月姫 花氷の行方[一]



 人工の静寂の中で、姉弟の控えめな笑い声が響き合う。ちらと窓の外を見やり、京華は小さく嘆息した。
「もう、こんな時間だわ。そろそろ行かなきゃ」
 面会時間は病院によって二十時までと定められている。無情にも、時刻は面会時間終了の十五分前を示していた。しゅんと項垂れた様子の弟は、年の頃は京華とさほど変わらないというのに、子供っぽさを増長させていた。
 京華は苦笑して弟の癖っ毛の髪を撫でる。そうすると、子供扱いするなとばかりに目を剥くから、この弟は本当に扱いに困る。
和理かつり、明日は悠里さんもお見舞いに来てくれるそうよ」
「えっ。でも俺もそろそろ退院するって言ってたじゃん。悠里さん忙しいのに、迷惑掛けたくないよ」
「折角お休みを取ってくださったんだから、素直に甘えなさい」
「……じゃあさ! みつ姉の話、またしてくれるかな」
 手のひらを返したように、和理は目を輝かせてもう一人の姉、満月の名を満足げに口にする。
 黒川満月――。お人好しな彼女は、嵐のように京華の前に現れて、そして嵐のように去って行った。外国に留学していることになっているが、本当の所どうなのか、京華は疑っている。
 ただ、無事であれば良いと思う。京華と和理がこれだけの幸福に包まれているのは、他ならぬ満月のお陰であるのだから。否、そんな利害の計算は抜きにして、京華にとって満月は良き友人であった。
 京華は、目を伏せ、そして鞄を手に立ち上がる。
「どうかしら。ほら、病人は――子供は早く寝る」
 額を小突かれ、和理は清潔すぎる程に白い布団に倒れ込んだ。和理はちぇ、と不満げな声を漏らし、低い天井を仰いだ。
「京姉、気を付けて帰れよ」
 くすりとささやかな笑みをこぼし、京華は病室を後にした。
 満月の父、悠里に引き取られて数日。弟・和理は順調に回復の兆しを見せている。
 病院の自動ドアから外に踏み出すと、どこかのどかな光景が広がっている。都市化が進みつつあるこの地域の、唯一の田園地帯が、病院を囲むようにしてあった。尤も、夜陰に紛れて、その様子を今窺うことは叶わないのだけれど。
 京華はふと、衝動のようなものに駆られて、朧夜を見上げた。空が曇っているせいか、どこか暗澹とした陰鬱な夜だった。雲間に僅かに覗く月光が、そんな闇を払拭しようと懸命に輝く。
 ――満月は今、笑っているだろうか。

    ※

 山際を僅かに彩りつつある朝日が、時の感覚を失っていた満月を現実に引き戻した。
 赤鴉に騎乗して、数刻ほどしか掛からなかった月の宮から輪国中央までの距離が、徒歩だと異常なまでに長かった。行きは、少しでも早く辿り着くことしか頭になかったが、帰りはそうはいかなかった。夜通し歩き通し、やっと中間地点を超えたかという所だろう。何故かと九螢に尋ねたら、九曜国の移動手段として最速を誇る曜命と、お前の足を比べるなとのことだった。
「痛っ」
 足裏の皮はとっくに剥けていて、疲労による痛みも、麻痺してきたかという時分だった。砂を蹴り上げてしまって靴に入り込んだ小石が、皮を失った満月の足の平に、靴下越しに鋭い痛みを与えた。
 小石の紛れ込んだ方の足を庇って、満月は地べたに座り込む。
「どうした」
 少し先を歩いていた九螢が、立ち止まって尋ねた。
 靴と靴下を脱ぎ、足の裏の状態を確認して、満月は顔を顰めた。
 ――見なきゃ良かった。
 いつも見てしまった後で思うが、傷や怪我の程度は見ないに越したことはない。実際に見てしまうと、何故か痛みが増すのだ。
「靴の中に、石が入ったみたい」
 あちらから輪国へ再び来る際に、靴を履き替えて良かったと改めて思いつつ、満月はスニーカーを傾けた。小石が転がって、地面に落ちる。こんな小さな石でも、今の満月には相当な苦痛を与えるらしい。
「柔だな」
 突然、耳元で聞こえた声に驚いて、満月は顔を上げた。
 九螢の顔が間近にあって、満月は座り込んだまま後退る。
「痛むか」
 足首をひょいと片手で持ち上げられ、満月はぎゃ、と声を上げた。
「や、ちょっ――放して」
 何とかそれだけ言って、満月は九螢の手を振りほどいた。
 どれだけの距離を歩き続けた足だと思っているのか。まめは潰れ、皮は剥がれ、おまけにぱんぱんに張った足は見られたものではないし、若しかしなくとも臭うかもしれない。
「その足で、歩き続けていたのか」
 満月の胸の内などお構いなしに、九螢は続ける。
 つと立ち上がった九螢は、懐に手を突っ込んで、何やら探り始めた。そうして間もなく、白い手巾を探り当てる。九螢はそれの端を口に含んで、二度、三度と手巾を切り裂いた。やがて、包帯にも似た長い布切れが、二本出来上がる。
「足を出せ」
 呆然とその一部始終を見ていた満月は、唐突な声に反応できない。不機嫌そうに九螢が、呼びかけにも微動だにしなかった満月の足首を取る。
 熱を持った足に、九螢の冷たい手のひらが心地よく触れた。足の甲から裏に、裏から甲に、するすると包帯が巻きついてゆく。丁寧で迷いのない手つきが、意外だった。
「そっちは」
 九螢の視線が、左足に注ぐ。暗に、もう片方の靴下を脱げと言われているのが分かり、満月はそれに大人しく従った。
「あの、」
 満月が怖々口を開くと、九螢の双眸が、一瞬こちらを向いた。言い出せずに、満月は口ごもる。
 今度も手際良くその布を巻かれたため、満月は結局、自分でやると言い出せないままだった。
「……ありがとう」
 そそくさと靴下を履き、満月はスニーカーに手を伸ばした。その手に、九螢の手が重なる。
「足手纏いだ」
「……あ、あしっ!」
 いくらなんでも、足手纏いとは薄情な言い分ではないだろうか。確かに、これだけ歩き続けて尚、涼しい顔をしている九螢からしてみれば、満月は足手纏いかもしれない。九螢一人だったならば、こんな手当てなどする必要も、更には立ち止まる必要さえなかったかもしれないのだ。
 ――でも。少し、不満だ。
 拗ねたようにそっぽを向いて、満月は九螢の手からスニーカーを取り返す。
「聞こえなかったか」
「何がよ! 今すぐに準備して歩きます!」
 少し丸くなったかと思えば、すぐにこれだ。昨日の九螢の笑顔は、幻だったのではないかという気さえしてくる。
 再び腕を伸ばしてきた九螢にスニーカーをもぎ取られ、満月はあからさまに不機嫌な顔をした。
「意味が分からないんだけど」
「歩くなと言っている」
 九螢はそう言うなり、満月の膝裏に腕をねじ込んだ。当然のように傾いた満月の身体を、九螢のもう一方の腕が支える。
「……本当に、何なの」
 九螢に抱きかかえられた状態の満月は、それ以外に言葉が見つからなかった。
「足手纏いと、言ったろう」
 頭上から響く声によって、やっと満月の中で一本の線が繋がった。足手纏いの一言が、今度は優しく満月の胸の中に溶け込んでゆく。
「貴方はもう少し、言葉の使い方を覚えた方が良い」
 くす、と笑みをこぼして、満月は九螢の胸を小突いた。

 そうして、再び歩き始めて数刻、天日が中空に懸かろうかという頃だった。高空の蒼の中を滑空する鮮烈な紅がある。
「九螢、あれ……!」
 上空を指差し、満月は歓びの声を上げた。つられて、九螢の瞳が蒼穹を仰ぐ。
「玉兎、か」
 飛び方は多少危なっかしく、まだ怪我が完治していないことが見受けられた。しかし、流石曜命だと満月は思う。
 玉兎はゆるやかに降下し、大地を踏んで、見慣れた兎の姿に変化する。と同時に、満月も九螢の腕の中からすり抜けた。
 駆け寄り、玉兎の小さな身体を抱き締める。
「良かった、無事で」
 溜め息と共にそう漏らすと、玉兎は不満そうに頬を膨らませた。
「僕は死なないって、言ったのに」
 玉兎は拗ねたように、明後日の方向を向く。
「疑ってた訳じゃないの。だけど、何ていうか、安心したから」
「それは、僕もだよ」
 玉兎が満月を抱き返す腕に、力がこもった。
「月姫、」
「何?」
「……月神様を守ってくれて、ありがとう」
 満月は、はっと目を見張る。
「――うん……。この人が、意外と良い人だったから。どうにかなった」
 和やかな抱擁を、むくれて見つめる九螢がどこか可笑しくて、満月は噴き出した。
「でしょ。僕が最初に言った通り!」
「ちょっとひねくれすぎてたけどね」
 満月はくすくす笑って、九螢に視線を送る。いらつきと困惑とが入り混じった感情が滲んでいるのが、満月には手に取るように分かった。
 ふと、九螢に向き直った玉兎が、その場に跪く。
「無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます」
 九螢の瞳が微かに揺らぐ。
「……心配を、掛けた」
 九螢のらしくない細い声は、どうやら玉兎を仰天させたようだった。瞬時に玉兎は面を上げ、ぽかんと口を開く。が、九螢より何倍も成熟した思考を持っている玉兎は、すぐに口元に笑みを刻んで、恭しく頭を垂れた。
「月神様が心配を掛けさせるまでに、お心を許していただける従者であれたこと。誇りに思います」
 まるで、スクリーンの中の光景を切り取ったようだった。満月は、どこまでも優しく忠実な九螢の従者に、目を丸くする。
「玉兎の方が、大人ね」
 不器用で横暴すぎる九螢への意趣返しのつもりで呟くと、思いきり睨みつけられた。
 ――全然、怖くない。
 再度吹き出しそうになるのを堪えながら、満月は鳥へと転化した玉兎の背に跨った。


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