月姫 空夢の間[十]



 覚悟していた衝撃は訪れず、満月は半ば放心したまま、面をほんの少しもたげた。
 繰り出された切っ先から剣の柄までさっと目を走らせる。数拍の後、満月は相手の顔を見上げた。やはりそうかと納得するが、同時に疑念が湧いて来る。
「日御子」
 喉が震えれば、冷たい感触が満月の全身を総毛立たせた。刀身は喉に触れるか触れないかのぎりぎりの所で、満月を威圧していた。が、どうやら一思いに満月を貫こうとはしていない。
「おはようございます」
 晴尋は丁寧に言ったが、言葉尻に焦りのようなものが混じっていた。それで満月はいくらか緊張の糸を解く。
「何故、こんなに朝早くから、月の地へ?」
 言って、満月は晴尋の後ろに見慣れない少女の姿を認めた。首筋から肩にかけてすとんと迷いなく落ちた蜂蜜色の髪が、さらさらと風に揺れる。朱色の瞳にどうしてか既視感を覚えて、満月は目を眇めた。
「随分と、変わられましたね」
 晴尋が、ふと思い立ったようにこぼす。
 それもそうだ、と満月は嗤った。初めて晴尋と遭遇した際、満月は何一つ輪国を、そして月を理解していなかったのだから。
 あの時満月は、素手で向かって来た晴尋に対してさえ、怯えていた。しかし今は、一瞬で喉を切り裂いてしまえる鋭い刃を突き付けられているというのに、落ち着き払っていた。
「私を殺すつもりなら、そんなまどろっこしいことはしないと思って」
「なるほど」
 晴尋は僅かに眉を動かして、芝居めいた口調でそう言うと、さっと剣を鞘に収めた。
「晴尋、貴方そうやって陰険なやり方だから、周りの人に嫌がられるのよ」
 少女が溜息混じりに呟いた。満月は、その声には聞き覚えがあった。
「若しかして、赤鴉――さん?」
「そうよ。この姿で会うのは、そういえば初めてね」
 微笑んで、しかしすぐに険しい表情に変わった赤鴉は、躊躇いがちに満月を見つめた。
「玉兎と同じで、火の鳥にはもう一つの姿があるってこと」
 一人納得して呟く満月の視界の端で、赤鴉の華奢な細い肩が、何かに反応してぴく、と震えた。
「赤鴉や玉鳳は総称して曜命ようめいと呼ばれています」
 付け加えた晴尋に、一言そうと返して、満月は晴尋と赤鴉をじっと見据えた。
「玉兎はあんなに傷つけられたのに、貴方たちには傷一つない」
 吐き捨てた満月は、再び身体中に激昂の渦が逆巻くのを、今度ははっきりと感じていた。
「玉兎は、日を傷つけた?」
 赤鴉の澄んだ瞳が、耐え切れなくなったように逸らされる。晴尋は、表情を崩さなかった。
「いいえ」
 上手く喋れない様子の赤鴉に代わって、晴尋がゆっくりと答えた。酷く冷静で淡白な響きが、耳の中で重たく鳴った。
 血が逆流し、胸に荒々しい感情の波が押し寄せる。満月は歪んだ瞳を更に歪め、晴尋と赤鴉に詰め寄った。
「何で! なら、どうして――! ふざけないで!」
 赤鴉を庇うようにして立った晴尋の胸倉を掴んで、その身体を叩きつける。しかし、晴尋の身体が地面に転がることはなかった。
 無抵抗の玉兎に、あれほどの深手を負わせた日が、ただただ憎らしかった。こんなにも、激しく醜い感情が自分の中に眠っていたのかと、一瞬満月は気づく。けれど、刹那の戸惑いは、怒りと嘆きと哀しみが押し流して行った。
「どうして分からないの! どうして、」
 満月は晴尋に腕を伸ばしたまま、その胸にかじりついた。
 晴尋の手が、以前よりは遠慮がちに満月の手首を掴む。
「月の呪は、解かれたのですよね」
「玉兎を射掛けておいて、よくもそんな白々しいことを」
 睥睨し、満月は晴尋を掴む手にありったけの力を込めた。
「なら、どうして――っ」
 満月の声音に似た戸惑いの言葉は、赤鴉からだった。まるで、嗚咽を漏らすかのように震える声は、赤鴉の強気な印象を損なわせた。
 満月と赤鴉の、どうしてとどうしてがぶつかり合って、その激しさに火花が煌々と散った。
 顔を上げた満月は、間近で晴尋の瞳とかち合う。満月が瞳に宿したものと同じものが、そこにはあった。この人もまた自分と同じで、輪国と日と彩章のために必死なのだと満月は思った。
 手は自然と晴尋から離れて行った。
「日が、月に聞きたいことは、言いたいことは何?」
 一歩後退り、満月も真っ直ぐに視線を返す。取り乱した様子であった赤鴉は、それですぐに落ち着きを取り戻した。
「月は日によって縛られて光らなくなったものだというのが、彩章様をはじめとした我々日の見解でした」
 晴尋は相変わらず丁寧に満月を導く。
 月が光らなくなった理由を、日側は誤解している。勿論、呪の影響が多少なりともあった可能性は否定できない。しかし、何にも勝って月を追い詰めているのは月神自身だった。
「今まで、曜を縛るなんてことは例がなかったの。曜の力をある程度弱体化させ、月神を曜という籠に閉じ込めることが出来れば、あの時、あたしたちは安心できた。だけど、」
 曜同士の干渉は禁じられていたはずの世界で、明螢は羅睺を亡き者とし、自らも共に果てた。そして明螢を継いだ月神も、日にとっては訳の分からない言い分を並べ、不穏な動きをしている愚かな曜としか取れないのだろう。だから、明螢の時代に帛鳴が下したのと同じ予言を告げに来た月を呪で縛った。
 それでも、月は民に真実を訴え続けた。それが、彩章の逆鱗に触れた。日は月を、縛るよりも徹底して、輪国から排除しなければならなくなった。
 その上、輪国にはどうしてか曜が二つ存在する。他国は一国につき一人の曜神を配されているのだから、彩章が暗愚なる月を亡きものとし、一曜で輪国を守ろうと思うのは不思議なことではない。
「玉兎が月を解き放ったのに、月は依然として光る気配がない。だから、様子を見に来た?」
「まあ、そういうことですね」
 晴尋はちらと月を見上げ、微かに苦い顔を浮かべた。
「貴方たちが蝕の存在を認めないのであれば、いつまで経っても理由は分からないまま。だけど、蝕を認識すれば、きっと全て分かる」
 満月は有りっ丈の思いを込めて、懇願するように言葉を紡いだ。
 晴尋は、顔を顰めた。その顔が物語るのは、月の言葉は信用ならないという変えられない存知だ。
 諦めるものかと満月は再び口を開こうとした。しかし、思いがけず、それを遮る声があった。
「晴尋。あたしは月の考えがとち狂ったものだとは、思えない、わ」
 呆ける満月を余所に、晴尋の目には険が宿り、赤鴉は負けじと彼を睨み返していた。
「赤鴉」
「人はね、晴尋。見たくないものを見ないようにして生きてしまうのよ。どうしても」
 少女が男を諭す姿は、ちぐはぐなようでいて、どこか神々しくさえある。
「赤鴉、絆されてはいけません。貴女は赤凰せきおう――この世にたった九しか存在し得ぬ曜命なのですよ」
「だからこそ、よ。――あたし、計都国に行くわ」
「赤鴉! 曜同士の干渉は、天の理に反する」
 荒々しい声は、晴尋が礼儀正しい策士に留まらないということを満月に印象付けた。
「日と月は、もう十分すぎるほどに干渉したわ。それも、身勝手な理由でね」
 一国に二曜も曜は必要ない。その偏った考えを、赤鴉は自ら身勝手と称した。頑なであったものが、するするとほどけてゆく。
「曜神殺しの方が、罪は重いわ。計都を見に行って、それでも月がただの大嘘吐きだったならば、あたしは納得して彩章に従う」
 赤鴉はそう言って、更に続けた。
「確実なことでもないのに、彩章に罪を犯させることの方が、あたしは怖い」
 何よりも主を思いやる赤鴉の心中が、玉兎に重なった。
 晴尋の顔は、丁度影に隠れて見えない。満月は、赤鴉に一歩歩み寄った。
「ありがとう……ございます。赤凰」
 満月が礼をすると、赤鴉の口角がにっと吊り上がった。
「仕様がありませんね。赤鴉を一人で行かせる訳にはいきません」
 晴尋は額に手をやり、項垂れるようにして満月を覗き見た。
「月の愚行こそが真実だと明らかになった場合は、どうされますか」
「――答える、必要がない」
 晴尋の眉間に、皺が一筋薄く寄る。
「責任を取られないおつもりですか?」
「いいえ。だけど、真実はそうではないと、私は知っているから」
 微笑んで、満月は晴尋を見上げた。
「なるほど。良いでしょう。若しも月が豪語する真実とやらが過ちであった場合、相応の裁きが下ります」
 赤鴉が転化し、晴尋がそれに騎乗する。飛翔しかけた赤鴉に向かって、満月は慌てたように口を開いた。
「待って!」
 やや渋るが、満月は早口で続けた。
「お願いしたいことがあるの」
 急な満月の申し出に、晴尋は些か表情を曇らせた。
「私を、今すぐ輪国の――そう、多分中心辺りの街。そこに連れて行って欲しいの」
「目的は?」
 不審そうに尋ねられたが、満月は迷わなかった。
「月神を救う。理由は、貴方たちが計都に視察に行って、月の言葉を認めれば、きっと分かる」
 お願い、と懇願するように赤鴉を見つめると、お安い御用よと朗らかな笑みが返って来た。
「玉鳳を奪ったのは、あたしたちだから」
 何か言いたげな晴尋を納得させようと、赤鴉が告げる。
「その代わり、あたしたちが帰って来るまで、彩章に罪を犯させるような真似はさせないと約束して」
 その意味を量りかねて、満月は首を傾げた。
「月神が輪に日に害為すことあれば、あたしと晴尋がいなくとも、彩章が真っ先に動くわ。それをさせないだけの力が貴女にはある?」
「日が、計都国視察を実行してくれれば、月神は決して無茶はしないはずだから。私でも月神を止められる」
 満月が何を思い描き、そう宣言するのか。それをまだ理解していないはずの赤鴉が、何も聞かずに地上に降りてきた。
「晴尋、異存はない?」
「あると言ったところで、貴女は考えを曲げる気など更々ないのでしょう」
 仕方なし、といった様子で晴尋が満月に手を差し伸べた。
「きちんと掴まっていないと、落ちて即死、ですよ」
 満月は戸惑いつつも、晴尋の手に指を添える。すぐに腕を掴み直され、引き上げられると、満月は赤鴉の背に跨った。
 不謹慎にも、初めて曜命に乗るならば、玉兎の背が良かったなどと思う。でも、それは全てが終わった後が良いと思い直した。
 それにしても。
「掴まるってどこに?」
 当然のように赤鴉には吊り革も手摺りもついてはいない。
 答えない晴尋に代わって、飛び立とうと翼を広げた赤鴉が少し怒ったように喚いた。
「曜命を舐めないでよね。たった二人しか乗せてないのにあんたを落とす訳ないでしょ!」

 風を切り、大鳥は高空を滑走する。吹き荒ぶ冷風が、制服の他に衣を纏わぬ満月の柔肌を裂くかのようだった。
 陰の濃度が増してゆくのが、それに伴って月神との距離が縮まってゆくのが、満月には鮮烈な程に感じられた。雲影の遥か下方に渦巻く陰の根源――その中心に月神は居た。重苦しい昏いものに食まれた月神は、憔悴しきっている。雲の上からでは月神の姿など点のようにしか見えないというのに、満月はそれを確信していた。
「あれは」
 晴尋と赤鴉から、驚愕と不審の声が上がる。
「出来れば、近くに降ろして」
 尚も尋ね、責めようとする二人を無視して満月が言った。
「計都国を訪れれば、きっと全て分かる。私は赤凰との約束を必ず守る」
 だから、真実を見つけてきて――。
 陰に身を委ねた月神の姿を見た者は、誰しもが彼こそが禍の権化だと叫ぶだろう。しかし、満月はそれを覆さねばならなかった。
「分かったわ」
 祈りが通じたのか、はたまた曜命の意地か、赤鴉が了承する。急降下を始めた赤鴉に振り落とされぬよう、晴尋が満月の腰に腕を回した。
 月神に近づく程に、呼吸が辛くなる。負の感情に、心を支配されそうになる。このまま、晴尋や赤鴉をこの空気に触れさせていれば、折角、計都視察へ向けて固まりかけた彼らの気持ちを、変えてしまうかも分からない。
 満月は、地面まであと数メートルの所で晴尋の手を振り解く。
「お願い、行って!」
 叫んで、満月は空中に身を投げ出した。咄嗟に伸ばされた晴尋の手のひらが、虚しく空を切った。
 訳が分からないであろうに、赤鴉は大きく頷くと、急旋回した――北西へ、計都国へ向かって。
 切り札を、得た。そう確信した満月は、霧のように陰が広がるその中心へと、吸い込まれるように落下して行った。


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