月姫 花氷の行方[五]



 禍を払い、帛鳴の予言及び月に対しての見解転換の声明を彩章が各地に発表して戻ってきた頃には、月の宮には深い宵の帳が下りていた。
「探しに行くのなら、早いに越したことはないな」
 疲れた様子も見せず、呟いたのは九螢だった。還御した皆を出迎えた帛鳴も、夕食を頬張りつつ頷く。
 議題は、地界に存在するかもしれない計都の曜子についてである。
 時間がないため、夕餉を取りつつ協議を再開することになったのだが、食べるのが人より遅い満月はそれが物凄く難しいことのように感じていた。急いでおかずを掻っ込み、水を飲み込む。
「ちょっとあんた、はしたないわよ」
 意外に優雅に食事を摂る赤鴉がたしなめた。全く急いでいる様子はないのに、赤鴉は満月と同じくらいの量を既に平らげている。
 視線の集中砲火を喰らい、満月は呻いた。こうして眺めているとよく分かるが、曜神といい、曜命といい、皆、見目も仕草も整い過ぎているのである。おまけに、同じ曜子である晴尋まで、それなりに整った造作をしているから、満月は身の置き場に困った。
「よく食べる子はよく育つって言うし」
 何だか理解に苦しむ言葉で満月を助太刀したのは玉兎であった。満月は無理矢理口角を吊り上げ、ありがとと呟いた。
「その子はもう育っちゃったのよ。あと足りないのは女の品格だって言ってるの。ほんとお間抜けね」
 赤鴉に辛辣な言葉を浴びせられた玉兎は、しゅんと項垂れた。何とも言えない哀愁が漂う玉兎の後頭部に視線をやり、満月はかける言葉を探したが見つからず、開いたままになっていた口を引き結んだ。
「曜子を見つけ出す方法はあるんですか」
 気を取り直して満月が尋ねると、けらけらと笑っていた帛鳴が暫しの沈黙の後、口を開いた。
「月姫、日御子。あんたたちお互いを何となくでも認知できるかい」
「は?」
 食事を終えた晴尋が、口元を手巾で拭きつつ問い返した。
「だから、曜神とのつながりは認知できているだろう? 曜神と曜子は引き合うからね。それと同じことが曜子同士でも言えるかと聞いているのさ」
 晴尋も満月も戸惑いつつ互いを見やった。
「彩章、月神。あんたたち、互いがどの方角にいるのかくらいは認知できるね?」
「ああ」
「そうだな」
 彩章も九螢も、大したことではないようにそう返答した。
 それで、満月はやっと合点がいった。満月は九螢と、引力と称される力で引き合っている。そのおかげで、これまで九螢の居所を厳密ではなくとも、何となくは知ることができた。何より、満月が日本へ帰った際に、輪国とのつながりを辛うじて保つことができたのは、引力で九螢と引き合っていたためだと聞いた。
 そのような不思議なつながりが、同じ曜子である晴尋との間にもあるかと、帛鳴は尋ねているのである。
「あまり、感じたことはない気がします。日御子はどう?」
「私もそれほどは――でも、」
 口ごもった晴尋を、帛鳴が視線で先を促した。晴尋は迷うように、満月と彩章を交互に見比べている。
「初めてお会いした時に、普通の人とは違う印象を抱いたように思えました」
「あ、それは私も感じたかも。こっちに来た初日に、日御子を商店街で見かけたの。あの時は凄く混乱してたから、きちんと記憶することができなかったんだけど。日御子が気になったのは、動物が喋っている世界で初めて見つけた人間だったから、っていう理由だけじゃない気がする」
 帛鳴が注意深く頷く。
「曜神と曜子のような確固としたつながりではなくとも、引かれ合うものがあるのは間違いないはずなのさ。月姫も日御子も、九曜で結びついている。計都の曜子が居るのなら、見つけ出せるのは同じ曜子であるあんたたちしかいないだろうね」
「――ならば、計都国曜子の捜索はそなたらに任せよう。曜神や曜命では、地界には不慣れだ」
「仰せの通りに」
 ふっと微笑み、晴尋が彩章に承諾の意を示した。慌てて、満月も頷く。同じ曜神と曜子でも、満月と九螢のそれとは全く違う関係を見た気がした。
 それにしても、己の感覚だけを頼りに、曜子を見つけ出すなんてことが本当にできるのだろうか。不安に感じて、満月は帛鳴に視線を戻した。
「何億という人が居る中から、たった一人の曜子を見つけるのは相当難しそうですけど」
「言っただろう。曜子は引かれ合う。無意識にね。月姫と日御子が住んでいた周辺を重点的に洗えば、自然と曜が曜子を引き合わせるだろうよ」
「月姫様、あまり心配なさらずに。精一杯協力させていただきますので」
 にこりと晴尋に微笑まれ、満月も自然と引き締めていた唇が緩んだ。
 心強いと心から思う。今、計都と相対しているのは月のみではないのだ、という実感が、込み上げてきた。
 突如、激しい叩打音が響いた。身を竦ませた満月が反射的に音のした方へ目を走らせる。
 と、九螢の不機嫌そうな表情が目に入った。といっても、一日の大半を眉間に皺を寄せて過ごしている九螢のことだから、大した驚きはなかった。
 どうしたものかと満月は目をぱちくりとさせ、様子を窺う。どうやら九螢が、協議に臨む面々の囲む卓子を両手で叩きつけたようだった。
「ど、どうしたの」
「無駄口は良い。次の議題に移る」
 困惑する満月を尻目に、訳知り顔の赤鴉がくっと笑いを噛み殺した表情でこちらを見てきた。玉兎がおろおろと九螢と満月とを見比べるが、為す術もなく肩を落とした。
「それでは、計都国に乗り込む際の人員についてだが」
 動じた様子もなく平然と彩章が言葉を紡ぎ、九螢を見やった。九螢も、既に言葉を用意していたのだろう――考える間もなく答えた。
「人数は少数、一般人は巻き込まず、曜神・曜命・曜子のみ。効率と危険性を考慮するとそれが一番良い気がするが、どうだ」
「確かに民衆を巻き込むのは、あまり良い方法とは言えないだろうね。兵を組織することで多少の戦力は稼げるが、蝕のもたらす被害が想定できないから、民を巻き込むのは得策とは言えない。それに、あたしたちは計都国と戦をする訳じゃないんだからね」
 帛鳴が言って、一同を見渡した。
「あんたたちに相当の負担が掛かるが、できるね?」
 六人同時に頷いた。
 輪国を守るために、ここに集った。できないなどと思うはずがない。
 全てが簡単に行くとは、思わない。けれど、必ずやり遂げる覚悟はある。
「それなら、明朝、月姫と日御子は地界へ。残りの者は、計都国での動きについての協議を続行。更に国民への真実の普及、月の欠片の回収も急ぎたいね」
「それでは、これでお開きということで?」
 問うた晴尋に帛鳴が頷いた。
「部屋の用意を頼む」
 彩章が言うと、九螢が頷き、すぐに環ら月の精がやって来た。
「お部屋のご用意はできております。どうぞこちらへ」
 環に続いた彩章ら日の者を目で追いかけながら、満月はやっと息を吐いた。
「おやすみなさい」
 引き留めることのないよう、ささやかに言葉を溢すと、三者三様の反応が返ってきた。共通しているのは、どれも満月に好意的だということだ。以前ならば、こんな言葉を掛けるなど、考えられないことだった。
 思わず、相好が崩れた。やはり、敵対するのは辛い。睨まれるのも、憎まれるのも、殺意を向けられるのも、心が痛かった。彼らも輪国を思っているのだと知っていただけに、こうして普通に言葉を交わせるようになって、本当に良かったと思う。
 一国が懸かった問題だという意識はあるが、単純に彼らとの距離が近づいたことを満月はとても嬉しく思った。
 玉兎が帛鳴と連れ立って部屋を後にする。熱気を失った議場には、今や九螢と満月しか残されていなかった。
「そんなに、不安?」
 満月は再び卓子に向き直り、奥の席に座ったまま微動だにしない九螢に問いかけた。
「楽観視するのは良くないけど、あまり気を張り詰め過ぎても参っちゃうでしょう。勿論、輪国は必ず守り通さなければならない、かけがえのないものだけど。九螢だって、少しは休むことも必要だと思うよ」
 曜神という重みが、九螢にどれだけの重圧を与えているのか、満月には分からない。あまりにも次元の離れた場所に身を置いている九螢だが、満月と等しく人の心を持っている。ならば、その心くらいは守りたいと満月は思った。
 もう二度と、九螢が独りの道を選ばないように。独りの暗がりへ、追い落としてしまわないように。
「九螢? 疲れたなら、寝たら?」
 いくら待っても返答をしない九螢に痺れを切らして、満月が言った。頬杖をつき、そっぽを向いた九螢に、普段は全く感じない愛らしさを感じて満月は微笑む。
「お前になど言われなくとも、休養は取るし、すぐに寝る」
 向けられた言葉に棘を感じて、満月はたじろいだ。最近は、九螢との距離も縮まりつつあると思っていたが、それは自分の勘違いだったのかもしれない。
 少し、調子に乗りすぎていたのだ。母親でも、ましてや恋人でもないのに、このような馴れ馴れしい態度を取っていては、九螢が面倒に思うのも無理はない。
「そう、ね。ごめんなさい」
 動揺を抑えつけた声音は、変に響いた。無理やり笑って、満月は扉の外まで逃げるように歩き去った。
 気が動転していたのか、満月は回廊の突き当たりまでやって来てやっと足を止めた。みじめに胸がざわめき、時折ちくりと痛む。
 何を、そんなに動揺しているのか。九螢に冷たくされるのも、横暴に振る舞われるのも、いつものことだったはずだ。何を今更、辛く思う必要があるというのだ。
「月姫様?」
 突然名を呼ばれ、満月はびくりと肩を震わせた。
「日御子……」
 力の抜けたような間抜けな声が出た。空笑いで誤魔化すと、晴尋の瞳がほんの少しだけ大きく開かれた。
「夜は冷えます。そのような薄着では、身体を壊しますよ」
 晴尋は言って、羽織っていた上掛けを満月の肩に掛けた。ほのかに残る温度を感じて、満月は身体が冷え切っていたことを初めて自覚した。
「ありがとう」
 満月が頭を下げると、晴尋は微かに微笑んだ。
「苦労しますね。お互い」
 何のことを言われたのか分からず、満月は訝しげに視線を晴尋に向けた。晴尋の表情はどこか困ったようでもあり、柔らかくもあった。
「彩章様もなかなか難しい方ですが、貴女の方もどうやらそうらしい」
 歩き始めた晴尋に慌てて続く。しかし慌てなくても、晴尋は満月に歩調を合わせてくれていた。
「噂をすれば、ですね」
 呟いた晴尋の視線の先を追うと、庭園に続く階を降りた所で、九螢が彩章と赤鴉と言い争っているのが見えた。満月の方が先に議場を立ったはずであったが、別の道を通って来たのだろうか。
 九螢の瞳が、晴尋の肩越しに満月を捉えた。九螢の冷えた眼差しからは、何の色も読み取ることができない。
 先刻のやり取りが尾を引いているのか、満月は九螢の双眸を直視できず、晴尋の背中を見つめた。
「どうかされたのですか」
 晴尋が問うと、赤鴉が瞳を瞬かせた。
「何でもないのよ。あんたたちは早く寝所にでも行きなさいな」
 明日の計都国曜子捜索の件を案じてか、早口に赤鴉が言った。
 気遣ってくれるのはありがたいが、日月間の諍いはどんなに些細なことでも見逃すわけにはいかなかった。つい先日まであった深い溝だ。その溝が埋まり切ったとは、満月も思ってはいなかった。
「何か、問題ですか」
 満月は真面目腐った顔で進み出た。その様子に、九螢が苦虫を噛み潰したような表情を見せる。
「まだ何か問題があるなら、いくらでも話し合うつもりです。軽んじるわけではないですが、曜子捜索といっても私の故郷です。多少睡眠不足でも、やるべきことはやれます」
 月と日が、必ずしも完全に心を同じくしなければならないとは、満月も思ってなどいなかった。けれど、両者に未だに敵意が根付いているのならば、それはできる限り取り除きたいと思う。
 瞳を鋭く光らせた満月に対して、返って来たのは柔らかい声だった。
「姫よ。私たちは何も、姫の案ずるようなことで口争いをしていたわけではない」
 彩章を仰ぎ見ると、大地に息づく緑草を封じ込めた瞳が、満月を諭すように細められていた。
「そなたは、日月のために、輪国のために良く心を砕いてくれたようだが、もう私と月神とのことで悩む必要はない。私は、月と共に輪国を救うつもりでいる」
 断言され、満月は目を見張った。少しでも疑ったことが恥ずかしくなるほど、きっぱりとした口調だった。
「行きましょうか」
 晴尋の誘う声に素直に頷き、満月は九螢の横を通り過ぎた。背中に刺さるような視線を感じる。それが、九螢のものであると分かっていたが、満月は振り返ることができずに寝室へと急いだ。


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