月姫 究竟に灯る夕星[四]



 呼吸をする度に腹の底に毒が注がれていくような感覚に眩暈さえ覚えながら、九螢ら一行は街道を疾走していた。陰はより色濃く辺りを覆い始めている。果たして、無意識に陰を取り込んでいる京華が、この状況に耐えられるかどうか。
 暫く足を止めていたらしい満月が、再び引力だけを頼りに進み始めたのは、九螢らが丁度計都の都である碧洛へきらくの関所に差し掛かった時のことだった。彗鷺によれば、碧洛は広い街だというが、満月との距離を鑑みれば間違いなく彼女はこの街の中に居た。
 京華の意識が闇に落ちる前に見つけ出さなければ、今度こそ彼女らの命は危ういだろう。胸の中に芽生えた焦慮を掻き消すように、九螢は爪が薄い手のひらの皮を破るまで、ぐっと拳を握り締めた。
「流石、都なだけあって、人が多いな」
 民らを必要以上に傷つけないように注意を払いながら、彩章が町娘の腹に拳を打ち込みぼやいた。どさりと音を立てて、娘が崩れ落ちる。その様を人知れず見つめていた彗鷺の瞳は、痛々しげに揺れていた。
 何でもない風を装いながらも、やはりその心は玉兎や赤鴉と同じように情に厚い曜命そのものなのだろう。
「月姫たちが見つかってなければ良いけど……」
「うじうじ言ってないで足を動かしなさい。足を」
 不安げな玉兎を一刀両断したのは赤鴉だった。その様子を苦笑して見ていた晴尋の表情が、俄かに曇る。九螢と彩章も、はっと顔を見合わせた。
「意識が、途切れたか――!」
 それを合図に、曜から豪雨のごとく落ちてきた陰が、うねりながら碧洛を喰らい尽くす。家々も田畑も森も川も全てを覆い、常闇に染め上げる。そうして瞬く間に関所を破り、他の町々へと広がり移って行く。
 立っているのもやっとなほどの圧が身体にのしかかり、更には侵入して来た陰が心を食い潰した。思わず片膝をつきたくなるのを堪えて、九螢はその場に踏み止まった。
 どす黒い陰を帯びながら、先ほど彩章が気絶させたはずの町娘がゆらと立ち上がった。幽鬼じみたのろのろとした動きで、町娘は鎌を振るった。そのすぐ傍には赤鴉が居た。玉兎が咄嗟に赤鴉もろとも地面に倒れ込む。鎌は、赤鴉が立っていたはずの場所で、ひゅんと冷たい音を立てた。
 瞬時に晴尋が町娘から武器を取り上げ、気絶させてから縄を掛けた。
「赤鴉! 赤鴉、大丈夫?」
「大丈夫だから、耳元でそんな大きな声出さないでよ」
 立ち上がって衣服を叩きながら、赤鴉が玉兎に文句を垂れた。玉兎は立ち上がってからも、赤鴉の腕を放さない。心なしか、赤鴉の頬は朱色に染まっていた。
 全員の無事を確認してほっと息を吐いたのも束の間、九螢はすぐにその異変に気がついた。
「……彗鷺?」
 呼びかけてみるが、反応がない。彗鷺の四肢は、今や地面に崩れ落ち、小刻みに震えていた。
 嫌な予感がして、九螢は彗鷺に歩み寄った。彗鷺の肩に手を置くと、震えは次第に収まって行った。ほっとして、九螢は彗鷺が身を起こすのを手伝ってやろうとする。
 しかし、案の定九螢の予感は的中してしまった。
 立ち上がりざま、九螢の喉元を鋭いものが掠っていった。それが太刀の切っ先であると九螢が気づくまでには幾ばくも掛からず、微かに切られた所が熱くじんじんと痛み出した。
「月神様!」
 玉兎が悲鳴を上げて、彗鷺に体当たりをする。彗鷺はその衝撃にまろびそうになって、けれども太刀を杖代わりにその場に留まった。
 清水を思わせた彗鷺の蒼の瞳は昏く濁りきり、ぼんやりと九螢らを見つめる様はまるで傀儡のようだった。彗鷺は首を持ち上げて、酷く緩慢な動きで辺りを見回すと、九螢らから少し距離を取った。
 一分の隙も見逃さないといった態で、彩章と晴尋が構えの姿勢を取る。九螢は、刀に手を掛けながらも、ゆっくりと彗鷺に歩み寄った。
「彗鷺、目を覚ませ」
 九螢の言に一瞥もくれず、彗鷺は蒼い光を放ちながら、鸞鳥へと転化した。しかし、その姿は泉で初めて鸞鳥を見た時の神秘的な姿とは程遠く、黒々とした陰を纏っている。
「彗鷺!」
 声を荒げた九螢についに目をやることなく、彗鷺は汚濁した蒼穹へと舞い上がった。

 京華の意識が途切れたのは、無人の露店が並ぶ通りを歩いている最中だった。最後まで抵抗を続けた京華が、意識を失う直前ごめんなさいと呟いたのが、満月の耳に鮮やかに残っている。慌てて付近にあった民家に京華を引っ張っていったものの、見つかるのは時間の問題だった。
 京華が意識を失ってから、追手の数が格段に増えた、と満月は思う。それに、陰がずっと濃くなった。外に出ていないので詳しいことは分からずじまいであったが、物々しい雰囲気と時折聞こえる足音は満月の推測を確固たるものにしていた。
 幸い、九螢との距離はあと僅かだった。九螢は、きっと満月と京華を見つけ出してくれるだろう。それまで、満月は息を潜めて待っていれば良い。
 そう思うのに、身体の震えは止まらなかった。
 さっきまでは京華が居たが、彼女の意識も今はもう闇に落ちた。満月は、この地で、本当に一人きりになってしまった。
 不意に、ぎし、と民家の屋根が軋んだ。満月の心臓が、どくんと一つ大きな音を立てる。それを嘲笑うかのように、ぱらぱらと塵のようなものが、何故か民家の天井から降ってきた。
 何でもない。気のせいだ。そう思い込もうとして、満月は固く目を閉じようとした。だが、それは民家の壁がひびを入れるおぞましい音のせいで叶わなかった。
「崩れる――!」
 満月は何とか京華を引きずり、崩壊の一歩手前で家の外に躍り出た。追手の虚ろな目という目が、満月と京華に注がれる。満月に恐怖を植え付けるにはそれだけでも十分過ぎたが、満月は民家を振り返って唖然と口を開いた。
「鳥……?」
 それは、孔雀にも似た巨大な蒼い鳥だった。鳥は、満月と京華が先ほどまで潜んでいた民家を文字通り潰していた。民家を支えていた柱は折れ、何本かは屋根を突き破っていた。居間も玄関も風呂場も関係なく、全てがぐしゃぐしゃに押し潰されている。
 ふと、鳥と目が合ったと満月は思った。どこかで見たことのある何の感情も映さない蒼い瞳が、満月を見ている。すぐに満月は、鳥の正体に気づいた。そして、鳥の目が、満月ではなく京華を見つめていることにもやはり気づいた。
 おどろおどろしい陰を背負った鳥は、数時間前満月らを襲った時と同じ、銀色に輝く髪を持った青年へと一瞬にして姿を変えた。その手には、白銀に光る太刀が握られている。
 満月は後退りかけたが、辺りに目を走らせてすぐにそれを諦めた。騒ぎを聞きつけたか、計都の曜命に呼ばれたかなんて満月には知る由もないが、辺りはすでに人々によって取り囲まれていた。
 二度も同じような手に引っ掛かるなんて、と満月は思ったが、そんなことを今更思ってもどうしようもなかった。それに、今度は九螢たちも居ない。京華も気を失っていて、味方は満月一人だけだった。四面楚歌という言葉が、自然と頭に浮かんだ。
 曜命が、ゆっくりと満月と京華に向かって歩み寄る。正確には、京華一人を目掛けて。
 曜命は京華の前まで来て立ち止まると、太刀を勢い良く突き立てようとした。
「させない!」
 満月は叫んで、京華の前に立ちはだかった。
 曜命は、初めてその存在に気づいたように満月に視線を向けた。
「我が君に仇なす者は、誰であろうと滅す。その者は我が君の最大の仇敵。退かぬのなら貴様も殺すが、相違ないか」
「京華はこの国の曜子――貴方のかけがえのない仲間でしょう。そんなことも分からないの!」
 躊躇いのない一閃が、満月の胸元を掠めた。セーラー服の胸元がはだけ、白い肌が露わになる。一瞬、刃に紅の輝きが映り込んだ。決して血液などではない。それは、光明のように彩を放つ小さな小さな曜だった。
 いつの頃からか成長を続けていた左鎖骨下の紅い傷は、今や整った円の形を取っていた。それを気にも留めずに、満月は言い募った。
「ちゃんと、曜神と曜子を見て! この国を見て! 持ちたくもないのに武器を取っている人たちを見てよ! 京華は、計都神を救う、ただそれだけのためにここまで来たの! それなのに、どうして曜命が曜子を殺すだなんて言うの!」
 声を枯らして叫んでも、計都の曜命の心には何一つ響かないようだった。うるさそうに眉を顰め、口を塞ぐためにか曜命は満月の喉に手を掛けた。満月の足の裏が、持ち上げられて地上から離れた。こくりと、満月の喉が奇妙な音を立てる。息が出来ない。苦しい。段々と意識が遠のく。
 ここで自分が死ねば、次には京華が殺されるのだろうか。そう思うと、亡失しかけていた意識がほんの少しだけ舞い戻ってきた。簡単に死んでやるものかと、必死に足掻く。だけど、それももう、もたない。
 意識が闇の中に沈みかけた時、鈍い衝撃と共に満月の身体が地面に投げ出された。咄嗟のことに反応出来ず、膝に痛みが走る。痛みを感じる――生きている?
 朦朧とした意識の中、顔を上げると、そこには見知った背中があった。だが、それが誰なのか、頭の中に霧が煙っていて思い出せない。訳が分からなかったが、何だかとても安堵して、満月はそのまま地面に倒れ込んだ。すぐ近くで、誰かが何かを叫ぶ声がする。酷く動揺した大きな声は耳触りなはずなのに、満月には心地が良かった。有り得ないと分かっているのに、子守唄のようにさえ感じられる。その唄に誘われるようにして、満月は意識を手放した。

 目が覚めると、まず最初に見慣れない薄汚れた天井が瞳に映り込んだ。痛む身体に鞭を打ちながら、満月は何とか身体を起こす。それで、自分が布団の中で眠りに落ちていたことに気づいた。
「気がついたか」
 間近で聞こえた声にびっくりして、満月はすぐ横に視線を向けた。赤々と燃える炎が、暗がりの中のその人を控えめに照らし出している。
「……九螢?」
 疑問形になってしまったのに、九螢は特に気にした様子もなく満月に向かって頷いた。
「ここどこ……ていうか、私、何で寝てるの」
 記憶を呼び戻そうにも、頭が痛いし混乱していて何が何だか分からなかった。寝台の横の椅子に、どうして九螢がまるで満月を看病するかのように腰掛けているのかも全く思い出せない。
「所在地は計都国の都、碧洛の外れにある社だ。お前はここより更に東の方角にある路地で、計都の曜命に襲われて意識を失った。覚えてないか」
 満月は暫く考え込んだ後、やっとあっと声を上げた。
「京華は? 京華は大丈夫なの?」
 噛みつくように満月は九螢に詰め寄った。
「別室で彩章が見ている。大事はない。少し無理をし過ぎただけだ」
「そう……良かった」
 呟くと、満月の目尻から涙が一筋流れ落ちた。ぎょっとしたように、九螢は身じろぐ。
 何せ死にかけたのだ。まだ、喉の辺りに生々しい人の手の感覚が残っている。けれど、自分は生き残り、何が何でも曜命の手に掛けさせたくなかった京華も無事でいる。終始張り詰められていた緊張の糸が解けると、どっと嵐のように入り乱れた感情が押し寄せてきた。
 本当は大泣きしたい気分だった。けれど、硬直している九螢があまりにも憐れだったので、それはどうにか我慢した。
「あれ、九螢が助けてくれたんだよね」
 あの時は意識が朦朧としていたせいで、助けてくれた背中が誰のものであるか分からなかったけれど、今なら確信を持ってそう言うことが出来た。
「周りに居た民に手間取って、助けが遅れた――すまなかった」
 まさか九螢が謝るとは思ってもみなかったので、今度は満月が動揺する番だった。みすみす殺されかけるな、くらいは言われると思っていた。
「ううん、もう駄目かもって思ったくらいだったから。まさか助かるなんて思わなかった。本当にありがとう」
 そう礼を述べると、九螢の瞳が僅かに瞬いた。
「俺の許しなく、勝手に死ぬな」
 何とも勝手な言い分だったが、九螢の瞳が真剣そのもので悲痛を孕んでいたから、満月は目を見張ってからすぐに微笑んだ。
「うん、そうだね」
 満月がそう答え終えてから、暫く沈黙が続いた。身体は痛いし、気分は良くないし、やらなければならないことが山積みだった。早く今後について話し合わなければと思うのに、この静けさが妙に心地良くて、満月は口を開けないでいた。
 満月は無言の穴を埋めるようにぼんやりと視線を巡らせて、やがて鏡が立てかけてある所で目を留めた。角度的に顔は映らなかったが、それが自分を映しているということは認識できた。
 それで、満月は目を瞬かせた。
 満月の首から下を、見慣れない紅色の衣が覆っている。月の宮で環に着せられたものよりも数段軽く、簡素なものだったので、動き回るのに支障はなさそうだ。
 否、今はそんなことはさして問題にはならない。
 問題なのは、袖を通した覚えのない衣を、何故か自分が身につけてしまっているということだった。
「これ、服……!」
 九螢は珍しく述語が伴わない言葉の意味を、瞬時に察した。心外とばかりに眉根を寄せる。
「彩章と赤凰が着替えさせた。変な想像をするな」
「へ、変な想像なんてしてない!」
 思わずむくれ、満月は頬を赤らめた。そういった些細なことに頓着しない九螢のことだからと疑ってしまっていたのは、実は事実だった。だが、わざわざそれを言い咎めなくても良いではないかと思う。九螢には、自分のこれまでの行動を顧みてもらいたい。
 全く、雰囲気が台無しだ。
 満月は怒りと羞恥を静めるため、早々に会話の軌道を修正することにした。
「計都の曜命は? あの後どうなったの」
「逃げられた。明日の朝から捜索を始めるつもりだが、夜明けまではここで身を潜めていようと思っている」
「じゃあ、今は夜なんだ……」
 満月は言うと、辺りを見回し、窓の外に目をやった。
 意識を失う前より少しばかり闇が深くなっただろうか。蝕の影響で陰に取り憑かれた大地は、昼夜を問わず澱んだ暗みの中に沈んでいる。一たび意識を失ってしまえば、時間の感覚などすぐに無くなってしまう。
「あの鳥、綺麗だった。陰に取り憑かれていてもあんなに綺麗なんだもん。きっと、元に戻ったら、凄く凄く綺麗なんだろうね」
 紅と朱の輪国の曜命も相当美しいが、この国の曜命もまた美しかった。玉兎や赤鴉の転化した姿は、普段の愛らしさから想像もつかないほどに勇壮として威風堂々としているが、計都の曜命にはどこか繊細な楚々とした美しさがある。
 呪縛から逃れた姿を見てみたいという満月の切実な願いに、九螢は微笑と共に言葉を返した。
「彗鷺、というのだそうだ」
 何を言われたのか分からず、満月は九螢に視線をやった。
「曜命の名前だ。お前たちが逃げ出した後、計都の曜子の影響でか、一時自我を取り戻していた」
 その言葉に、満月は込み上げる嬉しさを隠せずに毛布を鼻の先まで引っ張った。肌触りの良いそれに顔を押し付けて、そっと瞼を下ろす。
「京華、きっと喜ぶよ」
 俯いた京華の酷く頼りなげで哀しげで苦しげで冷たかった表情が、ふっと花の咲いたような表情に変わるのを想像して、顔を上げた満月は微笑んだ。
 戸を震わせて忍び込んできた夜風が、冷たく満月と九螢の間を流れて行く。曜の光を失った国、計都。それは今はまだ、凍え、渇き、死臭が立ち込める蝕の巣窟かもしれない。でも、明けぬ夜などないと満月は思う。
 京華の存在に少しでも彗鷺が揺れたのなら、まだ可能性はある。
「もう夜更けだ。そろそろ行くぞ」
 そう言って立ち上がった九螢を、満月は思わず縋るように目で追ってしまった。
「案ずるな。じきに赤凰が見張りから帰って来る」
 命をも狙われる国の見知らぬ部屋に、一人で残される心細さを言い当てられて、満月は赤面した。小さな子供でもあるまいし、ましてや九螢は満月の親でも何でもない。
「だが何かあったらすぐにでもここを発つ。心構えはしておけ。疲弊しているところ悪いが」
 ここには誰一人として味方は居ないのだから、常に周囲の状況に気を配り、状況によっては昼夜を問わず何かしらの対応取らなければならないのは仕方がない。それでも尚見せてくれた気遣いが、単純に嬉しかった。
 きっと九螢らは交代で寝ずの番だろう。本当は満月もそれに加わるべきだったが、計都滞在一日目にして既にへとへとだったので、皆の気遣いに甘えることにした。明日まで疲れを持ち越して、足を引っ張ってしまったりしたら取り返しのつかないことになる可能性もある。
 こんな時、もっと体力と気力があればと思うが、生憎満月はこれまで日本で筋トレや運動部の熱血指導などとは無縁の生活を送ってきた。計都国が無事鎮定されたら、体力づくりに勤しむのも良いかもしれないと頭の片隅で考えつつ、満月は九螢に向かって頷いた。


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