月姫 究竟に灯る夕星[三]



「行ったみたい」
 追手が通りの向こうに駆けて行くのを見届けて、納屋の物陰に京華と身を寄せ合うようにして潜んでいた満月は、吐息のような囁きを漏らした。
 先刻、計都の曜命から逃れるために九螢たちの元を離れてから、満月と京華は街道を疾走しては身を隠して追手をやり過ごし、見つかりそうになっては街の中を縦横無尽に駆け巡りといった具合で逃走劇を繰り広げていた。進む道など気にせずに走り回ったため、九螢らと別れた場所からは、すでに相当の距離が開いてしまっている。
 今は見る影もないが、見渡せば、この街が相当大きく栄えていただろうということが自ずと知れた。長い間悲劇の時代に埋もれていた輪国とは一線を画し、計都国はこれまで高い水準の文明を誇っていたようだった。深淵を思わせるような闇色をした曜からそう遠くは離れていない所に位置しているから、若しかしたらこの街は都なのかもしれない。
 しかし、大都市のような外観に反して、先刻計都の曜命に奇襲を掛けられた町と同様に、人影はまばらだった。時折思い出したように追手が数人現れることがあるが、それだけで、辺りには寂れた廃墟のような空虚な雰囲気が漂っている。
「何で、追って来ないのかしら」
 先程の追手も、恐らくは計都国の民の一人であろう狼の男だった。どういうわけか、計都の曜命はあれから一度も姿を見せていない。何故かは分からなかったが、何にせよ手練れらしい彼が追ってこないことは助かった。勿論、彼の狙いは京華であるはずだから、油断は出来ない。
「皆に足止めされているか、何かの罠かも。だけど、九螢たちだってこの国の人たちにそんな乱暴なことは出来ないだろうし、罠っていっても、わざわざ私たちにそんな回りくどい真似するとは思えないよね」
 民に取り囲まれた九螢らは、計都の曜命に相当の隙を与えた。曜命はあれだけ機敏に動き回れたのだから、京華を葬れる好機をみすみす逃すようなへまをすることは考えられない。
 その上、満月と京華は九螢たちと違って、戦う術を持たなかった。だから、計都の曜命がわざわざ手間を掛ける理由が見当たらない。京華を葬りたいのなら、すぐにでも現われて良さそうなものなのにと思うと、彼の姿が見えないことが逆に不気味に感じられた。
「とにかく満月は、月神様の気配を辿れるんでしょう。理由なんて分からないんだから、早く皆と合流しましょう」
 そうつとめて冷静に言う京華の顔色は、やはり優れない。というより、症状は悪化しているようにさえ思える。それでもこうして話したり走ったりすることが出来るのは、生命の危機を京華の身体が敏感に感じ取って、気力を振り絞っているからなのだろう。早く皆に合流しないと、計都の曜命に見つかる以前に京華が力尽きてしまう。
「あっちも多分、私の気配を追って来てる。さっきよりぐんと近づいたけど、まだまだ遠いな」
「これ以上暗くなったら進むのも大変よ。流石に夜になっても会えなかったらまずいわ」
「うん。だけど、その時はその時だよ。これ以上急げば、見つかる危険性が増すし、京華だって無理したら危ない」
「無理なんかしてない。気遣ってくれるのは助かるけど、私はこれ以上足を引っ張りたくないの。都合の良い話だと思うけど」
 京華はそう言って唇を噛んだ。京華はまだ、あの時捕まってしまったことを気に病んでいるのだろう。その後一行はばらばらになってしまったが、何もそれは京華のせいというわけではない。京華は蝕化を脅かす存在として、計都から狙われる立場だ。それを守れなかったのは、むしろこちらに責任がある。必ず守ると誓ったのに、この様は何だ。満月は拳を固く握りしめた。
「行こう。あっちの人影も消えた」
 京華の言葉に肯定も否定も返さず、満月は立ち上がった。京華もつられたように立ち上がり、そっと納屋の戸を押し開く。
 二人の少女の人目をはばかったささやかな足音が、大路の奥に吸い込まれるようにして消えて行った。

「くそっ」
 鍬を片手に襲いかかってきた計都の民に手刀を入れ、九螢は何度目かの悪態を吐いた。
 民による包囲網をどうにか抜け出してから、もう数刻が経とうとしていた。仄明るかった景色が、一段と暗みを帯びる。衣を通り抜けて素肌を刺す風も、一層厳しさが増してきた。霧のように辺りを覆っていた陰は、心なしか先刻より和らいだような気がするが、きっと気のせいだろう。少し進んでは民が襲ってくるという状況は、心身を疲弊させるのに一役買っていた。
「愛しの月姫は無事?」
 こんな切迫した状況なのに軽口を叩いてくる赤鴉に冷ややかな視線を返し、九螢は小さく頷いた。
「気配は消えていない。あっちも近づいてきている。上手く行けば、黄昏時には合流出来るだろう」
「それにしても上手く逃げたものですね。あの曜命を撒くだなんて」
 感心したように晴尋が言うと、立腹したのか玉兎が晴尋を睨み上げた。
「月姫を見くびらないでよ」
「あるいは、何らかの理由で曜命が追跡をやめたということも考えられるな」
 ずっと走り続けているのに一糸乱れぬ様子で彩章が呟いた。
 確かに、その可能性は高い。あれほどの太刀の使い手が、満月と京華を相手に苦戦するというのは考えにくかった。しかし、玉兎の言うとおり、満月を甘く見れば痛い目に合う。だから九螢は何も言わずに走り続けた。とにかく無事ならば、それで良い。それだけで九螢は十分満足しているのに、時に彼女は無茶をし過ぎるから、早く目の届く所に連れ戻さなくてはと思う。
 末枯れつつある雑木林を暫く進むと、足元がぬかるんできた。足を取られないように注意を払いながらも、一行が速度を緩める気配はない。
 茂みの向こうに人気を感じた九螢は、咄嗟に刀の柄に手を掛けた。
「誰か居るのか」
 九螢が威圧するように声を上げると、玉兎と赤鴉が息もぴったりに前方に対して身構えた。後方で、晴尋がきりきりと弓を引き絞る音が響く。そんなぴりぴりとした沈黙を破るように、ぱしゃりという気持ちの良い水音が響いた。
 訝るように、玉兎と赤鴉が顔を見合わせる。九螢は、思い切って茂みの向こうに身体を滑らせた。
 そこにあったのは、泉だった。枯死し空気も淀んだ林の中に、こんなにも澄み渡った清水がある。それだけでも十分に驚くべきことなのに、それよりも尚、はっとする光景が一行の目前に広がっていた。
 水沫を受けてそこに立つのは、翼を広げた玉兎ほどの大きさもあろうかという蒼い鳥だった。扇子のように広げた尾羽は紺と翠の紋様で彩られ、僅かな曜の光を浴びて微かな光を放っていた。
鸞鳥らんちょう……ならばあれは、計都の曜命か――?」
 半ば放心したような声で、彩章が呟いた。
 途端に蒼い鳥は輪郭を変えてゆく。それまで蒼く揺らめいていた光は、銀色に輝く艶やかな髪へと変質した。長く伸びた肢体が、水面に映り込む。その裸体は、九螢や晴尋と比べれば、病的なまでに細く薄かった。蒼い鳥が消えて、代わりに姿を現したのは、見覚えのある人影だった。その人影は、やっと一行に気づいたのか、ゆらりとこちらを振り返った。澄み切った薄い色の瞳に先ほどの蒼い鳥の面影が残っている。
 計都の曜命は一行を認めて、悲しげに目を伏せた。それで、九螢の中に戻りつつあった敵意は完全に掻き消えた。
「意識を、取り戻したのか」
 尋ねると、曜命は水際まで近づいてきて、衣を纏った。まだ警戒を緩めない晴尋を安心させるように、曜命はふっと相好を崩した。その笑みは、お世辞にも明るいとは言えない。
「ええ。先ほどはとんだご無礼を。ご存じでしょうが僕は計都の曜命、彗鷺すいると言います」
「己の曜の曜子を手に掛けずに済んで良かったな」
 皮肉るように九螢が言えば、彗鷺は何も言い返せずに俯いた。それはそうだろう。曜命にとって己の曜神とは絶対の存在であり、曜子とはその曜神の連れ合いとなる存在である上に、曜の切り札に成り得ると伝えられる人物なのだ。それを曜命が手に掛けたとあっては、すなわち合意の上での国の滅びと取られても致し方ない。
「それで、計都の様子は? ていうかあんた、どうしてそんな急に自我を取り戻したのよ」
 腕を組んで、いらいらと赤鴉が言い放った。小柄なのであまり迫力がないが、どうやら赤鴉は相当怒っているようだった。
「我が君は自我を失っておいでです。計都姫の顕現により、国に蔓延る陰が若干薄らいだのですが、それを濃いものとするために躍起になっています」
「つまりは計都姫が顕れ、蔓延した陰が多少なりとも取り除かれた。その影響でそなたの自我も戻ったというのだな?」
 彩章の問いに、彗鷺は神妙な顔つきで頷いた。
「ともかく、月姫と計都姫を助けに向かおうよ。彗鷺は民の暴走を止めることは出来ないの?」
 焦れたように玉兎が言うと、彗鷺は困り顔でそれに答えた。
「残念ながら。民が従っているのは蝕に囚われた我が君にのみです。僕は先ほど民を意のままに動かすことが出来ましたが、それは我が君の意志に同調していたからです」
「計都神に逆らうような命は、曜命の言葉であっても聞かないと?」
 晴尋は不快そうに歪めた顔を隠そうともせず、彗鷺を睨みつけた。冷静そうに装いながらも、日の三人は総じて気性が荒いきらいがある。
「まあ、そういうことですね」
 動じる様子もなく彗鷺はそう返す。
 その気丈に振る舞う様子に憐れみを感じたのか、気遣わしげな表情のまま、玉兎が彗鷺の前に進み出た。
「鸞鳥に転化して飛ぶことは出来るの?」
「いえ、我を失っていた時は出来たんですが、今は翼を広げるのが精一杯です」
 どうやら彗鷺に空路を取ってもらうことも不可能のようだ。その答えに落胆したらしい赤鴉は、八つ当たりのように「使えないわね」と悪態を吐いた。九螢も、流石に彗鷺が気の毒になってくる。赤鴉も玉兎も同様に空路を封じられているのだ。
 矢継ぎ早に繰り出された質問に全て答え終えると、彗鷺は九螢と彩章に向き直った。
「それにしても、貴方方は日曜神に月曜神とお見受けしますが、何故我が国へ? 曜同士の干渉は禁じられていたはずですが」
「曜同士の干渉は、殺生や侵略といったものが絡まない限り罰せられることはあるまい。それは日月が証明している」
 彩章が九螢と玉兎に目線をやって言えば、確かにぴんぴんしていますねと彗鷺が頷いた。だが、まだ疑いを消し切れずに渋い表情をしているから、納得はしていないのだろう。
「天に罰せられようが罰せられまいが、もうじきこの国は沈む」
 そう言った九螢が仰いだ斜陽の国の曜は、本来の色を失い毒々しい闇色に染まっている。
「彗鷺、俺たちは計都国や計都神を害するつもりは毛頭ない。計都国鎮定、ただそれだけの目的のためにこの国へやって来た。計都国から流れ着いた陰が、禍となって輪国を害している。このまま放って置けば、俺の民が死ぬ」
 彗鷺は驚いた様子で九螢を仰ぎ見た。
「国が乱れ、我が君がご乱心されたことについて、何か知っているのですか」
「ああ。そなたは蝕を知らぬのだな」
 困惑し、悩んだ様子で彩章が彗鷺に視線をやった。その彗鷺もまた、聞き慣れないらしい言葉に眉を寄せている。
 九螢は、彗鷺のその態度に疑わしげに眉を顰めた。
「待て。国が乱れた原因を理解してもいないというのに、計都の曜子が蝕に対抗できることを何故知っている」
 弾劾する響きを持った九螢の言葉に、彗鷺は小さく首を傾げた。
「しょくなるものが何なのかは分かりませんが、曜子については、我が君が危険だから消し去れとお命じになったのです」
 そうあっさりと言われ、九螢はああと頷いた。
 九螢自身、蝕化を望んだ時に、蝕を取り除く力を持つ満月にそれを阻まれた。あの感覚は、己が何者であるかを知らずとも認識は出来る。そして、自我がなくなり蝕に支配されつつある計都は無論、その妨害の元である京華を消し去ることを望むだろう。
「なら、今がどれだけ緊迫した状況であるか分かるだろう。お前の所の曜子と、俺の曜子が危ない。詳しい説明は後だ」
 九螢は言い捨てると、再び意識をこの国のどこかを彷徨っているであろう満月へと向け、駆け出した。以前はまるで綿糸の一本のように細かった満月との繋がりが、今では太い綱のように力強く感じられた。
 視界の中に、満月の姿はまだ僅かにも映らない。けれど踏み出す一歩一歩に迷いを覚えることは、今はもう一度としてなかった。満月までは、まだ随分と遠い。だが、九螢が向かうその先には必ず、彼女の姿がある。

 呼吸も荒く壁に手をついていた京華が、嘔吐をした。もうこれで本日三度目のことである。京華の容態が急変したのは、三十分ほど前のことだった。それまでどうにか振り絞ってきた気力も、ついには使い尽くされてしまったらしい。
 大きく上下する京華の背中を擦りながら、満月は途方もないやるせなさに見舞われていた。京華がこんなにも辛そうなのに、すぐ傍にいるはずの自分は何をしてやることも出来ない。自分の無力さが情けなく、そして悔しかった。
「歩ける?」
 躊躇いがちに掛けた言葉に、京華は微かに頷いた。とにかく今は休ませなければ。計都神が蝕に囚われている限り、京華の身体は蝕まれ続けるのであろうが、このまま先を急ぐのははばかられた。
「そこの家で休もう。辺りが入り組んでいるから、そう簡単には見つからないと思う」
 満月が指し示したのは、粗末な荒屋が並ぶ中で、そこそこ状態がましな草葺き屋根の小さな家だった。ついさっきまでは見るも裕福そうな家々がそこここに立ち並んでいたというのに、この辺りは貧民街とも言うべき有様だった。若しかしたら、また違う町に知らず入り込んでしまったのかもしれない。
 嗅覚が麻痺し始めているのかもしれないが、幸いこの辺りは腐臭も顕著ではなく、休養を取るには申し分のない場所だった。腐臭や遺体と共に寝食を共にするのは、出来れば避けたい。そう思うのは亡くなった人々に失礼だとも思ったが、計都国で数時間を過ごしても未だに死に対する恐れや腐臭への嫌悪は消えてはくれなかった。何度遺体を目にしても、満月は直視出来ず、目を逸らしてしまう。
 満月の提案に、京華は今度こそ異議を唱えなかった。もう、喋ることさえ辛い状態なのだろう。よくも立っていられるものだと満月は思う。
 京華の身体を支えながら、満月は惰性でずるずると草屋の中まで歩き切った。
 汗でべたつき、汚れにまみれた身体に気持ちの悪さを抱くことも忘れて、満月は京華と共に床に倒れ込んだ。薄ら寒い陽気と、これまでの奔走により上気した身体が不協和で、感覚が何だかおかしい。
 全速力で走ったり、小さな隠れ場所に身体を折って長時間身を潜めていたりしたためか、疲労は極限に達しようとしていた。その上、蝕により蔓延した陰は、精神を脆弱なものにし、喰らう。無遠慮に搾取され過ぎた心身は、ただただ疲れ果てていた。
「……満月」
 唐突に上がったか細い声に、満月は注意深く意識を向けた。
「私に――この国やあの人が救える、かしら」
 ぽつりと漏れた京華の囁きは、輪国に来てから満月が幾度も幾度も思ったことと全く同じものだった。
「この国の曜命や人々に殺されそうになる……他の国の人たちに助けてもらえなければ何も出来ない。そんな私に、曜子が務まるの?」
 京華が辛さに耐えながら絞り出した切れ切れの言葉は、満月の心の奥深い所に突き刺さる。
「京華、私たちも出来る限り努力する。京華が居てくれて私たちは凄く心強いし、京華が居るから計都を救える」
「――違うわ」
 満月が考えに考えて口にした励ましの言葉は、その一言に一蹴された。
「輪国の人たちにとって、私は待ち望んだ曜子かもしれない。皆、私が覚悟を決めてこちらに来たことに何度もお礼を言ったわ。だけど、私は計都を助けてくれる、、、、、、存在なの? 私が助ける、、、んじゃないの?」
 満月は、京華が必死になって言っている言葉の意味が、よく分からなかった。渋面をつくった満月に、京華は畳み掛けるように口を開いた。
「満月は、曜子として輪国を助けてあげているの? そうじゃないわよね。満月は輪国を救いたいと思って、輪国のために一生懸命になってる。私が計都の曜子だというのなら、満月や日御子のように自分から動かなきゃいけないんじゃないの? 私のおかげとか、私が居るからとか、そんなのは……何だか違う気がするわ」
 ぼろぼろの京華は、それでも強い光を瞳に宿して、満月に訴えた。今度こそ、満月は京華の言わんとしていることを理解した。
 知らず知らず、満月は京華を傷つけていたのだ。満月が京華に対して計都のことで感謝するというのは、計都の曜子としての京華を認めていないことになる。京華がすると決めた選択を、してくれるという概念に置き換えてしまったのは、つまりはそういうことだった。
 それで、京華は不安を覚えたのだ。自分はお飾りの曜子なのではないか、と。ただ居るだけならば、誰にだって出来る、と。
 その不安もまた、満月の身に覚えのあるものだった。
 足手纏いではいられない。助けたい。守りたい。自分だって、出来ることがあると思いたい。こちらに来たばかりの京華にも、もうそんな気持ちが芽生えているのだろう。この惨状を見、それを救い得る力を自分が持つと聞かされれば、そういった感情がふつふつと湧いてくるのは至極当然のことだった。
 更には、京華の傍には曜子という同じ役目を持った同郷の人間が、初めから二人もついていたのだ。満月も晴尋も、今では日月の一員となって動いている。それは、いちいち九螢や彩章から感謝されるようなことではなく、もう当たり前のこととなっていた。その姿を見て、京華が焦燥感に駆られるのも無理はない。自分にまつわるとされる曜と国の危機に、京華は満足に動けないばかりか、他の国の者たちに丁重に扱われる。それは、張り詰められ鋭敏になっていた京華の心に鈍くひびを入れただろう。
「ごめんなさい。助けられなければ何も出来ない身で、こんなことを言うのは勝手だし、言い方が違うだけで、結果は一緒よね」
 自嘲するように京華が言う。満月は咄嗟に首を左右に振ってから、深く頭を垂れた。
「ごめん。私が悪いよ。京華は計都神を助けたくてここに来たのに、勝手なことばっかり言って、本当にごめん」
 心からの謝罪に、京華は軽く身じろいだ。満月はぱっと顔を上げて、今度はにっこりと微笑んだ。
「一緒に、計都を助けよう」
 そう言って差し出した右手を、京華の手が取った。その瞬間にも、京華はごほごほと咳き込んでいた。京華の手を力強く握り返し、満月は窓の外の紺と紫の混じり合った夕闇を見つめた。一層、陰の支配が強まっている。
 京華の意識はあとどれくらい持つだろうか。憶測の域を出ないが、きっと京華の意識が失われれば、どうにか抑えつけられていた陰も一気に拡散し、濃さを増すだろう。そうすれば、きっと状況は満月たちにとって更に風当たりの悪いものとなる。それまでに、どうにか突破口が開ければ良いのだが。
 京華もそれが分かっているのか、柱にもたれながらも決して目を閉じようとはしなかった。
 満月は気遣うような視線を京華に向けながら、腰にぶら下げていた竹筒を口に含んだ。ただの水のはずなのに、それは酷く甘く、とろけるように乾き切った舌の先を転がっていった。
 まだ、動ける。まだ、やれる。
 じわじわと国土を侵食していく陰を一睨みして、満月は暫しの休息に身をゆだねた。


BACK | TOP | NEXT