月姫 空夢の間[十一]



 果てしなく続く常夜の如く、陰が大地を取り巻いている。息をする度に頭が締め付けられるように痛み、足を運ばせればあまりの気だるさに意識が遠退いた。
 また一歩、満月は足を踏み出す。黒衣の後ろ姿が、一段と鮮やかに瞳に映し出された。しかし、満月には、その姿が今にも掻き消えてしまいそうな程に儚く見えてしまう。
「月神」
 美しい所作で振り返った曜神の顔に、表情はない。恐らく、月神は最後の仕上げに掛かったのだ。全ての災厄を取り込むために、輪国の中央へとやって来た。そのまま、計都国に乗り込むつもりで――。
 しかし、そうさせるつもりは満月には毛頭なかった。
「こんなこと、やめよう?」
 硝子玉のような月神の瞳が、微かに細められた。
「近づくな」
 地を這うように低い声が、あからさまに満月を拒絶する。
「蝕になれば、きっと悲劇の時代が繰り返される」
「それでも、国が滅ぶよりましだ。幸い、輪には二つの曜がある。俺が死んだところで――月が果てたところで、何の影響がある?」
「狐鈴たちを――民を裏切ることになる。貴方を信じた人たちを」
「それでは、お前は輪を見捨てろと言うのか。それこそ裏切りと俺は思うがな」
 月神は嗤うと、満月に向けて右腕をかざした。途端、青白い光が満月の身体を掠めた。以前に満月を守ったその光は今、敵意を以て満月に向かっている。そのことが、身体に出来た掠り傷以上に、満月の胸に痛みをもたらした。
「退かないのなら、殺すことも厭わない。昨夜も、言ったな」
 冷やかな眼差しを、満月は真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、何のために呼ばれたの。貴方が死んでゆくのを、黙って見ているため?」
「継嗣を産ませるためだと言ったろう。それも無駄に終わったが」
「そういうことじゃなくて、」
 何が言いたいのか、満月は自分でもよく分からなかった。ただ、月神を暗闇から掬い上げてあげたかった。だのに、何もかも上手く出来ない自分が酷くもどかしかった。
 満月は目を伏せ、過去夢の中の珱希と明螢を思い浮かべる。二人の命は散ってしまったが、彼らはその時出来得る最善の方法を選んで死んだのだ。孤独や絶望の中に身を沈め、こんな風に顔さえなくしてしまったりはしなかった。
「こんな哀しい形で輪を救わせるために、珱希さんも明螢様も未来を託したわけじゃない!」
 叫び、凍てつくような光の矢を受けながら、満月は月神に駆け寄った。
 月神の眉間に、ぐっと皺が寄った。それを合図に、先刻とは比べ物にならない程大きな光が、速度を上げて一直線に満月を目指す。咄嗟に目を瞑ろうとした瞬間、月神の顔が、耐え切れなくなったように情けなく歪んだ。
 胸を貫くはずの衝撃が、なかった。満月は恐る恐る目を開いて、仏頂面の月神を視界に認めた。彼の放った光は、消えてしまっている。
「去れ」
 訳の分からないまま、月神の言葉を咀嚼し、合点がいった。
 この人、私を殺せなかったんだ……。
 はっとして、月神を見つめる。場違いにも少しだけ笑むと、満月はゆっくりと月神に歩み寄った。背伸びをして、月神の冷え切った頬に両手を伸ばす。
 ずしん、と重みが来た。蝕が、満月の中に流れ込んで来ているのだ。月神もそれを理解したのだろう。はっと全身を強張らせて、後退しようとする。
「一人じゃない。貴方はもう、一人で頑張らなくて良いの」
 満月の手を振り払おうとした月神に、幼い子を教え諭すようにゆったりと言葉を紡いだ。
「赤凰が、計都国を視察しに行くと約束してくれた」
 月神の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「お前――」
「蝕になんて、させない。貴方は輪国の希望なんだから」
 突然、満月と月神を柔らかな光が包み込む。陰が、すぅと霧散してゆくのが、はっきりと分かった。
 ね、と首を傾げると、そのまま満月はずるずると地面に崩れ落ちた。途中、おいという声がして、腕が背中に回される。だが、月神も耐え切れなかったのか、そのまま二人一緒に地面にぺたりと座り込んだ。
「死ぬかと、思ったんだから」
 再び、月神の頬に両手をやり、そのあまり肉のついていない頬をぎゅーっと引っ張った。嫌な顔をされたが、特に振り払われはしない。
「あれは」
「分かってる。貴方がこの国を守ろうとしてそうしたってこと。私は、貴方の蝕を取り除けてしまうから。だけど、ちょっとは私や他の人たちの話に耳を傾けてくれたって良かったでしょ」
 息を吐くと、何故か涙がこぼれた。
「嘘、何で――」
 あたふたと満月は両手で顔を覆ったり、月神から顔を背けたりした。が、月神に片手を奪われ、満月は呆然と目の前を見つめるしかない。
 月神の指先が、満月の目頭から目尻までを優しくなぞってゆく。それで、意思とは相反して満月の涙腺は決壊した。ほんの僅かに温度を感じさせる月神の指が、彼が生きているということを満月に実感させた。
「泣くな」
 困ったような響きを感じて、満月は泣きながら笑った。
「可笑しな奴だな」
「色々、あり過ぎたの! 本当に、生きてるのが夢みたい」
 満月は倒れ込みたいのを必死で我慢しながら、言い放つ。今ここに布団があったのなら、この場が屋外であることも、月神が目の前にいることも構わず、眠り込んでしまえるだろう。それくらい、色々なことがあった。
 だが、倒れ込む前に告げなければならないことがある。
 満月はすっかり安堵して崩してしまった姿勢を、もう一度正した。
「――九螢きゅうけい
 凛と澄んだ鈴の音のように、それは大地に溶け込んだ。ややあって、月神が怪訝そうに満月を見やる。
「何……?」
「貴方の名。珱希さんと明螢様が貴方に残したの。貴方が、九つの曜を照らすひかりとなるように。明螢様の意志を継いで」
 満月は、宝珠のしまわれた箱を、そっと開けた心地がした。珱希と明螢が残した月神への贈り物は、そこに閉じ込められて十数年の月日が経っているというのに、まるで色褪せることなく、彼に馴染んだ。
「何故、そのようなことを知っている」
「夢で、見たの」
「……全く、勝手な話だな。全てを次の世代に押しつけて」
「貴方も同じようなことしようとしてたじゃないの」
 むっとして、満月は言い返す。月神は、どれだけ母である珱希と、父である明螢に愛されていたのか、今だに理解してくれない。
 否、それとも分かってくれただろうか。本当に嫌ならば、あまりにも横暴なこの曜神は、自身の両親と満月を罵倒しただろう。そして、そのような名など要らないと吐き捨てたに違いなかった。
「貴方に、とても似合う」
 月神が目を見張る。それで現実に引き戻された満月の頬は、一瞬にして朱に彩られた。
 あまりにも、明け透けにものを言ってしまった。日本ではこんな風に、異性に物を言うことなど殆どないに等しかったというのに。
 しかも、いくら状況が状況とはいえ、男の頬を自ら触ったりつまんでみたりするとは何事だろうか。おまけにこんな美形の前で涙を流してしまったりした。どれだけ崩れた顔をこの人に晒してしまったのだろう。
 満月は疲れ果てていたことなどすっかり忘れて、さっと立ち上がった。
「おい、」
 どうかしたのかと早口で尋ねられ、何でもないと言って顔を逸らすのが精一杯だった。
 間を置いて、ちらりと気付かれないように月神を一瞥すると、彼は相も変わらずどっかりと地面に座り込んでいた。満月の動揺など、微塵も理解していないのだろう。月神に、そういう気遣いを求めるのは全く無駄に違いなかった。
 勿論、月神が満月の心の内を手に取るように分かってしまう男であっても、困るのだけれど。
 こういう横暴で不器用な人だったからこそ、満月は月神と向き合えたのかもしれない。そう思うと、先程の焦りがどうでも良いことのように感じられた。
 少し腰を折り、手のひらを月神に差し出す。
「帰ろう、九螢」
 月神――九螢は再び目を見張ると、渋るように視線を泳がせた。
「ほら、早く」
 散々悩んだ挙句、九螢は思いのほか強く、満月の手に己の手のひらを重ねた。九螢の手のひらは、ひんやりと心地良い冷たさで満月を満たす。骨ばっているが長い指は、満月の手を覆ってしまう程だった。
 ぐっと身体を後ろに逸らし、満月は九螢を立ち上がらせる。
「おかえり、九螢」
 笑って九螢を見上げると、僅かに彼の唇の端が上がったのが分かった。瞠目して、満月はその顔をまじまじと見つめる。嘲りの含まれていない九螢の笑みを、満月は初めて見た。
「ただいま……とでも言うべきか」
 微笑し、九螢は満月の頬に指を滑らせた。月神の指が、頬に出来た掠り傷を二度三度と優しくなぞった。痛みが、そっと引いてゆく。
「すまなかった。そして、感謝する」
 呆気に取られた満月を置いて、九螢はゆっくりと月の宮へ向かって歩き出す。
 一向に歩き出そうとしない満月を訝ってか、九螢がゆらりと振り返った。
「行くぞ」
 さっきまで座り込んでいたのは誰よ、と悪態を吐きつつ、満月は数歩先の九螢目指して駆け出した。
 陰が全て取り去られた空は抜けるように青く、二人を包む陽光は春の日射しのように柔らかだった。


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