月姫 花氷の行方[三]



 彩章は全ての報告を終えた己の曜子と曜命を一瞥すると、再び遥か遠くに構える月宮殿に視線を戻した。宵の闇の中、それは淡く柔らかな光を放っている。
「まだ、信じたくなどないのだがな」
 晴尋が、一瞬訝しげに上向いた。忠実な僕として、彩章の前では頭を上げることなど稀にしかない晴尋にしては、珍しい行動だった。それに気づかない振りをし、彩章はまた一人呟く。
「しかし、既に起こってしまったことから目を逸らし、がむしゃらに見たいもののみを見ていても、国は守れぬ、か」
 彩章は徐に立ち上がり、玉座から降り立った。
「不甲斐ない主で、迷惑を掛けるな」
 硬直する晴尋を尻目に、赤鴉はいつもの調子で微笑んだ。
「なーに言ってんのよ。不甲斐ない主だからこそ、あたしたちが居るんじゃない。何でもかんでも完璧にこなされちゃったら、あたしたちの居る意味がなくなっちゃうでしょ」
 滅多にない彩章の謝罪の言葉を、よくあることのように笑って受け止める赤鴉に対して、晴尋の応対は全く場慣れしていない。しかし、晴尋が唇を引き結んで彩章を真っ直ぐに見上げた時には、その心もとない印象は払拭されていた。
「私が忠誠を誓ったのは、貴女です」
 いつかの晴尋の言葉が、彩章の胸に蘇る。輪が、一度に月の曜神と曜子と曜命を失い、民が悲嘆に暮れたあの時代。異界からやって来た日の曜子、晴尋は、右も左も分からない赤子のような存在だった。しかし、それでも晴尋は、悩み抜いた挙句、彩章の手を取った。
 そして、あの時下した彩章の断が過ちであったことにも関わらず、赤鴉も晴尋もこうして傍に居ることを選んだ。
「お前たちで、良かった」
 呟くと、彩章は立ち上がり、窓辺に寄った。
「夜が明けたら、月宮殿に向かう」
 思わず、声が震えた。彩章が信じたもの全てが、覆ったのだ。そう簡単に、下せる決断などではなかった。
「彩章様?」
 遠慮がちに、晴尋が声を掛けた。
「感極まっちゃったのよ。案外彩章ってば、涙もろいから」
 わざとらしい溜息と共に、赤鴉が吐き出す。そんなまさか、と否定半分期待半分に晴尋は彩章を眺めやった。けれどもすでに、赤鴉の言う涙もろい彩章の姿などはどこにもなく、いつもの威風堂々とした笑みを刻んだ曜神の姿だけがあった。

 冷たい空気を孕みながらも、その日の朝はまるで早春を思わせる陽気をかもしていた。輪国は国の中で様々に季節が入り乱れているため、春夏秋冬のような大別はない。けれども、ささやかな陽光と芽吹く希望に包まれた月の宮は、いつもより優しげに佇立していた。
「姫様」
 満月の寝室の扉を、控え目に叩く音が聞こえた。
 上から下まで、完璧に制服を着こなし、満月は帳台から立ち上がる。
「月神様から、寝殿までお越しくださるようにとのご伝言でございます」
「すぐ行く」
 スニーカーを片手に、満月は寝室の扉を開け放った。環が頭を下げ、満月と目を合わせて微笑む。それに笑みを返し、満月は歩き出した。
 今日できっと、全てが変わる。
 しっかと前を見据えた満月の瞳が、深い色を湛えて、煌めいた。

 満月が寝殿に足を踏み入れると、既に九螢を初めとした月の者たちが揃っていた。玉座の九螢の傍に控えた玉兎が、満月の到着に気づいて、顔を上げる。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで早くお行きよ」
 すぐ後ろから、帛鳴の面倒くさそうな声が聞こえた。満月は帛鳴の大きな欠伸を見つめて、目を瞬かせた。そういえば帛鳴は朝に弱いと聞いたことがある。
「帛鳴様こそ、早くちゃんと起きてください」
「起きてるよ」
 帛鳴は答えるなり、九螢を向いた。つと、帛鳴の顔つきが鋭いものに変わる。
「間もなく、彩章が来るよ」
 束の間の静寂の後、その場に居た誰もが毅然と顔を上げた。
 赤鴉と晴尋が計都を訪れたのならば、日の側の見解は変わっているはずだ。しかし、断定はできない。
 争いは、必ず避ける。満月は拳に力を入れ、九螢を見上げた。九螢が軽く頷き、立ち上がる。
「来た」
 目を細め、九螢が呟いた。ただならぬ気配を感じて、満月は天井を見上げる。誰もが、その上に広がる大空に耳を澄ませた。翼が迷いなく空を切る音が、聞こえるはずもないのに聞こえた。
 九螢を先頭に、ぞくぞくと人が寝殿を出て行く。皆、一言も言葉を発しなかったが、ざわめく胸のせいで、静寂はとうに破られていた。たぎるような血潮が、冷涼とした宮中を熱しているように思われた。
 庭園の白砂を、大きな影が滑ってゆく。今度ははっきりとした羽ばたきの音を、満月の鼓膜が捉えた。やがて、輪国にたった二翼の瑞鳥が――それも、日の赤鴉が、月の地に翼を休めた。
 大鳥から降り立った彩章が、常盤色の瞳を九螢と玉兎、そして満月に向けた。満月の心臓はどくどくと煩く鳴ったが、そんなことは気にしていられなかった。
 赤鴉が少女の姿に転身し、晴尋と共に彩章の左右を固めた。
 満月はいつかの彩章との邂逅を思い出し、九螢の斜め前に出た。それは、玉兎と同時だった。日を疑っている訳ではなかったが、九螢が傷つくのは、もう沢山だった。
「そなたらと話がしたい。決して、月の者を傷つけぬと誓おう」
 よく通る声だった。彩章は泰然として、月宮殿を見渡す。細められた瞳から、敵意は感じなかった。
「こちらも、そう思っていたところだ」
 九螢が返答し、踵を返す。満月も、それに続いたが、はっとして足を止めた。
 帛鳴の視線が、真っ直ぐに彩章を射抜いていた。そういえば、二人はかつて、親しい友人同士であったと聞いた。例の予言をして以来、日宮殿を追放された帛鳴と、友人を追放した彩章。二人の間に出来た溝も埋まれば良いが。
 玉兎に背中を押され、満月は眉間に皺を寄せたまま、歩き出す。背後で、帛鳴が彩章から視線を逸らした気配がした。

 九螢の後を追って辿り着いたのは、満月が初めて足を踏み入れる場所だった。九螢の寝殿や広間、満月の寝室がある私的な空間とは異なり、どこか硬い印象を抱く。
 月の精たちは、協議の間に足を踏み入れなかった。彩章が、日の精を伴わずやって来たためである。こちらの人数が多ければ、日に要らぬ警戒を抱かせてしまうだろう。
 口火を切ったのは、赤鴉だった。
「行って来たわ。計都に」
 ふてぶてしく思えるほどに、赤鴉はじっと満月を見つめた。
「それで、計都は」
 あれだけ自信たっぷりに、真実を知っていると公言しておきながら、満月は酷く自分が緊張しているのを感じた。
「国が乱れ、良くない気が充満していました」
 言ったのは、晴尋だった。
「計都神は?」
 九螢が尋ね、晴尋を見据えた。晴尋は、眉根を寄せて、重い口を開く。
「分かりません。重い気が大地に渦巻いていて、まるで、国が禍の結晶にでもなったようでした。気がおかしくなりそうになって途中で引き返したので、宮殿には入っていません」
 九螢が憂悶に満ちた表情で、やはりかと呟く。玉兎が、九螢の後を継ぐように身を乗り出した。
「民の様子はどうだった?」
「危険を感じたので市井に降りることはしないで上空を飛んでいましたが、計都の民はどうも正気ではないように思えましたね」
 ――正気ではない。確か、明螢亡き後の輪国でも、民が正気を失ったことがあったと聞いた。輪国の曜神はその時、蝕に己を喰い尽くされることはなかったが、悲劇の時代と称されただけあって国は荒れていた。
 計都が蝕の芽と呼ばれるのならば、かつての輪国もまた、蝕の芽であったと言えるのではないだろうか。
「帛鳴様、蝕とはそもそも、何なんですか? 禍の象徴と言っても線引きが曖昧で、いまいち実体が見えてこないんですけど」
「あたしも、それについてはいまいち分からなくてね。だが、何も知らないで計都を鎮めにはいけまい。だから、皆よくお聞き」
 帛鳴の濁った瞳が、ぐるりと一同を見渡す。そうして帛鳴は、朗々と低い声で語り始めた。
 事の起こりは、明螢の時代に遡る。その時代、輪国は東都に明螢、西都に彩章の曜神を配し、両者は互いに干渉せずに治世を保っていたという。月には先の凰・勾娥が、日には赤鴉が居り、曜子はまだ存在していなかった。
 その頃、帛鳴は西都の日の宮で九曜国北西の異変を感じ取る。それは、羅睺国の禍が輪国まで流れ着いて来たことによった。
 帛鳴は、そこで例の予言を下す。しかし、曜神が世界の中心であるこの国では、曜神を否定する予言など、聞き入れてさえもらえなかったという。
 結果、帛鳴は日の宮を追放される。
 次に帛鳴の予言は、明螢へと伝えられた。明螢も彩章と同様に、帛鳴の予言など取り合わなかった。
 丁度その頃、地界――満月の故国のことである――より月の宮に、曜子・珱希がやって来る。安定した治世を築いていた明螢は、不安要素などないというのに現れた珱希に困惑する。
「もう分かった頃だと思うがね、月姫、日御子」
 帛鳴は言うなり、満月と晴尋を見つめた。満月は、帛鳴が言わんとしていることを察して、引き結んでいた唇を解いた。
「曜子は、ある時期にあちらからこちらに呼ばれる。呼ばれる時期は決まって、国や曜が窮地に陥った、或いは、陥りそうな時」
 満足そうに一笑し、帛鳴は続ける。
 明螢は、聞く価値もないと判断した帛鳴の予言を、念のため不安分子に挙げ、珱希を帛鳴の元へ送る。珱希は九曜国の成り立ちや価値観に染められていない、地の者であったため、すんなりと帛鳴の言葉を信じ、明螢に事の次第を伝えた。明螢は簡単には頷かなかったが、輪国に跋扈し始めた禍の規模と数が次第に大きく、また増えていっていることから、最後には帛鳴の言葉を信じる。
 しかし、その時には既に、羅睺は手に負えない状況となっていた。
 羅睺より流れ着いた禍は、明螢や彩章を蝕み、輪国全土を覆おうとしていた。明螢は、混乱に陥った民草に、禍が羅睺によるものであると公言するが、信じる者は少数だった。同じ頃、月の動きを嗅ぎつけた彩章が、酷い禍に見舞われているが心配はないと、民草に宣言したからである。
 そして、明螢は天の理を破って、羅睺国に向かう。羅睺神は明螢の説得に耳を貸せる状況ではなく、長い戦いの末、明螢は羅睺と共に斃れる。
 明螢亡き後、珱希は、帛鳴、勾娥を引き連れ、日の宮へ向かう。彩章は明螢と羅睺神の死を知り、激昂する。曜同士の干渉どころか、輪国の曜神は他国の曜神を殺した。そのことは、必ずや裁きを受けるだろうと彩章は言った。そしてその罪は、輪国の民に及ぶかもしれないと、輪国の未来を危惧した。
 そんな状況をつくっておきながら尚、予言のことばかりを口にする月を危険視し、彩章は明螢の子を孕んだ珱希を殺そうとする。それを阻み、代わりに死んだのが勾娥であった。珱希は月の宮に帰り、九螢を産み落とすが、そう時を待たず亡くなる。それは、天の裁きであったという見解が、優勢であるのだそうだ。
 輪国に月は要らぬというこの時の彩章の発言は、後の月属への差別へと繋がった。
 月の要人は死に、輪国の微妙な力加減で釣り合っていた天秤はいとも簡単に傾き、太平の世は崩壊する。輪国の、悲劇の時代の幕開けである。
「あの時代、国は一向に良くならなかった。それは、俺たち曜神が、決して万能ではなく、禍を吸収し身体に蓄積させるしか能がなかったからだ。違うか、帛鳴」
 九螢の問いに、帛鳴は頷く。
「そうして吸収された禍は、曜神を破たんさせる、言わば蝕の種さ。吸収すればするほど、曜神は毒され、狂って行く。あんたも彩章も、どうにか禍を退けようと奮闘していたけれど、それは際限ない負の連鎖だったというわけだね。羅睺と計都は、その負の連鎖の中で、蝕に身体を乗っ取られた。あんたたちは、どうにか蝕にならずに済んだようだがね」
 そう言って、帛鳴は九螢と彩章を見た。
 満月は顔を凍りつかせた。曜神とは、何と儚いものか。神と崇められながら、実質その力には、限界がある。国を守ろうとした結果が、国を滅ぼさせる蝕への移ろいとは、どんな皮肉か。
「皮肉だな」
 胸の内が勝手に外に飛び出したのかと思って、満月は協議の席から立ち上がりそうになった。しかし、そうではないと気付く。微かに笑って呟いたのは、彩章だった。
「曜神、日神、などと言われながら、私が信じたものも、してきたことも、間違いであったとは」
 彩章は、言い訳を口にしなかった。
 誰もが、そんな真実を信じたくないはずだった。国を任された曜神ならば、その気持ちは尚のこと堅固だろう。だから、彩章は真実を瞳に映さなかったのだ。しかし、真実を知った今、顔を背けることだけは、してはならなかった。
「月神よ。私はそなたの曜の先の曜命、勾凰を奪った。そして、曜神の身にありながら、長きに渡り、偽りだけを口にしてきた。月を根絶しようとした。そなたは私に、どんな罰を与えてくれる」
 罪人の烙印を自らに押しながらも、彩章の瞳は輝きを失わなかった。
「それでは、お前と一緒だろう」
 九螢は呟き、目を細めた。
「俺は、月の無実を証明するために、生きてきたのではない」
 だから、咎めない。それが、九螢の出した結論だった。
「情けないが、俺一人で計都に臨んでも、恐らくは明螢の二の舞となるはずだ。俺も――死にたくはないからな」
 言って九螢は、ちらと満月を見た。満月の自惚れでなければ、そうだろう。
 九螢は、満月の言ったことを、ちゃんと聞いていたのだ。蝕になんてさせない。死なせない。九螢一人で頑張らなくて良いのだと、懇願のように言った、満月の言葉を。
「力を貸してください、日神様。九螢一人では無理でも、月の皆や……日神様。それから日御子に赤凰。皆で力を合わせれば、違う結果が残せるかもしれない」
「詭弁だな。かもしれない、などという不確定なことで、曜神は動けぬ。日月の力を持ってしても、蝕を鎮められなかったらどうする。一度に二つの曜が失われたら、今度こそ輪国は、立ち直ることはできまい」
「それに、曜同士の干渉をすることになるわ。って言ってももう、日月は干渉し合っちゃってるわけだけど」
 赤鴉が項垂れて言った。
 それでも、満月の瞳に影が射すことも、唇が悲嘆の声を漏らすこともなかった。一縷の希望を、捨てない。諦めない。まだ光が見えているうちは、絶対に。
 月も日も、天の理をとうに破っている。しかし、珱希が受けたような裁きはまだ、下されていない。
「先代月姫の時と違うのは、僕たちが曜神を殺めたりはしていないってことだね」
 言うなり、玉兎は帛鳴を見つめた。
「その通り、としか言いようがないね。天の理だか何だか知らないが、線引きがあるなら、そこだろうさ。じゃなきゃ、日月は斃れてるはずだからね」
 帛鳴の言葉に、満月は大きく頷いた。計都神を斃すようなことがなければ、日月が協力をしても問題はないはずだ。
 俄然意欲を増した満月に、晴尋の視線が興味深そうに注がれた。
「しかし、輪国を救う……計都の蝕を鎮める具体論はあるのですか? 計都国の状況についても、詳しいことは分かっていませんよね。そのうえ、蝕と輪国が関わった前例といえば、先の月神様が羅睺神と共倒れした結果しかありませんが」
「否」
 晴尋の指摘に異を唱えたのは九螢であった。
 満月もまた、緊張の面持ちで晴尋を見やる。
「日御子、計都国に、曜子は居た?」
「分かりませんね」
 晴尋は言って、肩を竦めた。満月はこくりと喉を鳴らす。
 ――ならば、希望が残されているかもしれない。満月は立ち上がり、初めに晴尋を、それから順々に視線を巡らせ、最後に九螢を見つめた。
 前例は、蝕になろうとした九螢と、それを止めた満月がつくっている。九螢の双眸の美しい光が失われなくて良かったと、満月は場違いにも思い、日の面々に向き直った。
「曜子には、曜神の蝕化を止める力があるそうです」
 日の三人が、三者三様の反応を見せた。全く違う表情を装っているようでいて、どの顔も驚きを隠しきれていない。
「だけど、それは、曜子に影響がないというわけではないかもしれない。そうでしたね、帛鳴様」
 帛鳴が肯定を渋り、やや間を置いて、頷く。
「計都の曜子が、まだ呼ばれていないのならば、」
「曜子に鎮めさせる、か」
 満月の言葉を遮り、彩章が呟いた。
 しかしそれは、帛鳴の顔色からも分かるように、計都の曜子を危険に晒すということになる。それも、満月のように九曜国のことなど何も知らなかった人間を、だ。いきなり九曜国に連れて来られ、命の危険もあるが輪国と計都国を救ってはくれないかと頼まれて、誰が頷くというのだろう。
「俺たちでも説得を行うとすればどうだ。何も、対するべきは計都神のみではない。民を正気にすることができれば、曜神もまた己を取り戻す可能性がある。計都はまだ、羅睺のように完全に狂ってはいないのだろう」
 民への働きかけ。満月は声には出さず、口腔で呟いた。
 確かに、九螢も彩章も民のことを何より大事にしているように思える。曜神とは、総じてそのように生きる宿命なのか。ならば、蝕になりゆく計都は今、どれほど無念なことだろう。否、心が破たんしてゆくというのならば、その無念さもまた、次第に薄れてゆくというのか。
 蝕、という言葉でしか認識していなかった計都を、唐突に救いたいと満月は思った。
 正気を失っているという民がどれだけ居るのかも、計都国の詳しい内情も不明だが、内部からの働きかけは、有効な手段となるに違いない。
 深く息を吸い込み、満月は、切り出した。
「できることなら、計都の曜命も見つけ出したい。どうにか内部に入り込み、計都を鎮めることはできない?」
「入ることは、あたしたちにもできたわ。だけど、かなり危険よ」
 警告を発した赤鴉の表情は険しい。可憐な少女の様相は、既に崩れ去っていた。
「危険は承知の上だよ。赤鴉、国が掛かっているんだ」
 玉兎がきっぱりと言いきった。赤鴉は、玉兎を一瞥し、顔を顰めた。
「あんたなんかに言われなくても分かってるわ。あたしの方が先輩なんだから」
 ふんとそっぽを向き、赤鴉が言い張った。玉兎は苦笑し、皆を向いた。
「計都の曜子への負担を最低限に減らしたうえで、曜子にも説得をしてもらうのはどうかな。曜神にとって、曜子の存在は大きいから、曜子が現れるだけでも、計都の心をいくらか動かすことはできるはずだよ」
「それを言うなら、曜命もね」
 満月は補足した。晴尋の気難しげな顔が目に入って、そちらに目をやる。
「曜命が生きていれば良いのですが。生きているにしても、曜命も蝕の影響を受けているかもしれない」
 厳しい現実を突き付けられ、満月は唇を噛んだ。
「そんなことは、乗り込んでみないと分からないことだ。今、俺たちがすべきは、間もなく流れ込んで来るであろう――もう流れ込んで来ているかもしれない計都の禍を、輪国からどう退けるか。そして、計都の曜子が若しも居るのならば、どのように見つけ出し、連れて来るか。計都国に乗り込む際の人員、手段はどういったものにするか。そこでどのような手順で計都の蝕を鎮めるか、だ」
 九螢の言葉に、満月ははっとする。そうだ。今すべきことを、見失ってはいけない。彩章が、考え込むように目を伏せ、顎に手をやった。皆、思い悩んだ様子である。
「時間がどの程度残されているかだけど」
 満月が、ぽつりと呟いた時だった。
 どん、と天を突いたような重たい音が響き渡った。ぐらりと視界が揺れる。その場に立っていられないほどの、激しい衝撃だった。足の悪い帛鳴の身体が倒れそうになったのを、満月と九螢と彩章とが入り乱れるようにして支えた。華奢な赤鴉の身体も傾き、玉兎が駆け寄ったが、晴尋の方が一足早かった。
「何?」
 悪寒を感じて、満月は震えあがった。
 地震ではないはずだ。何せ、月の宮は、空中に浮かんでいる。地上の揺れなど、全く問題にならない。
「これは――」
 苦々しげに、彩章が吐き捨てた。再び、轟音。満月は、床にへばりつくように、四肢を床につけた。その上から、九螢の身体が覆い被さる。
「皆、伏せろ」
 九螢の言葉に、その場の誰もが従った。異変ありと駆け込んで来た環ら月の精も、その場にうずくまる。
 九螢は、皆の無事を確認すると、彩章を向いた。
「彩章、」
「ああ――禍だ。それも計都の蝕による。羅睺の時も、似たようなことが起こった。下は、もっと酷いぞ」
「曜を下りる。玉兎、飛んでくれ」
 九螢が即決したのに対し、赤鴉が非難の声を上げた。
「待って」
 九螢の苛々とした表情が、覗く。すぐさま、民の救出に向かいたいに違いない。
「これからのことをどうするのか、決めていません。闇雲に民の救出をしても、根源を正さなければ、禍は幾度も起こるでしょう」
 晴尋の指摘はもっともだと、満月は思った。
 けれど、今、苦しんでいる民が居る。それに背を向けて、協議を行うなど、できるわけがない。
「私も行く」
 力強く言った満月の声に、愕然とした赤鴉の表情が返った。
「全く、血の気が多いったらありゃしないわ! ちょっとは冷静に現実を見なさいよ!」
 喚き散らした赤鴉の背中を、立ち上がった彩章が、見たこともない柔らかな表情を浮かべてそっと撫でた。赤鴉の泣き出しそうに見開かれた眼が、そっと閉じる。
「帛鳴、これはまだ、蝕の初期の段階と判断するが、相違ないか」
 彩章は尋ね、帛鳴が頷くのを見て取って、視線を俯いた赤鴉の後頭部に向けた。
「赤鴉、そなたが輪国と計都を憂え、もう間違いを起こさないようにと、よく考えてくれているのは分かる。そなたもだ、晴尋。しかし、私は一度、それとは知らずにではあったが、蝕が起こした禍を眺めてきたのだ。だから、この禍がまだ、恐るるに足らないことは分かる。一旦禍を退ければ、暫くは禍の恐怖に怯えなくとも済む。その間に計都のことを考えれば良い。今、退けられる禍を退けずに民をいたずらに苦しめるのは、心苦しい」
 だから、飛んでくれるか。彩章が問うまでもなく、赤鴉は頷いていた。再び、耳が裂けんばかりの轟音に揺さぶられたが、晴尋も、緊張の面持ちで起立していた。
 玉兎の手を取り、九螢に支えられながら、満月は外へと歩を進めた。度重なる衝撃に、揺さぶられそうになるが、たくましい腕がそれを阻止した。
 庭園に、美しい焔の光を放ちながら、二翼が翼を広げる。闇のようにどす黒く塗りつぶされた空に、二対の希望の光が灯った。


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