月姫 究竟に灯る夕星[五]



 暗闇に紛れて、九螢が人影の腹に拳を打ち込んだ。短い呻き声が漏れて、地面に肢体が崩れ落ちる音が響く。満月はすぐ傍の玉兎と京華と無言で頷き合うと、その倒れた身体を人目に付かないように路肩に押しやった。満月はその姿を横目で顧みると、心の中で小さくごめんなさいと謝罪の言葉を口にした。どんな状況であれ、人を傷つけるというのは、心が痛む。
 もう暫くすれば正午であるというのに、辺りは薄墨色をこぼしたような闇の中に包まれている。注意して目を凝らさなければ、道端で気を失っている人影などには誰一人として気づかないだろう。さほど気にすべきことではないのかもしれないが、用心するに越したことはない。倒した民から満月らの存在を知られ、足取りを追われては、これまでの努力が水の泡だ。
 というのも、遡ること五、六時間前。
 昨夜逃げ込んだ社に、襲撃の第一陣が押し寄せて来たのは、まだ夜も明けきらない未明のことだった。
「起きなさい」
 押し殺されていたが苛烈な響きを伴った赤鴉の声は、深い眠りに落ちていた満月の意識を一瞬にして覚醒させた。見れば、赤鴉が腰を屈めて満月の耳元に顔を寄せている。
「刺客よ。彗鷺は居ないみたいだけど、少なくとも十人は居る」
 途端に満月は寝台から飛び起きた。注意深く耳を澄ませ、暗闇の中に目を凝らす。だが、それらしい人影はどこにも見当たらなかった。
「今、晴尋と彩章が軒先で喰い止めてる。あんたは計都姫を守って月神と玉兎と先に裏口から逃げなさい」
「先に? どうして?」
 不審に思って尋ねると、赤鴉はしきりに辺りの様子を見回しながら、眉を顰めて早口にひそひそと言葉を紡いだ。
「あたしたちがここを守っていれば、ここに計都姫が居ると奴らに錯覚させることが出来る。あたしたちが足止めしている間に、あんたたちは中央へ向かうのよ。彗鷺は多分、計都姫に覚醒させられるのを恐れて、より陰の濃い計都宮の近くに身を潜めているはず。だから、どうにかして居場所を突き止めて、何が何でも彗鷺を覚醒させなさい。彗鷺につけ狙われたまま、計都宮へ乗り込むのは難儀だわ」
「でも――」
 それでは赤鴉たちが、という満月の言葉は高慢ちきな笑い声に掻き消された。
「あたしたちを見くびらないでくれる? 言っておくけど、彩章も晴尋も、もちろんあたしも物凄ーく強いわよ」

 かくして満月、京華、九螢、玉兎による彗鷺捜索の幕が上がった。
 計都神によって放たれた民という名の刺客は、それこそ無尽蔵に居る。中央に近づくにつれ、確かに民の数は増えているのだが、それにしても人数が少なすぎる。満月らを探す追手もない。つまり、こちらの狙い通り、刺客は京華が隠密に移動を始めたのを知らず、あの社に集中しているのだ。一国の曜神手ずから守護する社の中身が空っぽだとは、計都神も彗鷺も思いもしなかっただろう。
 だが――。
「そろそろ、まずいかもね」
 九螢が倒した民から勝手に拝借してきた竹刀を握りしめて、満月はそう呟いた。
 もう、彩章らは何時間も籠城を続けている。九螢や玉兎が姿を見せないことに計都神が不審を感じても良い頃だ。
 それに、民の数がいくらか少なく、警戒を怠っているからといって、計都宮を真上に仰ぐ碧洛の中心ともなれば、隠密行動がいつ露見するとも分からない。
 道なりに進み、やがて街道を左に折れた時、満月の悪い予想は的中した。
 突然飛び出してきた男の持っていた手燭の小さな炎が、先頭をきっていた九螢の顔を照らし出した。満月は唖然と息を呑む。目玉がこぼれ落ちそうになるほど見開かれた刺客の視界に、一行の姿が映し出される。止める暇もなかった。すぐさま、刺客の男の野太い叫び声が辺り一帯に響き渡った。
 見つかった……!
 満月の顔に、さっと緊張が走った。こちらを振り返った九螢の瞳にも険が滲んでいる。気をつけろ、という囁きは硬質なものであったが、満月のかちこちになった身体をいとも簡単にほぐした。いくらか落ち着いて、満月はその来訪を待った。
 ざわざわという喧騒が、沸き起こる。忙しない足音と共に、続々と人々が押し寄せた。その様を目の前にすれば、やはり心は怯んだが、この状況も想定の内だった。今更、尻尾を巻いて逃げる訳にはいかない。
 出来ることなら彗鷺の元まで誰にも見つからずに辿り着きたかったというのが本音だが、満月らはそんな神業を披露するためにここまでやって来たのではない。こんな中枢まで辿り着けただけでも上々だ。
 ――ここまで来れば、必ずや彗鷺が現すのだから。
「俺から離れるな」
 言って、九螢は白刃を引き抜いた。玉兎も、寄って来た猪の男を打ち据えて、彗鷺を待つ。
 満月は、そっと京華の方に身体を寄せた。持った武器が、じっとりと汗ばみ、自然と竹刀を持つ手に必要以上の力が込められていく。京華も、満月と背中合わせとなって長刀を構えた。
 ちなみに、両人とも、武器があった方が何となく心が落ち着く気がしたので気休め程度に持ってみただけだ。扱えるはずもない。京華は果敢にも長刀を振り回していたが、効き目はあまりありそうになかった。
 息を整え、満月は、周囲に注意深く目を凝らした。人々の壁の向こう――大路の先で闇がさっと動き出すのが視界に入る。
 この感じ、覚えている。冷たいのに焼きつくような、鋭い思いの切っ先。迷うことなくそれは、京華の元へと向かい、走り迫って来る。
 と、満月らを取り囲み始めていた人垣が割れた。その向こうに現れたのは、冷たい瞳で京華を見据える彗鷺だった。四方八方にみなぎっていた殺気がぶれる。代わって、一際鋭く激しく凍れるような殺気が、さっと満月らを射抜いた。
 地面を軽やかに駆ける音が、満月の耳にやけにうるさく響いてくる。銀色の髪がなびき、衣が風を浴びてはためく。あっと思う間もなく、一行の頭上に白銀の一閃が振り上げられた。
 九螢の刀が攻撃を凌ぐと、息吐く間もなく玉兎の木刀が彗鷺の無防備となった背中を突いた。彗鷺の完璧なまでの無表情に、苦々しげな苛立ちが塗られる。痛みを堪えて力任せに彗鷺が太刀を振り回すと、玉兎の衣の袖が破けて血が溢れた。
「玉兎!」
 満月は悲鳴を上げたが、同時に周囲の人々の動きを察してその場に踏み止まった。
 それまで九螢、玉兎と彗鷺の攻防を見守っていた民が、一心に京華に群がろうと押し寄せて来たのだ。心を喰われた民たちの姿は、どこか狂気じみていて猟奇的でさえあった。
「お願い、やめて!」
 何とかぎりぎりの所で、民の一人が振るった木刀の一閃を遮り、満月は懇願した。その隙をついて襲いかかってきた別の民の攻撃を、京華が長刀でどうにか防いだ。
 力と力が拮抗する。しかし、大の男の腕力には叶うべくもない。男の体重が圧し掛かり、足元のぬかるみに踵が埋まっていく。満月も京華も耐え切れずに尻もちをついた。
 その機会を逃さず、槍を手にした女が二人、満月と京華の目の前に躍り出た。刻まれた笑みから、この上ないほどの悦が伝わってくる。
 槍の切っ先が、満月と京華、それぞれの心臓に狙いを定めた。
 早く逃げなくては、抵抗しなければと思うのに、足が動かない。満月は、必死になって地面をまさぐる。足が動かないのならば、せめて己を守る道具が必要だった。それなのに、満月の指はどういう訳か滑らかなその表面に弄ばれるかのように、竹刀を掴み取ることが出来ない。つるつると滑っては、指の隙間から逃れていく。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け――!
 念じれば念じるほど、頭は真っ白になっていく。それなのに、闇夜のそれに似て利かないはずだった視界は、鮮やかすぎるほどに、容赦なく己に迫り来る刃を映した。
 ――そこに、小さな影が音一つ立てずに割り込んだ。
「ちょっと、うちの月姫と、計都のために立ち上がった君らのかけがえのない姫君に手を上げるなんて、どういう了見?」
 物と物の激しくぶつかり合う音がして、女たちの持っていた槍が後方に弾き飛んだ。拍子に巻き上がった砂塵が視界を滲ませる。瞬きすることも忘れて、満月は暗がりに目を凝らした。
 満月と京華を守るように人々の前に立ちはだかったのは、腕の辺りの衣を赤く染め上げた玉兎だった。人を殺傷する刃など持たない木刀が、人々を貫くように向けられる。たったそれだけのことだというのに、人々は怯んだように後退した。
 幼く庇護欲を掻き立てるような姿をした玉兎だが、それは仮の姿――彼は輪国の曜命である。玉兎が見せた怒りは片鱗とはいえ、人々を退けるだけの迫力があった。
 凄い、と思うと同時に苦く空虚な思いが満月の胸にせり上がる。
 また助けられてしまった――。
 広がる安堵感と共に、満月は己の無力さを痛感した。誰かを守る力もなければ、己の身を守ることすら今の自分には叶わない。「力」に対し何の術も持たない自分が、ひどく腹正しく情けなかった。
 刃を交えることだって有り得ると漠然とは理解していながら、それに対して全く備えをせずに計都国に乗り込んできた自分が、どれだけ甘ったれた考えの持ち主であったのか気づかされた。満月は、自分の役割は「力」にないと、初めから決めつけていた。
 守るとは、実在する「何か」と対し、その上で己を、思想を、人を、国を守ることだ。
 だというのに――これは、戦ではない。「力」が全てではない。その言葉に、満月はしがみつきすぎていた。「何か」と対するのに必要な「力」を、鑑みることがなかった。
 玉兎や九螢が居なければ、とうに満月はあの世に葬られていただろう。
 不意に、満月の足元で滴が爆ぜた。ただの水滴ではない。反射的に玉兎を見れば、怪我を負ったところから衣で吸い切れなかった血液が、地面にいくつもの斑点をつくり出していた。
「玉兎、血が……!」
 掠れた声で、満月は言った。玉兎はその傷を一瞥しただけで、すぐに満月に向き直る。蒼白な満月の表情とはえらく対照的だ。おまけに、玉兎は何てことはない様子で微笑んで、こう言ってのけた。
「計都姫にはこんな荒っぽいことじゃなくて、他にやることがある。月姫はそれを支えてあげて」
 満月は返事を渋った。
 以前、満月はもっと酷い傷を負った玉兎を目にしたことがある。その時も、玉兎は大丈夫だと言った。そしてそれは、虚勢などではなく全くの真実だった。だから、今度も玉兎にとっては何てことのない傷なのだろう。
 そう分かっていても、玉兎の痛々しい傷を実際に目にしてしまえば、心は簡単に納得してはくれなかった。
「ありがとう」
 さっと立ち上がって、京華が言った。
 京華は、この状況においても自分のやるべきことを見失わなかった。彗鷺を向く強い眼差しがそれを物語っている。
 満月も慌てて京華の後を追う。ちらと振り返ると、玉兎が両手の指では数えきれないほどの人々と相対していた。
「満月」
 躊躇いがちな京華の声が掛かる。玉兎を憂える満月を気遣ってのことだろう。
 その響きが、満月に本来の目的を取り戻させた。
 そうだ。今すべきことを見失ってはならない。
 満月はやっと、九螢と彗鷺の方へ、目を向けた。
 途端、視界に息もつけない攻撃の応酬が飛び込んできた。
 跳躍した銀色の影が、真下の九螢に向かって剣を突き立てた。月光の守りが飛散する。九螢の刀は太刀を受け止めたが、軌道を逸らすに留まった。防ぎきれずに、血飛沫が九螢の肩口から上がる。
「九螢!」
 叫んだ瞬間、九螢の繰り出した一閃が彗鷺の足首を裂いた。ぼたぼたと流れ落ちた血液が、地面に大きな染みをつくる。着地と同時に、平衡を崩した彗鷺は地に崩れ落ちた。
「彗鷺、聞いて! 貴方は蝕に囚われているだけだわ」
「彗鷺! 九螢と戦うのは間違ってる。目を覚まして。私たちの話を聞いて!」
 痛烈なほどに響く幾度もの呼びかけにも、彗鷺は応じない。すぐに体勢を立て直すと、再び金属のぶつかり合う音が虚しく響き始めた。
「彗鷺……」
 やるせない吐息と共に、声はしぼんでいく。
 彗鷺はこちらをちらとも見ない。ただ、邪魔なものを排除し、目的を達成することしか頭にないようだ。
 届かない。届かせられない。彗鷺の心には何一つ。
 追い打ちをかけるように、九螢が傷ついていく。
 どうしたら良いの――。
 絶望感に支配されたように、満月はそこに立ち尽くした。
 そんな中、動いたのは満月の隣にいる少女だった。不意に京華はそれまで握りしめていた長刀を取り落とした。
 満月はぎょっとして、京華を見つめる。
 いくら玉兎が人々を喰い止めているとはいえ、多勢に無勢だ。玉兎の守備範囲から巧みに抜け出した人々は、虎視眈々と京華を狙っているというのに。
「満月、助けてくれる?」
 晴れやかに微笑んだ京華の面差しと、昨日弱音を吐いた少女の姿は全く重ならない。
 己を守るもの一つ身につけない無防備な格好で、京華は人々の作り上げた檻の中を進み始めた。その姿に迷いは一片さえも感じられない。
 白磁の頬を、木製の鍬で殴打されても、京華は一瞬痛みに顔を歪めただけで動じなかった。群衆の中を颯爽と進み、やがて九螢が対峙する彗鷺の目前まで辿り着く。
 満月はその間、僅かにさえ動けなかった。それは、先ほどまで感じていた絶望のせいではなかった。見慣れていたはずの彼女の背中に、強烈な意志が宿っていて、その力に圧倒されていた。
 はっと気がついて、満月は地を蹴った。京華が歩いた道を、人々を退けながら進む。
 目をやった先の九螢もまた、あまりの京華の変貌ぶりに気圧されて、先刻までの満月と同様に立ち尽くしていた。
 そして、その向こうの彗鷺にも変化が見て取れた。薄蒼の瞳に、揺らぎが渦巻いている。
 苦痛に歪んだ顔に、憎悪を塗り込めて、彗鷺は京華に向かって腕を振るった。
 沸き起こったつむじ風が、京華の肌を裂く。
 それでも、京華は進むことをやめなかった。
「あの人を、助けたいの。貴方も、同じでしょう――彗鷺」
 京華は九螢と彗鷺の間に割って入るなり、そう諭すように言った。京華の細く滑らかな指が、彗鷺の頬に伸びる。優しく包み込むような仕草は、敵意を向けられながら出来るものとは到底思えない。彗鷺は、弾かれたように身を震わせた。
 我に返った九螢が、京華を背後に庇おうと腕を伸ばす。反射的に駆け寄った満月が、その腕を掴んだ。非難するように眉を寄せた九螢に、満月はゆっくりと頭を振る。
 京華は、本能的に理解したのだ。今の彗鷺に――そして、計都神に何が必要であるか。いつかの満月が、迷わず九螢に駆け寄ったように。
 満月は唇をきつく結んだまま、京華の背中に一言、頑張れと心の中だけで呼びかけた。太刀を持った相手を前にした友人を放って置くのは、薄情者と罵られても仕方ないかもしれない。
 だがこれは、彗鷺と京華の――計都の曜命と曜子の問題だった。
「彗鷺」
 もう一度、京華が名を呼ぶ。聞いているこっちが泣き出したくなるような、切実な響き。それだけでもう、十分だった。
 彗鷺の虚ろだった瞳に、感情が蘇る。太刀が、音を立てて地面の上を跳ねた。
「ひ、め――?」
 自我を取り戻したばかりのためか覚束ない声が、初めて京華を慈しむように包み込む。
 京華はほんの一時、その言葉を噛みしめるように俯いたが、すぐにその顔を凛然と上向けた。
「その呼び方は、照れくさいからやめてくれると助かるわ」
 あっけらかんと言い放った京華からは、何かを成し遂げたという陶酔は感じられない。彗鷺は暫し茫然としていたが、やがて跪くと、深く頭を垂れた。


BACK | TOP | NEXT