいるのは、貴方よ。全てを拒絶して、閉じこもって、貴方は輪国を助けたい一心なのかもしれないけれど。貴方にも、一緒に生きてもらいたいと、輪国の曜神であってほしいと思っている人たちが、確かにいる」
 どうか気付いて欲しい。九尾亭や商店街に溢れ、そして今、広がりつつある民の思いに。
 青白く血色の悪い月神の頬に、満月の手形が赤く痕を残している。満月は月神の頬を、打って変わって柔らかく手のひらでくるんだ。憐れみでもなく、月姫としての役割でもなく、ただ、月神を救いたいと心の底から思う気持ちが、漲り溢れている。
 月神に触れると、やはり一段と身体が重くなった気がした。再び、満月の中に混濁が降り積もってゆく。
「どういう、ことだ。帛鳴――」
 月神が、満月の手を振り払い、初めて驚愕しきった瞳を帛鳴に向けた。その意味を量れず、満月は困惑する。
「曜子の力を見くびったね。あんたは、自分でその闇に巣食われた身体を制御していたつもりかもしれないけど、この子がいなかったら、あんたは疾うに蝕に成り果てていたはずだよ」
 帛鳴が、含みのある笑みを浮かべて、再び人形のように表情をなくした月神を見やる。月神の感情の変化は、それきり途絶えた。
「おいで、月姫」
 帛鳴が満月を手招き、ゆるやかに踵を返した。満月は一瞬ここを動くべきか迷ったが、有力な情報を与えてくれることに関しては、現在、月宮殿に帛鳴以上の者はいないだろう。
 月神の視線を背に感じながら、満月は慌てて帛鳴を追う。部屋を出る瞬間、満月は何故だか月神を放っておいてはいけないような、そんな感覚に囚われた。けれども、一瞬の迷いだと自分に言い聞かせ、満月はいくらか陰の支配の緩んだ部屋の外へとその身を滑らせた。

 帛鳴の赴くままについて行き、辿り着いたのは満月もよく知る宮中の一角だった。
「あの子が居た時のまんまじゃないか」
 満月に割り当てられた部屋を見渡し、帛鳴は目を細めた。
「……珱希さん、ですか?」
 部屋の中の、和服に紛れた洋服は、先代月姫であった珱希のものであると考えるのが妥当だろう。
「あの頑固頭が話したかい?」
「いえ、珱希さんと明螢様が出てくる夢を見て。それを話したら月神は過去夢だと」
 帛鳴は、ひげを満足そうに撫でて、慣れたように帳台に腰掛けた。
「明螢と珱希は、馬鹿な選択をしたよ。でも、あの時はそれが最良の選択だった。輪国を救うという、ただ一つの大義において」
 帛鳴は目を伏せた。覗き込まなければ、その表情は分からなかったが、きっととても哀しい顔をしているのだろうと満月は思った。
「そして、月神も同じ道を選んだ」
「月神は、自分とひきかえに計都を討つつもりで、月の継嗣を残そうとしている。そういうことですか」
 帛鳴は、皮肉げに頷いた。
 やっと見えてきた月神の思いは、自国を守る曜神の鑑と誇れるものなのかもしれない。けれどそれは、どこまでも満月や玉兎、そして輪国の民に背を向けている。
「おまけに無茶のし過ぎと来ている。あいつは輪国の諸悪の根源全てを、自分に取り込んでいるようだね」
 それが、この月宮殿を覆った禍々しい気の正体だ。
「あんなぼろぼろの状態で、蝕に太刀打ち出来るんですか?」
 彩章による呪、散り散りとなった月の欠片。そんな状況で、蝕となった計都と相対しても、蝕を退けるどころか、無駄死にで終わるのではないか。不謹慎だが、そんな憶測をしてしまう。
「月神が、月神であるまま、蝕と闘えばそうなるだろうね」
 ということは、月神は月神でなくなるつもりなのだろうか。
「明螢は、禍になり得る悪しき気を残して死んだからね。月神は、それよりましな状況をつくりたいとも思っているんだろうよ」
 明螢と羅睺の戦いの後、望まれもせず産まれた悲劇の時代。民と家と緑と月への信仰を奪い、病と失望と憎悪と哀しみとが跋扈したと言われる時代は、輪国の誰もが、もう二度と繰り返してはならないと思い、それを願っている。
 月神は次こそその状況を作らずに、輪国を次世代へと託すつもりなのだろう。禍の種を、全て自分に引き込んで。でも、それはつまり――つまり、月神はどうしようとしている?
 答えは出掛かっているのに、それを口にするのが怖かった。あえて、心を乱しているものには触れず、満月は口を開いた。
「でも、曜神が亡くなれば」
 満月の悲痛な声に、帛鳴は大きく頷いて見せた。
「どっちにしろ、国は荒れるさ。だが、前よりはましになる。月神は、その前よりましな状況をつくることに、命をなげうった」
 吐き捨てるように帛鳴が言った。帳台に投げ出された老体が、軋んだ音を立てる。
 一拍置いて、満月は静かに、やっと溢した。
「月神は、蝕に……なろうとしているんですね」
「蝕は、負の力さえあれば、いくらでも肥大できるからね。曜の力が、底を突いていたって、計都に対抗できるだろう。あたしも、蝕については詳しく知らないけどね」
 満月は感情のままに、馬鹿げていると叫び出してしまいたかった。月神は、文字通り命を懸けてまで、闇に心を売ってまで、輪国を救いたいのだ。その志だけは、満月にも理解は出来る。けれども、月神の死とひきかえの輪国の存続を、喜んで受け入れることは出来ない。そして、輪国を失うことも、勿論出来ない。
 どちらを選ぶことも、満月には出来そうになかった。
「まだ、終わってない。他に、道が、あるはずです」
 無責任なことを言っていると、満月は思った。ただの現実逃避だとも。しかし、全ての道が閉じている訳ではないのは事実だ。ここで、一縷の希望を見逃すのは――馬鹿げている。
 明螢と珱希は、絶望して道を選択したのではなかった。過去夢の中の二人は、とても穏やかだったように思える。その時、納得し得る選択を、あの時二人は取ったのだ。
 しかし今、月神は絶望したまま、蝕となり果て、独りで逝こうとしている。そんなことは、認めたくない。
 何のための、月姫だ。珱希と明螢が繋いだ希望を、せめて希望として繋ぎたい。月神と、玉兎と、共に納得し、未来を切り拓きたい。こんな、誰もが哀しい顔をしたまま、終わりたくなどない。結末が、月の蝕化などとは、認められるはずがない。
 ふっと帛鳴の表情が和らぎ、眩しそうに満月を見つめた。
「少ないとはいえ、明螢の時よりも時間は残されている。民衆の殆どと彩章が信じていないとはいえ、明螢と珱希により、前例がつくられている。この意味が、分かるね」
 可能性を、帛鳴は示したのだ。満月は、神妙な面持ちで頷いた。
「それからね、酷だろうが、月姫。あんただけが、月神を止められる」
 意外な言葉に、満月は首を傾げた。どういうことだろうか。
「今の月神は、蝕の芽とも言える。それに触れれば、普通は身体を蝕まれる。けど、あんたは今、無事だろう」
 どうやら、満月は相当無謀なことを知らずにやっていたらしい。
「あんたが、月神に触れた後、いくらか陰の支配が弱まった」
 言い渋る帛鳴に、満月の決定的な言葉が、覆い被さる。
「私は、月神の蝕を、取り除くことが出来る?」
 自分でも信じられないが、どうやらそういうことらしかった。ならば、満月が月神を蝕にさせなければ良いだけのこと。いとも簡単に道が開いてしまったことに、満月は拍子抜けする。
 月神が驚愕の表情を浮かべたのは、このためか。
 帛鳴は、自嘲の笑みを浮かべ、満月を心底思いやるように一瞥した。
「でも月姫。それが、あんたの身体に絶対に影響がないって訳じゃないかもしれない。他の者に比べれば、多少耐性があるだけなのかもしれない。今までに、例がないんだよ。だから、むやみやたらにその力を使えば、代わりにあんたが死ぬことだって有り得る」
 帛鳴の言葉にぎくりとしたことは否定できない。しかし、出来ることはしようと思う。この世界に来てから、そうやって、今までを選んできた。
「帛鳴様。私は決して、哀しい結末を選ばない」
 満月の真意を見極めようと、濁った帛鳴の瞳が、一瞬、深海の藍と草原の翠に煌めいた。だから、満月はにっこりと微笑んで見せる。
 何も失ったりなどしない。月神を、蝕にはさせない。輪国を誰一人欠かすことなく、守りきる。それが、私の選んだ道だ。


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