月姫 花氷の行方[四]



 低く垂れこめた雲を見上げ、狐鈴はその身を縮こまらせた。
 十七年前、明螢が死に、月の宮に新しい月神が立った時、輪国は禍の脅威の只中にあったという。それからの十年を、人々は悲劇の時代と称した。狐鈴がこの世に生を受けたのは、そんな悲劇の時代の最中であった。
 あの時、狐鈴はまだ子供だった。それでも、こんな空を前にすれば、忘れたくとも忘れられない記憶が、鮮明に蘇ってくる。九尾亭に病の最初の犠牲者が出たのも、暗澹とした空が広がる日のことだった。
 輪国は段々と安寧を取り戻していったが、悲劇の時代の記憶は、未だに民草の心に深い爪痕を残している。
 そして今再び、輪国は蝕という脅威に晒されている。
 ずん、と心に沈んだ重たく暗いものを振り払うように、狐鈴は足を速めた。楽阜を襲った禍は小規模であったが、やはり、建物の倒壊は免れなかったようだ。日属と月属の隔たりが埋まりつつある窟州では、ここ最近は禍の際には連携して動くようになっていた。
「何か、おかしい……」
 這いずるように身体に侵入した陰がうごめく。大した禍でもないはずなのに、精神的な消耗が激しかった。
「これは――まずいな」
 言ったのは端伎だった。狐鈴は首を巡らせ、視線で何を、と問うた。
「あの時代の中でも、禍の程度が特に酷かった頃のことだ。気が触れたのか、突然周りの者を襲い出した連中が居たんだ。あの時は訳が分からなかったが」
「この精神的な消耗に、心を喰われてしまうということ?」
 端伎は頷き、顔を顰めた。
 災害は協力し合えば被害を最小限に食い止めることができるが、心を侵す陰はどうにもならない。
 恨めしく天を仰いだ狐鈴は、絶句した。
 ――幻だろうか。それとも、その心を侵す陰とやらに自分の心も喰われ、白昼夢に囚われてしまったのだろうか。
 つられて頭をもたげた端伎が、辛うじて言葉を発する。
「曜命が……二翼」
 次々に人々が顔を上げ、空に浮かんだ二対の焔を唖然とした表情で見つめる。日と月は、憎しみ合い、いがみ合っていたのではなかったか。
「皆、大事ないか!」
 天から降って来た声が、朗々と大地に響いた。幻などではない、鼓膜を揺るがす真の言葉であった。
 続いて、橙色と薄青の光が、混じり合い複雑な色彩をつくりあげながら大地に射した。身体を締めつけていた陰が、貫かれるようにして、一瞬の内に消え去る。
 大地に降り立ったのは、六名。日を司る者と、月を司る者。同じ国の守護者でありながら、ついこの間まで互いを手に掛けようとしていた、曜の要人たちであった。
 日月の争いは、互いに民と国を思えばこその因果であった。理解し合えれば、きっと蝕にだって打ち勝てる。真実を知った者は皆、そう信じていた。
「怪我はない? 何か異常のある人は申し出て」
 玉兎の背からひょいと飛び降り、満月は開口一番そう叫んだ。
 目の前の光景を信じられない思いで見つめる人々の目を、満月は一人ひとり覗き込む。
「……満月」
 恐る恐る名を呼んだ狐鈴に、真っ直ぐな眼差しが返った。
「伝わったの。予言が真実だってこと。輪国が危ないってこと。皆が協力しなきゃいけないってこと」
 赤凰と肩を並べた満月は、一点の曇りもない笑顔でそう言った。

「皆、聞いて欲しい」
 民衆を集めた商店街の広場で、そう口火を切ったのは彩章だった。
 満月は玉兎と九螢と共にその少し後ろで、事の成り行きを見守っていた。
「十七年にも渡る長きの間、曜神として私が為してきたことには、多く、過ちが含まれていた。予言者帛鳴の予言を耳にした最初の者は、他ならぬ私だ。月から先の曜命勾娥を奪ったのも、日属と月属の間に初めに溝を引いたのも、全ては私のしでかしたことだ。窟州の民の多くは真実に気づいたというから、そなたらは私の過ちをとうに知っているであろうが」
 こぼれ落ちた紅蓮の髪が、彩章の顔に淡い影を落とした。しかし、彩章の常盤色の瞳は、強烈なまでの光を失わなかった。
「許しを請おうとは思わぬ。なれど、どうか謝らせて欲しい――すまなかった」
 彩章に続いて、赤鴉と晴尋が腰を折った。
「本当に、ごめんなさい」
「申し訳ありませんでした」
 罵倒を覚悟してか、赤鴉の瞳がきつく閉じられる。
 けれども、民草が上げた第一声は、存外に静謐に響いた。
「日神様は、これからどう行動なさるおつもりなのですか」
「月と共に連携して計都国の蝕を喰い止める。まだ、具体的な策については話し合っている最中だが……」
 珍しく、歯切れが良いとは言い難い口調で彩章が答えた。
「なら、俺たちがとやかく言う必要はねぇよな、皆」
 狸の親父の呆れるほどに明るい声に、肯定の言葉がいくつも返ってきた。その様子に、満月と玉兎は、笑顔を交わした。
 きょとんとした表情でいるのは、晴尋と赤鴉だ。彩章もまた、民の意を量りかねている。
「十七年前から私たちを取り巻いていたのは、過ちや憎しみでした。禍に怯え、ただ日神様にすがり、日属と月属は敵対する。今ここで、手のひらを返したように日神様を憎むのは簡単です。けれど、私たちだって、つい先日までは帛鳴様の予言も月も信じることができないでおりました。過ちを日に押しつけるのは、また真実から逃げる行為です。私たちは、輪国の曜神であるお二方を心から信じております。――必ず、輪国をお救いくださると」
「そういうこった」
 教師の発言に、親父がにかっと笑い同意する。
「ですから、私たちにできることがあるのなら、どうか仰ってください。私たち一人一人の力はとても小さなものだけど、少しは日月を助けることができると思います」
 狐鈴が言って、微笑んだ。
「日属・月属の問題は僕たちに任せて!」
 力強く言ったねずみの子をたしなめるように、その母が子を抱き寄せた。
「今はまだ、窟州やその近辺の州にしか、差別意識の撤廃運動は広まっていませんが、近く必ず、輪国中に広めます」
「月の欠片返還についても、現在全州に呼びかけを行っている最中です」
「私たちだって、できることがあります。だから、日神様も月神様も、どうかご無理だけはしないでください」
 そう言った狐鈴が、七年前の出来事を思い返しているのだろうということは、満月にも予想がついた。曜神は、禍に毒される。狐鈴とその母黄珠は、九螢の身体に取り込まれた陰を、目撃していた。
 曜神だけに、無理はさせない。そう思っているのが曜子や曜命だけでないことを、満月は嬉しく思う。
 狐鈴の言う通り、一人ひとりの力は、小さく弱い。けれど、その力が寄せ集まれば、こんなにも熱気のこもった変革を生み出すことができるのだ。
「――ありがたい。私も、必ずやそなたたちを守り通す」
 彩章は心なしか声を詰まらせた様子でそう宣言した。隣で、赤鴉と晴尋の微笑が漏れる。
「何だか、私たちの取り越し苦労だったみたいね」
 満月がぽつりと呟くと、玉兎もまた苦笑をこぼした。
「まだ他の地域には行っていないだろう」
 九螢の指摘に頷き、満月は気持ちを引き締めた。
「この地域以外の人たちと実際に言葉を交わすのは初めてだから、ちょっと緊張するな」
「お前に緊張などという感情があったとは驚きだな」
 満月はむっとして九螢を睨みつけた。
「どういう意味?」
「相当肝の太い女だと思っていたが」
 九螢が思い浮かべたあれこれが何なのか想像できるはずもなく、満月は首を傾げた。
「ともかく、それが終わったら帰って協議を再開する。気を抜くな」
 満月は玉兎と共に大きく頷き、窟州の地を後にした。

  ※

 まただ。京華はそう思い、小さく溜息を吐いた。
 弟の和理が病院から退院して数日。久しぶりの家族団らんの場だというのに、ここの所激しくなっている頭痛の所為で気分が優れなかった。
 かつてはこのように頭痛に悩まされることなど、殆どなかったように思える。いつの頃からだろうかと記憶を辿り始めた京華の視界を、白いものが覆い尽くした。
「そんな難しい顔をしてどうしたんだい」
 悠里が尋ねながら、ことりと音を立てて湯呑みをテーブルに置いた。白いものは、お茶から立ち上る湯気だったようだ。
「京姉、眉間に皺、皺。気をつけないと若いうちからしわくちゃになるんだってよ」
「うるさいわよ、和理」
 ぴしゃりと言い放ち、京華は湯呑みに口をつけた。
 ――……を、……は、て。
 声のようなものが聞こえて、京華は辺りを見回した。現実味を感じさせない、ぼんやりとした幻のような響きを持ったそれは、明らかに悠里のものでも和理のものでも、ましてや京華のものでもない。京華は、更に顔に皺を刻んだ。
 途端、刺すような痛みが京華を襲った。思わず湯呑みを取り落とし、京華はその場にうずくまった。
「京華!」
「京姉っ」
 悠里と和理の呼び声が、遥か彼方で聞こえた。
 痛い。頭が痛いはずだったのに、今は何より胸が痛い。京華の意としないところで生まれた狂おしさが、胸を張り裂かんばかりだった。
 どうして。そう言葉にする前に、京華の意識はぷつりと絶たれた。


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