月姫 究竟に灯る夕星[八]



 咽返るような混濁した陰の匂いというものを、満月は初めて嗅いだように思う。あの向こうには、きっととてつもなく強大な力を持った「彼」が待ち受けている。
「京華」
 蒼白な顔で立ち尽くす京華と手を取り合う。隠しきれない指先の震えも、真摯に真っ直ぐに伸ばされた視線から見える覚悟の強さも、全てに覚えがある。
 九螢が自ら進んで蝕になろうとしていたあの時、満月は彼を救うために必死だった。あれほどまでに重苦しい闇が、この世に存在するのかと思ったものだ。しかし今、人々の築いた壁によって閉ざされていても尚、侵食してくるこの陰は、それとは桁違いに色濃くどろどろと精神を這いずり回る。
 最奥の間は、巨大で相当分厚そうな扉によって閉ざされていたが、九螢が手をかざしただけで、押し開かれた。
 満月は息を詰め、その場に足を踏み入れた。真っ暗闇に視界が閉ざされて、何も見えない。
 だが、そこに誰が居るのかは、目を閉じていても耳を塞いでいても分かったに違いない。繋ぎ直した京華の手は汗ばんでいる。気持ちを落ち着かせようと、満月は小さく息を吸い込んだ。その甲斐も虚しく、毒に冒されたかのように身体中が重たく強張り、心が否応なく食い潰される感覚は一向に消えてはくれない。
「使えねぇなあ」
 唐突に響いた第一声に、満月は鋭く視線を向けた。
「侵入者は一人も殺せず、挙句の果てには裏切ったか? なあ、彗鷺」
 鼓膜を執拗になぞるような粘着質な声音が、昏い笑い声をたてる。京華の手のひらが、俄然強く満月の手を握りしめた。
「責める相手を間違うな」
 曇りのない九螢の声が、計都神を一刀両断する。九螢が彗鷺を庇うように前に進み出たのが、微かな物音だけだったが感じ取れた。
「貴様もいい加減、目を覚ませ」
 九螢が続けてそう口にしたと同時に、辺りを包んでいた闇が和らいだ。満月が仰いだ天井に、薄青い月の光が煌めいている。強張っていた全身が、自然と弛緩していった。
 人影は、玉座にあった。恐らくは長身の――若い男。けれども明々と降り注ぐ光が、計都神の翳った表情を照らし出すことは叶わなかった。
「十年か二十年そこそこを生きただけの若造が、俺に指図するとはな」
 くっと笑みを噛み殺し、計都神は腕を九螢に向かって振り上げた。たちまち、守護の呪が破られ、鎌鼬が九螢の肌を切り裂く。九螢の顔が苦痛に歪んだ。
 腹の底からせり上がってきた満月の悲鳴は、すんでの所で押し殺された。
「計都姫。俺のためを思って来てくれたんだろう? だったら、今すぐ果てろ。俺の望みは、お前の死だ」
 関心を京華に移したらしい計都神は、妙に甘ったるく粘つく声で京華にそう命じた。京華が怯んだように、一歩後退る。
「惑わされないで」
 満月は小声で、けれども強い口調で言い放った。
「分かってるわ。満月、手を離して。大丈夫だから」
 知らず力強く握り締めていた京華の手のひらが、振りほどかれる。京華は言うなり、彗鷺と共に数歩、歩を進めた。
 意外といった様子で、興味深げに計都神の頤が持ち上がって、彼の容貌が露わになる。けれども、京華を捉えた昏く淀んだ藍色の瞳からは、何の色も読み取ることができなかった。
「偽りの言葉なんか要らない。本当の声を聞かせて」
 挑むように言った京華の半歩前に、彗鷺が進み出た。京華を守るように、片腕が水平に伸ばされる。
「本当の声?」
 嗤う声が、不気味に暗い部屋に響く。一段と闇が濃くなった。京華の身体が、耐え切れず傾ぐ。その肩を、彗鷺がどうにか抱きとめた。
「笑わせる。俺に何を求めてやって来たんだか知らないが、お前の望む男は、もうどこにも居ないんだよ」
 嘲笑が木霊する度に、空気が重く淀んでいく。唇を噛み締めて立つ京華は、限界が近いに違いなかった。
「我が君、貴方の心根がそう簡単に喰い滅ぼされるはずがございません。どうか――」
 そう続けようとした彗鷺の元に、鈍く光る闇色の閃光が走った。その瞬間、彗鷺の身体が忽然と消えた――かのように見えた。
 満月の背後で、激しく何かが叩きつけられる音が響いた。振り返って、満月は息を呑む。大扉に叩きつけられていたのは、先刻まで正面に立っていた彗鷺だった。
「彗鷺!」
 支えを失った京華は、それでもよろめきながら彗鷺に駆け寄った。その身体を玉兎が代わりに支える。
 一度や二度の呼びかけで自我を取り戻せるのならば、曜神が蝕になど身体を乗っ取られるはずがない。今更ながらにそのことに気づいて、満月は唇を噛んだ。
「計都神、まだ引き返せます。思い出してください。貴方は、民を守るためにこんな……」
 計都が蝕化してしまった事情の詳細は知るはずもない。だが、蝕化は禍を取り除くために自らの身体を酷使した曜神に起こる現象だ。彗鷺が言うように、京華が救いを求められたように、計都神の真の志はこんな風に人を傷つけるためのものではないはずであった。
「だから、俺はお前たちの言う計都神とやらじゃないと言っているだろう? 分かったら少し黙れよ」
 底冷えするような殺気に、満月の肌は粟立った。それ以上は何も言えず、せめて後退せずにその場に棒のように突っ立っているのが精一杯だった。
「それは違うな」
 満月の代わりに言い返したのは九螢だった。
「お前はまだ、迷っている。暗がりの中で、出口……を失く、しただけ……だ」
 そう言った九螢の様子がおかしいことに満月は気づいた。呼吸に合わせて上下する肩の動きが、やけに大きい。それに、暑いどころか寒いくらいなのに、額に大粒の汗を浮かせている。心なしか、指先も震えているような気がした。
「九、螢……?」
 嫌な予感がした。
 呟いて間もないうちに、九螢の身体を陰が取り巻いていく。
「月神様!」
「な――! 九螢、九螢! どうしたの」
 玉兎と満月の問いかけにも、九螢は全く応じない。虚ろな瞳には何も映ってはいないようだった。その様子に少なからず覚えのある満月は、九螢の腕に縋りついて、何度も何度もその名を呼んだ。しかし、返事はおろか、九螢は自分を失ってしまったかのようにその場を動かない。
 目を見開いた満月の耳に、計都神の嗤笑が飛び込んできた。
「先程攻撃した際に、呪印を刻ませてもらった。その若造はしばらく使い物にはなるまい。さて……計都姫を始末するか」
 不穏な言葉に、ぼろぼろの彗鷺が立ち上がって京華を庇う。
「呪印って……貴方、九螢に何をしたの?」
 満月は、先程までの恐れなどすっかり忘れて、満月は計都神を睨みつけた。九螢の前に立ち塞がった満月の元へ、玉兎が滑り寄って来る。
「今すぐ、月神様に刻んだ呪印を解いて」
 噛みつかんばかりの勢いで、玉兎が木刀を計都神に向けた。心なしか、玉兎の身体が淡い光を放っているように思える。下手をしたら、屋内であるにも関わらず、玉兎が転化しかねない。いくら広い部屋といっても、火の鳥が暴れれば、大惨事は免れないだろう。
「そう慌てるな。元々その若造にはこの呪印に屈しうる素質があったと思うのだがな」
 計都神の囁きに、満月と玉兎の指先がぴくりと反応する。計都神に九螢が以前蝕になりかけたことを指摘されたのだと、満月も玉兎も気がついていた。
「なあ、月神……と言ったか?」
 不意に、計都神が九螢を呼んだ。満月や玉兎の叫びにも何の反応も返さなかった九螢の頤が、僅かに持ち上がる。
「お仲間になれそうじゃないか。俺も、お前も。全てをなげうって身体を酷使した挙げ句に、周囲から疎まれる。愚かな民に罵られ、それでもそんな者たちのために己を差し出し、蝕まれていく。いい加減に目を覚ませよ。俺たち曜神は国も民も……九曜国さえも、いくらでも自由にできる力を持ちながら、虫けらどもの言い分に従って、ちっぽけな国一つに縛られている。まったく、馬鹿げた話だと思わないか?」
 それはまるで甘美な誘惑のように、九螢の眼前に差し出された。
 音もなく、計都神がすり寄って来る。禍々しい気配を帯びながら、それでいてその足取りは羽根のように軽い。
 九螢の前に立ちはだかった満月と玉兎の存在など、まるで無視して、計都神は九螢の肩に手を掛けた。
「そこの小娘も子兎も、お前のことを何もかも分かったような顔をしてやがるが、実際お前がどうして俺の言葉に耳を貸すかなんてことは分かっちゃいないんだよ。結局、お前は曜神としての力を貪られているだけだ。そんな奴らと、いつまでつるんでいる?」
 なあ、と計都神は九螢の耳元で低く囁く。
 違う、と反駁しかけたところで、満月は九螢の表情を捉えて凍りついた。
 計都神から逃れようと身じろいだ九螢の瞳が、大きく見開かれ、揺れていた。満月と玉兎に向けられた九螢の顔は、酷く傷ついた幼子の様相を呈している。あんな表情の九螢を、満月は未だかつて見たことがなかった。それは玉兎にも共通のようで、彼もまた言葉もなく九螢を見つめている。
 満月はぎゅっと拳を握りしめた。
 計都神の言っていることが全部、正しいわけではない。九螢だって、それはちゃんと分かっている。けれど、計都神の言っていることが、九螢の心の琴線に触れてしまったのもまた事実なのだ。奥底に沈んでいたはずの感情が今、九螢の中で爆発してしまった。そういうことだろう。
 今、満月が下手なことを言っても、余計に九螢を傷つけるだけに違いない。
 満月は押し黙って、九螢の顔をじっと見つめた。
 こんなにも、九螢を追い詰めるものは何だろう。満月とて、九螢の全てを理解しているだなんて大それたことを言うつもりは毛頭ない。だが、今になってしゃしゃり出て来た計都神に満月や玉兎と九螢の関係を決めつけられるのは癪だった。
 ゆるゆると、満月は思考の波に浚われていく。
 月神――至高の存在であり、絶対神であるとされる曜神。同時に、決して絶対などではなく、悲しみ、怒り、笑う人間である九螢。
 生まれて間もないうちに母である珱希を失い、父である明螢とは一目会うことさえ叶わず今生の別れとなった。愚神と蔑まれ、同志であるはずの日からは幾度となく攻撃され、何度訴えても、理解者らしい理解者を得られることはなかった。玉兎や環とも、主従関係であるが故の深い溝があった。
 九螢は、いつだって、独りだった。
 曜神と曜子として出会った満月にも、つい最近までは頑なに本心を見せることを拒んだ。
 一度は、全てに絶望し、自ら蝕となることさえ、選んだ。
 それでいて、人を憎みきることができない。何があっても民のことを第一に考え、自身を殺そうとしてきた彩章をも簡単に赦せるほどに。
 何より、それは九螢の蝕化を止めた日に、寸前の所で命を取り留めることとなった満月が痛感している。
 人一倍、人が好きで、人一倍、不器用で、遠回りに優しくて。不器用なりに愛することは上手なくせに、愛され方は知らなかった。
 だから――。
「不安、なの?」
 ぽつり、と漏らした満月の言葉に、今度こそ九螢は微かに目をやった。
「まだ独りだって、そう思うの? 九螢」
 水面に弾けた滴のように、穏やかで率直な問いだった。視線を縫い止められたかのように満月を注視してくる九螢の隣で、計都神が奇妙なものを見るような目つきで満月を見つめた。
「それって……ちょっと酷いよ」
 真っ直ぐに九螢だけを見つめて、満月はそう言い放った。
「ちゃんと、周りを見渡してみてよ。私も玉兎も、環も孤鈴も九尾亭の皆も、商店街の皆も、欠片を届けに来てくれた人達も、分かりにくいけど帛鳴様も日神様も赤鴉も晴さんも、皆! 九螢のことが好きだよ。それなのに九螢が自分のことを独りだとか、誰もいないとか思うのは、勝手だよ!」
 きつく握り締めすぎて、爪の喰い込んだ手のひらが麻痺してきた。もう痛くなどないのに、はらりと涙がこぼれ落ちる。
 まだ己の中を彷徨っている九螢に、尚も満月は言い募る。
「私は、月神様だから貴方を好きになったんじゃない! 貴方が曜神だからとか、曜神の力が必要だからとか、そんなんじゃない。貴方が、九螢だったから、こんなにも好きになった。不器用で優しくて、いっつも輪国のことしか考えてなくて。そんな九螢だから、傍に居たいと思った。私なんか何の力も持たなくて、いつもいつも助けられるばっかりだけど、少しでも九螢を支えられたらって思った! 疑わないでよ。私が九螢のことを好きだって気持ち……疑わないで」
 おぼろげだった九螢の瞳に光が戻る。少し困ったように口元を緩ませた九螢は、吸い寄せられるように満月と玉兎の元に戻ってきた。
 すまない、といつものようにぶっきらぼうに一言だけ言って、満月と玉兎の前に立つ。その背中が、涙で滲んでしまってよく見えない。
「計都。俺の民はお前の言うような虫けらどもなどではないし、俺はちっぽけな輪国の曜神であれて、心から……嬉しい、と思う。俺のような未熟でどうしようもない曜神を慕ってくれる民や、どんな時でもこうして傍で支えてくれる曜命や曜子が居る。俺は、これからもきっと、何度も迷うだろう。だが、何度迷ってもこいつらと共に在ることを選びたい。だから――お前の意には添えない」
 はっきりと告げられた計都神は、しばしの間、呆然と九螢を見つめていたが、やがて諦めたように昏い笑みをこぼした。それはまるで、傷ついた心を隠すような不格好なもので、満月ははっと目を見開いた。


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