月姫 花氷の行方[七]



「嘘……」
 閑静な住宅街で、か細い悲鳴を上げたのは満月だった。曜子の気配を辿って延々と歩き続け、気付いた時には既に日が傾きかけていた。午後の穏やかな日差しは、疾うにその影を潜め、芯まで凍りつくような冷気に満月の身体は蹂躙されつつあった。見覚えがあるどころか慣れ親しんだ光景からある仮定を導き出した時、その冷たさは決定的なものとなって満月の背筋を撫ぜた。
 帛鳴は、曜子は惹かれ合うものだと言った。晴尋はそれを、あながち間違いではないと評した。満月も、その程度には曜子の結びつきに必然性を感じた。だが、満月は帛鳴の言った言葉を本当の意味では理解していなかったのだと気付く。
「私の、家だ」
 やっとのことで吐き出した言葉はそれだけだった。隣で、鋭く空気がぶれる。晴尋の驚きようが伝わってくるというものだ。
 「黒川」の表札を見据えて、満月は苦い表情を見せた。仮定は、結論へと満月を急かす。頑なに拒んでいたその名が、鮮烈に満月の脳裏に浮かび上がった。
 観念して、満月はインターホンを鳴らした。
「はい」
 聞こえてきたのは、悠里の声だった。心なしか焦った響きが、懐かしさよりも不安を煽った。
「お父さん、私」
 そう言うのには、勇気が要った。インターホンの向こう側で、悠里が息を呑んだ気配がした。
「待って、今開けるから」
 そう聞こえてから数秒後に、玄関の鍵が開く音がして、勢い良くドアの向こうから人影が飛び出してきた。父ではない。その見慣れない姿に、満月はぽかんと口を開いた。
「――みつ姉……だよね?」
 黒川邸は満月の自宅だが、そこで小柄な少年を見るのは初めてだ。少なくとも、満月はそう記憶している。兄弟など持たなかった満月は、言うまでもなく「みつ姉」などと呼ばれるのも初めてのことだった。
「あ、俺、和理です。京姉の弟の」
 そう言われてやっと、満月は閃いた。
「あ――もう退院できたんだ。良かった。ごめんね、私――」
 姉でありながら、家族の容態さえ知らないとは情けなかった。思わず小さくなってゆく声に、和理の言葉が覆い被さった。
「良いよ。それより上がって」
 悠里と同様に、和理の声音からも、差し迫った緊張が感じられた。
 いったい全体、どうしたというのか。
 黒川家の複雑な事情を知らない晴尋からの視線が痛かったが、後で話すからと小声でまくしたてて、満月は玄関下の階段を一気に駆け上がった。
「彼ではないですね」
 潜めた晴尋の低い声が、耳朶を掠めた。頷いて、満月は脱いだローファーを揃える。フローリングの床はひんやりとしていたが、もわっと全身を包んだ生ぬるさは、冷え切っていた手足の痛みを和らげた。代わりに、じんじんと痺れるような感覚が広がっていく。
 ふと、リビングの向こうから、微かな音が漏れ聞こえてきた。人の声のようだ。どこか苦しそうな、呻き声のようでもある。
 声の主は、満月でも晴尋でも和理でも――父でもない。満月の心臓が、大きく跳ねた。
「京華――!」
「みつ姉!」
 走り出した満月を、晴尋と和理が追う。
 勢い良くリビングへ通じる扉を開いて、満月は目を見開いた。
 ぐったりと床に身を投げ出していたのは、やはり、京華だった。座り込んだ悠里に上半身を支えられているが、瞳は虚ろで焦点が定まっていない。開いた口から漏れるのは苦しげな吐息ばかりだ。両手で頭を抱え込んだ姿は痛々しい。艶やかな美しい黒髪は汗でべったりと顔や首に貼りついていた。
「どうしたの!」
 駆け寄って、満月は顔を強張らせた。
 京華は答えない。否、答えられない。
「暫く前からずっと頭痛が続いていたっていうんだ。ここ数日、その症状が顕著でね。昨日は突然倒れて……医者にも診せたんだけど、ただの風邪だって言うもんだから、今日は学校を休ませることにしたんだけど」
 唇を噛み締めた悠里の声は、悲痛だった。京華は制服姿だから、この状態でも学校に行くつもりだったのだろう。休んで正解だ。だが、頑固な彼女はそれを良しとしなかったらしい。
「とりあえず、寝かせなきゃ。二階まで運ぼう」
 悠里に抱えられた京華が、二階へと通じる階段を慎重に上ってゆく。悠里の背を追いながら、満月は晴尋を振り返った。
「彼女に間違いなさそうです」
 断言され、満月は表情を取り繕おうとして失敗した。
 そう、満月の悪い予感は当たってしまったのだった。
 一度目の地界への帰還の際、輪国の状態を顧みず、満月が京華に固執したのは、きっと曜子の繋がりがあったからだ。果たして、曜子の結びつきがなかったならば、満月は周囲の反対を押し切ってまで京華をあんなにも気にかけただろうか。そう気付くと、何故だか落胆が満月を襲った。その落胆に増して、罪悪感で胸が締め付けられる。京華がくれた感謝の言葉が、急に重石のように心に圧し掛かった。
 満月は、ゆっくりと瞼を下ろした。閉じた瞼にぐっと力を込める。軽く息を吐いて、満月は目を見開いた。
「京華の具合が悪いのと、計都の蝕化は関係していると思う?」
「関係がないとは言い切れませんね」
「――京華が話せる状態になったら、全部話して、来てほしいって頼む。だから、強引に連れて行ったりはしないで」
 九曜国の曜子として地界から人間を連れて行くということは、その人間がそれまでに積み上げてきたものを奪い取るということだ。満月も晴尋も、今では輪国の曜子として生きているが、それを受け入れられない者もいるだろう。ましてや、計都国は今、最悪の状況にある。自分の人生に何ら関わってこなかった異界の国を、命を張って助けるなどという芸当を出来る者の方が少数だ。
 京華にまた嫌われるかもしれないなと思い、満月は渇いた笑みをこぼした。満月は、京華ではなく、輪国を選ぼうとしている。輪国の、月の曜子でありたいと思う気持ちと、黒川満月という人間でありたいという相反する気持ちが交錯して、苦しかった。
 でも、選ぶものは既に決まってしまっている。それを覆すことは不可能だ。なら、せめて。
 嫌われることを恐れて、逃げるなどという情けなくて身勝手なことはしないようにしよう。京華の怒りや悲しみや苦しみ全てを受け入れよう。
 でなければ、満月は満月でなくなってしまう。

 ベッドに寝かせられた京華の表情は幾分か和らぎ始め、呼吸も安定してきていた。
 満月はベッドのすぐ横に跪き、京華の額に浮かんでいた汗を拭って小さく息を吐いた。悠里は目を覚ました時のためと言って、果物を剥きにキッチンに行ってしまった。和理は満月と晴尋と共に京華の部屋に留まっている。
 悠里も和理も見知らぬ男――晴尋に怪訝そうな視線を向けていたが、倒れた京華の手前だからか執拗に尋ねることはしなかった。上手い言い訳を思いついていなかった満月は、一先ずほっとする。もっとも、矛先を向けられていたはずの晴尋は、簡単に嘘八百を並べ立てたのだろうが。
 窓を覆うレースのカーテンから透けて見える空は既に青く暗み、電灯の光が朧げに街を照らしていた。満月たちが輪国を離れてから、もう一日が経とうとしている。玉兎は、彩章は、赤鴉は――九螢は、無事だろうか。
 焦る気持ちとは裏腹に、満月は目の前のことに右往左往していた。
 何をどうすれば良いのだろう。どう切り出せば、京華は九曜国などという夢物語のような世界のことを信じてくれるだろう。
 煩悶する満月の心を知ってか知らずか、京華がうっすらと目を開けた。
「――み、つ……き?」
「京華、大丈夫?」
 心構えができていなかった満月は、そんな当たり前のことしか言うことができなかった。
「……気分は、最悪ね」
 青ざめた顔で、京華は笑った。満月の制止にも関わらず、京華は起き上がって自分の部屋を見渡す。晴尋の所で視線を止めて、京華は再び満月に顔を向けた。
「彼は?」
「え――」
 案の定、満月は言葉に詰まった。
「留学先でできた彼氏とか? それにしては日本人っぽいけど」
「そ、そんなんじゃないってば! この人は……」
「この人は?」
 計都の蝕化に対して私たち月と協力態勢を取っている、日の曜子の晴尋という人なの。なんて言える訳がない。
 答えられない満月を見かねてか、京華が弟の方に視線をやった。
「和理、悪いけどちょっと外してくれる?」
 和理は少し不満そうに唇を尖らせ、けれど素直に部屋を出て行った。満月は不謹慎と知りつつ、安堵の息を漏らした。和理が居ては、九曜国のことは話せない。
 扉の閉まる音と同時に、壁に寄り掛かっていた晴尋が、満月と京華の方に二、三歩歩近寄って来る。
「期待に添えなくて申し訳ないのですが、俺は満月さんの恋人でも何でもないですよ。あえて言うなら、同僚、でしょうか」
 不審者丸出しな晴尋の第一声に、京華は怪訝そうに眉を寄せた。
「別に期待なんてしてないわ。貴方、誰?」
 敵意も露わに京華が問う。険悪な雰囲気が漂い、満月は露骨に不満をぶちまけた。
「晴さん、そうやって京華を煽らないで! 京華もちゃんと説明するから私の話を聞いて」
 驚いた様子で、京華が満月を見上げた。満月がこんな風に怒鳴り散らすとは思ってもみなかったのだろう。
「京華。前に私、失踪していた期間のことをホームステイだとか留学だとか言い訳したけど、それ嘘なの。私は確かに違う国へ行ってたけど、それはただ勉強するためじゃない」
 訝しげな京華の目が、満月に先を促す。京華も、満月と悠里の見え透いた嘘など、端から信じていなかったに違いない。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど、私が行っていたのは、異界にある国なの」
「……いかい?」
「こことは違う世界。それを九曜国っていう」
 京華は呆気に取られたように満月を見返していた。それもそうだろう。満月とて、友人から突然こんな告白を受けても、冗談と流すに決まっているのだ。
「九曜国には国が八つあって、私はその中の一つ、輪国に呼ばれた。私には、国とそこの神様を救う力があるんだって。こんなこと、大袈裟だし、私にそんな力が本当にあるのかなんて今でもよく分からない。だけど、信じられないかもしれないけど、私が異界へ行っていたってことは本当なの」
 京華は奇妙なものを見る目つきで、満月を窺っていた。理解されないということは、結構辛い。それが、友人や家族であるなら尚更だ。
 でも、それを嘆いて、訴えることをやめてしまったら何も変わらない。
「……そんなの、意味分かんないわ」
 京華の口からこぼれた言葉は、拒絶を満月に突きつけた。
「うん。現実離れした話だって分かってる。だけど、聞いて欲しいの」
 自分が口下手であるのは、とっくに分かっていたことだ。満月に出来るのは、拙くともきちんと自分の言葉で京華に出来る限りの情報と思いを伝えること。嘆いていても、逃げてしまってもそれは叶わないのだ。
 京華は応えなかったが、満月の話に耳を貸してくれるようだった。
「全部を説明していたらきりがないから、簡単に説明するけど……私は勿論、この晴さんも元はこちらの人間なの。そして、同じように輪国に呼ばれた。さっき言った通り、私たちは九曜国っていう異界で神様を補佐し、国を守る役目を担っているの。それを曜子っていう。九曜国には、それぞれの国に一人ずつ神様がいる。例外として、輪国だけ神様は二人居るんだけどね」
 そこまで言って、満月は眉を顰めた。違う。言いたいのはそんなことじゃない。
「本題に入るけど……輪国は――というか九曜国は今、危機に陥っているの。その理由が、八つある国の内の一つ、計都国の蝕化」
「九曜国は神の存在により、成り立つ世界です。神は病や戦、貧困や不作、災害その他諸々……総称して禍と呼ばれるものから国を守っています。しかし、禍を退けるために力を使えば、神といえども身体を蝕まれていきます。そして、いつしか我を失い暴走する。それが蝕化です」
 フォローを入れてくれた晴尋にありがとうと目配せして、満月は続けた。
「計都は今、蝕になりかけていて、私たちはそれを止めるためにこちらに計都の曜子を探しに来たの。曜子は神様一人につき、一人居て――唯一、蝕を止める力を持つから」
 更に続けようとした満月を押し止めたのは京華だった。
「満月。この男に何か唆されたんでしょう? 異界とか神とか、何を言っているの?」
 歪なものを見る目だった。困惑と動揺の中に、満月への心配が滲んでいる。どうにかして、満月をこちら側に取り戻そうとでもいうような気負いさえ感じられた。
「私は騙されていないし、嘘も吐いてないよ」
 満月は、ただ京華をじっと見つめた。目は、何より真実を相手に伝える。京華の瞳に、怯えが過ぎった。満月が初めて見た、京華の表情だった。やがて、諦めたように京華は唇に言葉を刻んだ。
「それが、私だとでも言うの?」
「……そう。京華が計都国の曜子」
 残酷な死刑宣告のように、満月の声が響いた。京華の顔が、みるみるうちに紅潮してゆく。
「そんなことがどうして分かるのよ! 私はただの何の力も持たない女子高生だし、満月だってそうでしょう」
 京華はまるで、輪国に連れて来られて間もない頃の満月だった。自分は何の力も持たない。そんな勝手なことを言われても、理解できるはずなどない。やれ国を救えだの、やれ神を救えだの、大仰なことを言われたって、私なんかに出来るはずがない。
 叫んだ京華の表情が苦痛に歪んだ。片方の手で頭を抱え、もう片方の手で口元を押さえる。興奮したせいで、痛みがぶり返したのだろう。見かねた満月が京華の背中を擦った。けれども、京華は苦しそうに顔を歪めるばかりだ。ついには、ベッドの上に小さくうずくまってしまった。
「――九螢、聞こえる?」
 何もない空を見上げて、満月は呼びかけた。
「ごめん。凄く負担を掛けちゃうと思うけど、京華を、助けてあげて」
 途端に、京華の身体を見知った光が包み込んだ。脂汗の滲んだ京華の身体が弛緩し、穏やかな吐息が漏れる。しかし、新たに目だけは驚愕に彩られた。
 京華を取り巻いていた残光がゆっくりと消えてゆく。その様を、京華の瞳はしっかりと捉えていた。
 この瞬間、京華の信じていた世界が、音を立てて崩れ去った。
「私って結構酷いよね。それから最低」
 誰に言うともなく、満月は呟いた。
 九螢の力を見せつければ、否応なく京華は得体の知れない異界の存在を信じるだろう。強引に連れて行くことはしないでと言っておきながら、結局満月は、自分の言葉だけでなく九螢を頼った。情けなかった。そして、目的のためなら手段を選ばない自分が、何より恐ろしかった。
「……満月」
 しっかりとした声は、京華のものだった。
 満月は京華に視線を走らせ、目を見開いた。京華の表情が、想像していたものよりもずっと、明るかったからだ。
「私は確かに何日か前から頭が痛かった。だけど、それだけじゃないのよ」
 京華の突然の告白は、満月を困惑させた。
 深く息を吸い込んだ京華は、次の言葉を言うのに、躊躇いなど見せなかった。
「私、頭痛がする度に、声を聞いたわ。男の人の、悲痛そうな声。悠里さんのものでも、和理のものでもなかった。勿論、クラスの男子のものでもない。気味が悪くて、聞こえないようにしていた。感じないようにしていた。自分がおかしいと認めるのが、怖かったの」
 満月は、力が抜けたようにその場に座り込んだ。ベッドに座り込んだ京華より、目の位置が下がる。見上げると、京華のまなじりに汗とも涙ともつかない滴が浮かんでいた。
「でも本当は、どうしようもなく、惹かれてた。胸が痛くなった。どうしてもその人を、助けたいと思ったわ」
「その人は、何て?」
 恐る恐る、満月は尋ねた。京華は少し辛そうに視線を落として、けれどはっきりと言った。
「――俺を、解き放て」
 満月は瞠目し、晴尋を仰ぎ見た。晴尋が頷いて満月を見やる。
 間違いなく、計都の声だ。蝕と闘い、何とか己を取り戻そうと必死になり、助けを求めた声。それは、遥か遠くの京華の元へと届いた。
「頭が割れるように痛くなって、あの声が聴こえて、満月が現れた。偶然にしては出来すぎてるわ。だからさっきの話も、そういう世界はあるかもしれないって、頭のどこかでは思っていたのよ。それなのに、怒鳴って悪かったわ。あんまり、自分を責めないでちょうだい。助けてくれて、ありがとう」
 京華は、満月の自己嫌悪を見抜いてそう呟いた。ありがとうの一言が、満月の渇いた心を免罪する。京華は、満月の心の内の全てを知っている訳ではない。異界の詳細な情報など京華には知る余地もないのだ。だから、その只中に居る満月の心情など分かるはずもない。だが、京華は確実に満月の心に罪の匂いを嗅ぎ取った。そして、彼女はそれを許すというのだ。
 満月は力なく頭を振るしかなかった。
 覚悟していたはずなのに、苦しい。京華が満月をなじったり軽蔑したりしないから、余計に。冷たく昏い目をしていた京華が、この家で安らぎを見つけて、父と弟と幸せに暮らしていければどんなに良いかと思った。満月は確かにそう思ったのだ。なのに、満月は京華からそれを奪おうとしている。
「……あちらでは、命の危険もある。私たち曜子は蝕化を阻む力を持つけれど、神をも狂わせる力が、私たちにどういう風に作用するかは分からない」
 京華は、酷く真剣な表情で頷いた。
 恐らく、自ら蝕になろうとした九螢を満月が止めた時とは比べ物にならないほどの禍々しい力が、計都には渦巻いているのだろう。遠く離れた国に禍をもたらす力は半端なものではない。とすれば、それだけ京華に掛かる負担は大きくなる。
 ――むやみやたらにその力を使えば、代わりにあんたが死ぬことだって有り得る。帛鳴の忠告が、耳に鮮やかに蘇った。その言葉は、満月以上に京華に当てはまる。
 この場から逃げ出してくれれば良いのに、京華は満月の話を黙って聞いていた。
「きっと苦しいこともあると思う。だけど、京華だけに辛い思いはさせない。必ず守るよ」
 そこまで言って、満月は尚も逡巡する。この先は言いたくない。けれど、言わなくてはならない。私はもう、輪国と九螢を選んでしまったのだから。
「私たちと一緒に……来て、欲しい」
 満月の言葉は、枷のように重く響いた。
「そうすれば、あの人を助けられるかもしれないのね?」
 京華の問いに、満月は頷いた。下がりがちになる視線をしっかと上げて、京華を見据える。まだ少し青ざめた顔をしているのに、元々の造作が良いからだろうか。儚げな印象に拍車が掛かって、京華はより蠱惑的に満月の瞳に映った。強固なのはその意志で、黒目がちな京華の瞳は強い光を湛えていた。
 この瞳から、目を逸らしては駄目だ。京華の視線から逃れたいと思う自分を叱咤し、満月は京華の答えを待った。
「……行くわ」
 満月の顔が歪んだ。安堵で胸がいっぱいなのに、苦しさと罪悪感が同じだけ心を浸した。
「満月、私が選んだの」
 続けられた言葉には、有無を言わせない圧力があった。
「満月がそういう顔をする必要はない。私は私のために、あの人を救いに行くことを決めたわ。だから、満月が今もこれからも、私に負い目を感じたりする必要はない」
 いつの間にか震えていた満月の腕を、京華が掴んだ。何かを訴えるように、腕に力が込められる。それだけで、十分だった。
 満月は目を伏せ、静かに涙を流した。しかし一度きっかけを掴むと、今まで堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。歪んでいく顔をどうにか押さえつけることしか、満月には出来なかった。
 未だにベッドの上に座っていた京華に、満月は思いきり抱きつく。スプリングのよく利いたベッドは、満月と京華の身体を大きく跳ね上げた。

 一階へ下りてきた京華の表情にはもう、翳りなど一点もなかった。
 これまでの失踪期間中の満月の所在は、黒川家の暗黙の了解で、留学先のイギリスということになっていた。その嘘を作り上げた悠里に向かって、満月と京華は対していた。
「満月と一緒に留学させて欲しい?」
 留学というのが真っ赤な嘘だと分かっている悠里は、珍しく眉間に皺を寄せて娘たちを見つめた。
 京華は、少しも目を泳がせたりすることなく、悠里を真正面から見つめて頷く。
「何でまた、そんな急に」
「満月から話を聞いて。どうしても行きたいと思ったんです」
 京華の瞳はぶれない。それだけ、京華が計都を思う気持ちが大きいのだろう。同時にそれは、計都の置かれている状況の深刻さを浮き彫りにする。
「私からもお願い、お父さん」
 満月が京華に加勢する。悠里に黙って出て行くことも出来た。だけど、それはしたくなかった。満月とて、嘘で塗り固められた言葉で納得してもらえるとは、端から思ってなどいない。思ってはいないが、黙って出て行くよりはましだと思った。我ながら、随分と勝手な娘に育ったものだ。
 罪悪感に苛まれながらも、満月は視線を上げた。明後日の方向を見つめる悠里は、途方に暮れているようだった。
「どんなに行くなって言ったって、君たちは行ってしまうんだろうね」
 満月と京華は、揃って顔を見合わせた。見る見るうちに、二人の顔がしおれてゆく。
「黒川家の掟、三つ目。自分の信念に従って生きること」
 再び満月と京華に視線を戻した悠里は、穏やかに笑った。
 胸に微かな痛みを感じて、満月は俯いた。京華も目を伏せているから、同じ痛みを感じているのだろう。
「満月、京華、君たちがどうしてもというのなら、お父さんには止めることが出来ない。だけど、この家はいつまでも君たちの家だ。僕たちが家族なことに変わりはない。疲れたら、いつでも帰っておいで」
 悠里の言葉はいつだって、相手を断罪しない。満月と京華をまるまる包み込んで、背中を押してくれる。
 ごめんなさいという言葉は、心の中だけで呟いた。
「ありがとう」
 娘たちは揃って晴れやかに笑い、リビングを後にした。
 扉が開いたのに気づいて、それまで階段の向かいの壁に背を預けていた晴尋が顔を上げた。満月を見つけた晴尋の顔が、珍しく困ったように崩れる。満月が小首を傾げると、晴尋は目の前の階段を顎で示した。
 満月は階段下まで進み、階段を見上げて言葉を失った。
「和理……」
 遅れてやって来た京華の方が、満月よりも早く口を開いた。
 階段を数段上った所に体育座りをして俯いていたのは、和理だった。
「どうし、」
「何でだよ」
 満月の問いは和理に打ち消され、最後まで言わせてもらえなかった。和理の言葉は短かったが、強い口調に責め立てられ、満月はぎょっとした。いったい、何がどうしたというのだろう。
 勢い良く顔を上げた和理の顔を見て、満月は更に肝を潰した。和理の瞼は、痛々しいほど赤く腫れ上がっていた。
「折角、やっと皆揃ったと思ったのに、何でまた行っちゃうんだよ。しかも、今度は京姉まで!」
 すん、と鼻をすする音が、やけに大きく響いた。
「……和理君」
 満月はそれ以上言葉を続けられなかった。奪うのは何も、京華からのみではない。京華に関わる全ての人から、彼女を奪うのだ。
「俺は家族が出来たって知って、すっごく嬉しかったんだ。京姉と悠里さんからみつ姉の話聞いて、ずっと会うのを楽しみにしてたんだ。やっと会えたのに、みつ姉はまたどっかに行っちゃうのかよ!」
 寂しい、行かないで。そんな感情が礫となって満月と京華に襲いかかる。和理が生まれて間もない頃、彼と京華の両親は事故で亡くなったと満月は聞いている。和理は、家族を知らなかったのだ。だから、やっと出来た家族を再び失いたくない。その気持ちが分かるだけに、満月は何を言うことも出来なかった。
「和理、ごめんね。だけど、どうしても私は行きたいの」
 和理の頭を撫で、京華が言った。切望する声だった。和理だけでなく、満月も晴尋もその声にはっとした。
 和理は言葉に詰まったのか、京華を見上げ、しゃくり上げた。
「――なん、で」
「何でも」
 微笑んだ京華の横顔は、大人びていた。
「そんなの、ずるいよ」
「うん、だから、ごめんなさい」
 真っ直ぐに伸びた京華の視線は、和理の言葉もそれ以上反論する意欲も封じ込めた。
「和理。身体には気をつけてね。悠里さんにあんまり迷惑かけちゃ駄目よ。それから、学校にはちゃんと通うのよ。勉強はちゃんとして、女の子には優しくね」
 京華は最後に、少年らしさの残る華奢な和理の身体をそっと抱きしめた。京華はきっと、家族にさえこんな風に心の内を開放することは珍しいのだろう。弱弱しいくらいの姉弟の抱擁を見つめ、満月は思った。
 覇気を失ったように項垂れていた和理の顔が、ゆっくりと上がる。悔しそうに、或いは悲しみを押し殺したように歪められた顔が、くしゃりと困ったような微笑みに崩れた。
「京姉も、あんま無理すんなよ」
「子供が生意気な口を利かない」
 京華がたしなめ、満月に向き直る。
「行くわ」
 ぎこちなく頷き、満月は和理に目をやった。出来ることなら、もっともっと和理とも話したかった。一人っ子だった満月にとって、兄弟が出来ることは事件だったのだ。
 それに、異性が苦手であったはずの満月にも、和理の存在は自然と受け入れることが出来た。年下であることも関係していたかもしれない。だが何より、京華とはまるで反対の人懐っこさが、満月の心の警戒をいとも簡単にかいくぐってしまったのだろう。
「みつ姉も、また会おうね。それから、怒鳴ってごめん」
 人の目を真っ直ぐに見つめて謝る和理の姿が京華と重なって、満月は噴き出した。訳も分からず和理は目を白黒させた。その和理に向かって、満月は手のひらを差し出す。
「うん。よろしく兄弟」
 言うと、和理の表情がほころんだ。
「おう、姉ちゃん」
 けらけら笑い、和理が満月の手を取る。じんわりと広がる温もりが、優しかった。
「さて、そろそろ行きましょうか」
 頃合いを見計らって、晴尋が呟いた。窓ガラスの向こうの景色はすっかり黒一色に染まってしまっていた。満月と京華は揃って頷き、リビングから現れた悠里と共に手を振る和理に手を振り返した。
 音を立てて、玄関のドアが閉まる。しかし、黒川邸から退出してきたはずの満月らの姿は、玄関の外には見当たらなかった。もし見る者が居たのなら、彼らの姿は夜の闇の中に消えてしまったのだと思うだろう。けれど、それは違う。
 九曜国の曜子三名の影は既に、この地上から跡形もなく消え去っていた。橙と薄青に揺らめく微かな残光だけを残して。


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