月姫 究竟に灯る夕星[七]



「っ!」
 押し殺された悲鳴に、満月は自然と顔を向けた。
 満月の目の先で、腕を押さえて床に膝を付いたのは晴尋だった。
 曜命が十分に動けない今、九螢と彩章の補助をしながら満月らを守るために立ち回っている晴尋には、相当の負担が掛かっている。
 見れば、晴尋は軽傷ではあったが腕に刺し傷を負っていた。
「晴尋!」
 動けないでいた赤鴉の痛々しい悲鳴が上がる。だが、晴尋の居る所まで駆け寄ることは今の赤鴉には難しいらしく、彼女は酷く苛立たしげに唇を噛んだ。
 代わりに満月が駆け足で晴尋の元に向かう。手早く手巾を晴尋の腕に巻きつけると、すぐにそれは鮮血に染まった。
「すみません」
「ううん、私たちのためにありがとう。無理はしないで」
 満月が早口に言い終えると、晴尋はすぐに立ち上がって、取り囲まれている彩章の援護に向かった。
 月光、日光の守りも、守衛の圧倒的な数の多さに押されて、時折隙が出来てきた。
 このままでは、いつ満月や京華や曜命たちに攻撃が命中するとも分からない。
 誰かが、動けない曜命たちを守る必要があった。
「京華、彗鷺さんをお願い」
「分かってるわ」
 京華の緊迫した声に頷き返すと、満月はすぐさま、床に四肢をついた状態でいる玉兎と赤鴉の肩をまとめて抱きしめた。
 案の定、玉兎も赤鴉も震えていた。見た所、満月のように直接計都から発せられたものではないが、取り巻く陰は弱った曜命の心を砕くには十分すぎる役割を果たしているだろう。
「二人とも、大丈夫。彩章様と、九螢を見て。あんなに強い光が、闇に浚われるはずがない。私たち皆揃えば、恐いものなんかない。でしょう、赤鴉」
 挑発的に赤鴉を見据えれば、彼女は脂汗を浮かべながらも、にっと口角を吊り上げた。
「決まってるわ」
 断言し、赤鴉は怪我を負っている玉兎の背中を遠慮なく叩いた。弾かれたように、玉兎が立ち上がる。
「何すんの赤鴉!」
 涙目になりつつ、玉兎が抗議の声を上げる。
「それだけ動けるなら大丈夫だっつってんのよ。もっとしゃきっとしなさいよ、しゃきっと」
 赤鴉はそれだけ言い終えると、飛び道具を片手に、自信満々な笑みを振り撒きながら次々と守衛を伸してしまった。
 そのまま赤鴉は、ここは任せた、とばかりに手薄になっている後方へ向かってしまった。
「赤鴉が行って、僕が行かない訳にはいかないよね。まったく」
 そう不満げに言う玉兎は、どことなく嬉しそうだ。
「月姫の手は、陰なんて簡単に取り去って、僕たちを温かい気持ちにさせてくれる。ありがとう、おかげでまだ、皆の力になれそうだよ」
 そう言って、玉兎も、赤鴉の加勢に向かった。
 守らなくては、と意気込んでいた満月は拍子抜けするしかない。だが、それでこそ玉兎と赤鴉である。
 京華の方を見れば、同じように彗鷺も太刀を構え、守衛たちと渡り合っていた。
 心に、希望が灯る。だが、その時を見計らったかのように、どす黒い鎌鼬が巻き起こり、日月の守りを突き破って彩章に直撃した。
「くっ……」
 鎌鼬が消えると、倒れた彩章の姿が満月の目に焼きつくようにして映り込んだ。
「彩章様!」
「彩章!」
 いくつもの声がどよめきに重なり合う。
 隙を縫って、守衛の放った矢が、一斉に無防備になった一行に降り注ごうとした。
 九螢が防ごうとするが、いくらかは間に合わず、晴尋などは足に矢傷を負ったようだった。
 満月は幸いにも、衣を貫通するに留まったが、またも吹いてきた鎌鼬に月の淡い光は一瞬にして消し飛んだ。
「盾だ!」
 そう叫んだ九螢の言葉は、明らかに満月に向けられているものだった。
 その意味を理解するや否や、満月は全速力で守衛の方に突っ込んで行った。何事かと計りかねるように、守衛たちが後退する。
 満月は倒れ伏した守衛が持っていた盾を掴んで走り、一番近くに居た京華と彗鷺の身体に被せてやった。自分もどうにかその隙間に身体を押し込める。幾ばくもなく、何本か矢が盾に突き刺さる音が生々しく響いた。
 ひとまずは助かったようだ。
「皆は――!」
 顔を上げると、まず玉兎と赤鴉の姿が目に入った。
 二人とも腕に脚に何本か矢が刺さっていたが、矢を抜きつつこちらに駆け寄って来るあたり、命の危険はないと見て良さそうだった。
「月神さまたちも無事のようよ」
 京華の声につられて、満月もそちらに視線を向ける。
 彩章を庇うように覆い被さった晴尋には、傷が増えた様子はなかった。
 九螢が、咄嗟に広範囲に渡っていた守りを、傷を負った彩章を守るための小規模な強固なものに切り替えたためだった。
 息つく間もなく、鎌鼬の第三陣が襲いかかってきた。
 今度は、九螢より計都神の方が上手であった。
 守りを張り巡らすことも叶わず、直にこちらの陣営を巻き込もうと勢い良く向かって来る。
「下がって」
 意外にも、声を上げたのは京華だった。そう言うと、京華は鎌鼬の方へと進んで足を向けた。
「京華、何言ってるの! 早く逃げて!」
 思わず駆け寄りかけた満月と彗鷺を振り返りもせず、京華が鎌鼬に向かって、両手をかざした。
 鎌鼬が、京華の目の前まで来る。生身の人間に過ぎない京華の身体など、簡単に切り刻まれてしまうだろう。
「姫、早くこちらに!」
 腕を伸ばした彗鷺の手を煩わしげに払い除け、京華は深呼吸をすると、その鎌鼬を迎え撃った。
 京華の手が、鎌鼬に飲み込まれる、かに見えた。
「嘘……鎌鼬が消えて行く……?」
 茫然と呟いたのは玉兎だった。それは半分正解で、半分誤りだと言って良い。
 何故なら鎌鼬は正確には消えたのではなく、京華の身体に取り込まれてしまったのだから。
 満月はそういうことかと気づくと、大股で京華に歩み寄った。
「無事なの?」
 振り向いた京華の顔は明るい。大事はなさそうだ。
 曜子は、己の曜神の蝕を取り除くことが出来る。蝕から生み出された計都の攻撃は、確かに計都姫には効きにくいだろう。
 だがそれだって、無茶のしすぎだ。京華にどんな影響が出るかも分からないのに――。
「馬鹿っ!」
「馬鹿って何よ。言わせて貰えば、満月の無茶に比べれば、こんなの全然ましな方よ」
「わ、私はちゃんと考えて――」
「嘘ね。だいたい何で満月が体を張って私を守って良くて、私は駄目なのよ」
「そういう問題じゃ――」
「お二人とも、そこまでです」
 場もわきまえず始まりかけた口論を、彗鷺が諌める。
「くそ、数が多すぎる」
 九螢が忌々しげに吐き捨てるのが聞こえた。そう言う合間にも、こちらの守りは絶え間ない守衛たちの攻撃により徐々に崩されて行く。
 満月が軽率な行動を取っている間にも、戦況は悪い方に傾いて行っているようだった。
 罪悪感を感じつつ、満月は玉兎たちが守ってくれていたことに礼を述べる。
「月神」
 不意に、後方から硬い声が響いた。
 満月は九螢につられるようにして、その人を振り返る。
「行け。ここは私が喰い止める」
 炎を身に纏った彩章が、立ち止まって静かに言った。身体中に傷を負っている所を見るに、彩章はとてもじゃないがそんなことを言える立場ではないはずだった。九螢の顔が俄かに曇る。
「しかし――」
「この者たちが皆倒れるまで戦っていては埒が明かぬし、その間にも計都神は蝕化を進めるだろう。もしくはこの者たちまで計都神と同時に相手をしていては、必要以上の苦戦を強いられるだろう。ならば、二手に分かれ、一方は駒を進め、一方はこの場にとどまり、民を足止めするまで」
「だが、彩章」
「負傷した私が残り、お前が進むのは当然のこと。いくらこちらが不利な状況とはいえ、これ以上私が遅れを取るとでも? 私を見くびるなよ、月神。それとも私なしには進めぬか? 臆病者め」
 嗤笑する彩章は自信に溢れている。九螢のこめかみに、青筋が浮かんだ。なるほど彩章は、九螢の性格をよく理解している。
 彩章の意をすぐさま読み取ったらしい彩章の腹心たちは、すぐさまその隣に駆け寄って来た。
「心配要りません。私と赤鴉が彩章様のお傍につきますから」
「その代わり、あんたたちしくじったら承知しないわよ」
 続けざまに言われ、九螢はやっと頷いた。九螢も、彩章がわざとあのような態度を取ったことくらい分かっているだろう。物憂げな表情が、それを物語っていた。
 満月は一層気を引き締め、背筋をぴんと伸ばした。
 混乱を極める状況下、武力を持たない満月には出来ることがあまりにも少ない。
 だが、これは勝敗を決するための戦とは訳が違う。自分に出来ることを探して、万事を最小限の被害の下に平定に導くのだ。その中では、満月はいくらか貢献することが出来るかもしれない。
 決して動揺しない。これまでのように、自分の弱さに囚われ、恐怖に己を失うようなことがあってはならない。自分が無力であることなど、とうに分かっていたことだ。その中で、全力を出し切るまで。
 扉の向こう側では、日の加護を受けることは出来ない。月と、計都の二人が居るのみだ。九螢は、これまで以上に辛い戦いを強いられることになるだろう。
 だから、落ち着いて解決の糸口を引き寄せるのは自分の役目だ。
「九螢」
 満月は、躊躇いがちに、けれど強い思いと共に九螢の背中の衣を握った。
 色々な思いが溢れすぎて、握ってみたは良いものの、言葉が見つからない。だが、九螢は満月に何の言葉も求めることはなかった。
「案ずるな。必ず守る。だが、傍に居てくれるか?」
 思いのほか優しい声に、瞼の裏が熱くなる。
「離れる訳ない。九螢が来るなって言ったって、絶対一緒に居る」
 満月の力は、九螢から昏い陰を跳ね退ける。だが、その力を差し引いたとしても、満月の意志が揺らぐことはなかっただろう。
 そっと頭に置かれた手から、優しい熱が身体の隅々まで行き渡っていく。
 この人を失いたくないと、強く思った。
 あまりに自分は無力で曜子としても半人前だ。だけど、絶対にこの人を守る。守りたい。
 一斉に飛来してきた矢を炎で燃やし尽くし、彩章が人々の間に割れ目をつくった。炎を避けるようにして開かれた道を、九螢に続いて、満月は一歩一歩踏みしめるように進んだ。


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