月姫 空夢の間[九]



 まだ夜が明けきらぬ未明、満月は目を覚ました。蝕の脅威を抱えながらも、きっと気持ちの良い朝を迎えるだろうと満月は思っていた。ところが、それは甘すぎる幻想に過ぎなかったのだと、気付く。月神の姿は既に正殿にはなく、満月はその広々とした間に一人、取り残されていた。これならば、寝ずの番をすれば良かったと後悔してももう遅い。台盤の上で一晩眠った所為か、身体中が痛む。それが、惨めさに拍車を掛けていた。
 ただ月神の姿が見えないだけなのに、どうしてか胸騒ぎがする。月神と引き合っているはずの引力が、互いに月の敷地内に居るはずなのに、とても弱弱しいものに感じられた。
「月神……?」
 月神の気配は全く感じられないが、声に出さないと自分を保っていられなくなりそうで、怖かった。月宮殿には、帛鳴も月の精もいる。そう分かっていても、人恋しさは拭えず、焦燥感が募ってゆくばかりだった。
 正殿を駆け、回廊を抜け、庭園を無我夢中で突っ切ったが、月神の姿はそのどこにもない。
 前方に広がる光景に違和感を覚え、満月はふと立ち止まった。庭園の半分を埋め尽くそうかという白砂を、見慣れないいくつもの斑点が覆っている。大小様々に散らばった黒っぽい斑点は、一見、元々あった模様のようにさえ見える。何だろうかと怪訝に思い、満月は歩を進めようとした。が、それは唐突に妨げられた。
 ぴちゃ、と頬に感触があった。生ぬるいものが、頬骨に沿って伝ってゆく。自らの頬に押しつけた手のひらを目の前でかざして、満月の喉はひくついた。
 鮮やかすぎる紅は、血。とろりとした感触と共に、ぬるい温度が伝わる。心臓が、どくんと脈打った。上空を仰ぎ見ると、毒々しいほどの紅が、鉛灰色の空に影をつくっていた。
 嘘だ、と声にならない声が上がる。
「ぎょく、う……玉兎、玉兎玉兎玉兎!」
 がちがちと、歯が鳴る。嫌だ、嘘だ、と叫び出してしまいたい一方で、満月は目を逸らしてはいけないとも感じていた。
 紅の鳥の――玉兎の身体に突き刺さった矢の本数は、数えきれない程だ。それでも、玉兎は鉄に貫かれた翼で飛び続けていた。
 やめて、と満月は震える唇で形作る。玉兎の命の灯火が儚く消えて行ってしまうようで、怖かった。
 池の上まで来たところで、どうにか水平を保っていた玉兎の身体がふらりと傾く。そのまま、翼はこと切れたかのように羽ばたくのを止めた。巨大な鳥は、重力に逆らうことなく、ただただ落ちて行く。鈍い衝撃音が響いて、池の水が津波のように激しく波立った。
 水底が透けて見える池の水に、紅が混じり合う。そうして、瞬く間に、池は玉兎の血潮で染まって行った。
「玉兎!」
 池に飛び込み、ばしゃばしゃと激しい水音を立てて、満月はぐったりと動かない玉兎に駆け寄った。
 酷い出血をしている。兎も角、池から引き上げなければ。そう思いながらも、真っ白になった頭は上手く働いてくれない。
 玉兎の身体は、触れることさえ躊躇してしまう程の傷と血潮で覆われている。若しも、玉兎に触れることで彼が苦しんでしまったらと思うと、満月はまるで別人のような巨大な鳥に、いつの間にか畏怖を抱いていた。
 否、その畏怖の向かう先は、玉兎の死だ。玉兎が、このまま永遠に目を覚まさなかったらどうしよう。そんな悪い想像ばかりが過ぎっている。
 ――そんなの、駄目。絶対、駄目だ。
 唇を引き結び、満月は玉兎に手を伸ばす。
「玉兎、今助けるから」
 触れれば、玉兎が微かに身を捩ったような気がした。もう、殆ど身体を動かせない状態だからか、玉兎はそれ以上の抵抗は見せない。
「ごめん、ちょっと辛抱してね」
 満月の何倍もある身体は、ちょっとやそっとの力では思うように動いてくれなかった。力を込める度に滲む紅を直視すれば、益々満月の身体は強張った。
 泣き出しそうになりながら、満月は渾身の力を込める。それまでびくともしなかった玉兎の身体が、動いた。急に軽くなった玉兎の身体に目を丸くしていると、不意に肩に触れるものがあった。
「月姫、もう大丈夫だよ」
 気づけば満月の周りを、帛鳴と、環を始めとした月の精たちに囲まれていた。誰もが、玉兎に手を差し伸べ、彼を救い出すことに必死になっている。
 満月はあまりにも混乱して、周囲が見えなくなっていたらしい。僅かに安堵して、息を吐く。
 玉兎を汀まで運び、その身体を陸地へと引っ張り上げた。見る見るうちに白砂を染め上げて行く紅が、目に障った。
「どうして、どうしてこんな――」
 矢を抜く度に噴き出す血と、それに伴って身じろぐ玉兎の身体があまりにも痛々しい。満月の手も、月の精たちの手も、血塗れだった。
「どうして……何で、こんな、酷い」
 言葉にすれば、憤りが募った。
 昨夜、正殿を訪れる前に見た光景が自然と思い出される。そして、月神の冷たく哀しい言葉と笑みも。月神は、こうなることを、予期していたのだ。その上でのあの月神の笑みは、一体何を意味するというのか。
「――日宮殿に行ったのだろうね」
 帛鳴が渋い顔をして呟いた。
 晴尋と赤鴉、それから彩章を思い起こせば、胸が圧迫され、心が尖っていった。よくも玉兎を、と瞳に鋭い光が射す。満月は、自分の中に何だか良くない感情が降り積もって行くのを、他人事のように感じていた。
 それにしても、月神は何故、わざわざ玉兎を現在敵地と認識している場所へ送り込んだのか。昨夜の月神の様子を思い返すが、答えは出なかった。
「日の縛りが、消えているね」
 帛鳴が、ぽつりと呟く。帛鳴の瞳は、鈍い光を発しながら満月を見据えていた。
「それは……つまり?」
「呪が、解かれたようですわ」
 環が代わりに答え、玉兎に刺さっていた最後の矢を抜き終えた。
 満月は、いまいち納得できずに辺りを見回す。
「何も変わってないようだけど」
「月は既に蝕の芽となってしまっているからね。曜の力は相変わらず底が尽きかけているから、この嫌な状況は変わらないだろう」
 帛鳴はどこから持ち出したのか、布に何か液体を含ませて、玉兎の口元に持って行った。
 苦しそうだった玉兎の表情が、いくらか和らぐ。帛鳴が飲ませたのは、鎮痛剤のようなものだろう。
「問題があるとすれば、」
 そこで一旦、帛鳴は言葉を切った。満月が、はっと目を見張ったのを認めたからに違いなかった。
「月神――! あの人は、どこに?」
 呪と月の崩壊が重なり、月神は外に出られないと言った。しかし、呪が解けた今は――?
「お姿が、ありませんわ」
「まさか、もう計都国へ?」
 絶望的な気分で、満月は低く問うた。
「まだだろうね。輪国を覆う陰が、取り除かれていない」
 でも、いずれは計都国へ向かうつもりなのだろう。帛鳴の言葉はさほど満月を救わなかった。気落ちするままに、満月は俯いた。
「昨日の夜、偶然鳥を……玉兎が飛び立って行くのを見かけて、月神に聞いたんです。玉兎をどこにやったのって」
 そう心の内を明かし始めたら、満月は己の奥底から溢れ出る強烈な思いを押し留めることが出来なくなっていた。
「もっと、ちゃんと聞いていれば良かった! ううん、私が玉兎を呼び止めておけば――」
「呼び止めておけば、玉兎はこんな姿にならなかったし、月神は蝕にならないとでも言うのかい?」
 帛鳴の冷えた声に、満月は顔を上げた。
「月姫が仮にその時、玉兎を止めていようが何をしようが、月神は輪国を救うために日の祠を壊し、蝕になろうとしただろうよ」
 それだけ、月神の決意は固いのだ。改めて諭されて、満月は気付く。
 例え、満月が月神の蝕化を止めようが、彼はどうにかして輪国を救おうと更なる無茶をするに違いない。満月には月神の蝕化を止めることが出来ても、月神の意志を潰すことは出来ない。何より、月神の志と満月の志は同じものであるはずだった。
「私は……それでも、輪国も月神も失いたくない」
 そう、決めたのだ。頼りなく、けれど真っ直ぐに帛鳴を見つめれば、満月は彼女のぼんやりと深い輝きの中に囚われた。
「月、姫」
 聞きたかった声が擦れて聞こえ、満月は帛鳴の視線から逃れ、反射的に玉兎を向いた。止血しても尚、流れ続ける血潮が、どうしようもなく満月の顔を歪ませた。しかし、頑なに閉ざされていた玉兎の瞳が、今は細く開かれている。
「玉兎!」
 言いたいことは沢山あったというのに、それだけしか言えず、満月はそっと玉兎の羽毛を撫でた。
「大丈夫なの?」
 やっとのことでそう問うと、玉兎は僅かに首を縦に振った。
「あんまり動かないで」
 すぐに、満月が玉兎を咎める。心底心配しているからそう言ったのだが、玉兎はこの場に似合わない苦笑を返した。あまり言葉が発せられない様子の玉兎に代わって、またも帛鳴が口を開く。
「彩章自ら放った攻撃ならともかく、重傷とはいえ、ただの怪我さ。こんなことで死ぬような玉ではあるまい?」
 玉兎は頷き、満月を縋るように仰いだ。
 満月は帛鳴と玉兎のやり取りを目の前にしても、不安が纏わりついて離れなかった。だって、こんなにも玉兎は血を流している。
「月姫、僕は、月神様に従うことしか出来なかった」
 そこまで言って、苦しそうに玉兎が咽る。
「喋らないで」
 満月の制する声に、玉兎は耳を貸さなかった。
「月姫、君だけが月神様を救える。僕には出来なかったけど、月姫なら」
「玉兎、」
 今度は満月の声が擦れた。
「僕は、輪国の要だよ。こんなことじゃ、死なない。それに、月神様と月姫を残して行けるわけないでしょ」
 いつもの微笑みで、玉兎は満月の心に柔らかで穏やかなものを注ぎ込んでくれる。
 だから、何が何でも守らなければならない。玉兎や月を信じてくれた人たちが守りたいものを。本当ならば、暖かな光の中に居るであろう、この国の曜神を。
「帛鳴様、環、皆……玉兎をお願いできますか」
 視線を上げて、飛び込んで来たのは、確かな安心感をもたらしてくれる強い眼差しだった。
「あんたなら、やり遂げられる。そう言っただろう」
 帛鳴の手のひらを、頭の天辺に感じ、満月は照れ臭そうに笑顔を向けた。
「お二人揃ってのお帰りを、お待ち申しあげておりますわ」
 しっかと頷いて、満月はゆっくりと歩き出す。
 全神経を淡い糸の先へと向けた。そこは、昏く寂しい場所だと何となく感じる。否、月神が居る場所ではなく、彼自身がそうなのだ。
 月神を救いあげる術を、自分は持っているだろうか。自問に答えられずに月宮殿を後にし、水面がぶれたような空間の中に飲み込まれる。地上に着いて、満月は毅然と上向いた。
 月神の心に触れることは叶うかどうか分からない。何の術もなく、月神の元へ向かっても、きっと満月は彼を落魄させる魔となってしまうに過ぎないはずだ。けれど、月神の選択をやめさせるだけの切り札があれば、彼もあえて自分と曜を犠牲にするようなことはしないだろう。
 森の木々がざわめく声に、満月はつと身構えた。鋭い視線がじっとりと腕に、足に、纏わりついている。来る、と思った瞬間、ひやりとした冷たい刀身が、満月の喉を突き破らんと繰り出された。


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