月姫 究竟に灯る夕星[九]



「くだらない、感傷だな」
 計都神が乱暴にほつれた金色の前髪を掻き上げる。その声から、哀しみと淋しさを読み取って、満月は九螢の隣へと歩み出た。
「計都神。貴方にも、貴方を思っている人たちが居ることを忘れないで」
 その囁きと共に、後方から足音が近づいて来る。京華と彗鷺だった。
「我が君。どうか、目を覚ましてください」
「計都――話を聞いて」
 一心に計都神へと向かう気持ちは、満月や玉兎のそれと何ら変わらない。
「黙れ」
 刃のように放たれた言葉と共に、鎌鼬が唸りを上げる。それは、九螢の月の光によって誰を傷つけることもなく消失した。
 計都神を取り巻いていた陰が、月の清明とした光に押されていくのが分かる。
「もう一度、やり直せるわ。私と彗鷺と貴方の三人で」
「黙れ! 黙れよ」
 差し伸べられた京華の手のひらに、計都神は一瞥もくれなかった。否、むしろ意図的にその手を視界に入れることを拒んでいるような。
 何かに怯えたように、計都は両の手のひらで己の頭を抱え込んで小刻みに震えていた。
 そんな尋常ではない様子の主に、そっと彗鷺が歩み寄る。
「我が君、僕は何度だって民に真実を話しましょう。民が全員納得してくれるその日まで。今回の件も、何度だって民草に頭を垂れましょう。荒廃した街を元通りにしてみせましょう。僕は、我が君がもう一度曜神として玉座に着かれたならば、貴方が望むことを望むままに為すために、この命を懸けましょう」
「……真実?」
 彗鷺の言葉にいち早く反応したのは玉兎だった。満月と九螢も、自然と彗鷺を凝視してしまう。
 周囲の注目を一身に集めた彗鷺は、泣き顔とも笑みともつかない表情で計都神を一瞥すると、ぽつぽつと昔語りを始めた。
「我が君が先代計都神に代わって即位なさったのは五年ほど前のことでした。先代計都神は聡明で誇り高く、身寄りのない孤児や病に伏した民草をも思いやり、孤児院を設立したり、優れた医師に医療所を賜るなど、これまで何事も曜神の力に頼りきりであった我が国にとって革新的な治世を敷き、民草からとても人望を得たお方でした。その先代計都神が体調を崩されてからは我が君に玉座を譲られ、我が君も即位して一年ほどの間は、それほど大きな問題もなく国を治めていらっしゃいました。しかし、床に臥せっておられた先代様が突然――」
 そこで苦しげに彗鷺は言葉を切る。不意に、ガツッと大地を割るような荒々しい物音が聞こえた。見れば、計都神が腰に帯びていた剣が、床に深く巨大な亀裂を入れている。
「黙れ」
 ピシピシ、と亀裂が満月たちの方へと迫って来る。先の句を続けようとしていた彗鷺は、思わず口を噤んだ。
 俯いた計都神を守るかのように、昏い陰が鎖でがんじがらめにするように彼の肢体に巻きついていく。
 あれが、蝕なのだ。国のために命を削って禍を取り込み、絶望に身を落とした曜神が行き着くもの。もう、傷つかなくて済むように。もう、哀しまなくて済むように。もう、涙しなくて済むように。己の心が何も感じなくて済むように、曜神は蝕の鎧を纏うのだ。
「計都!」
 たった一人、京華だけが地割れも物ともせずに計都神が立ち尽くす方へと駆け寄っていく。
「来るなアァ!」
 猛る獣の咆哮にも似た叫びと共に、鎌鼬が荒れ狂う。しかし、それが京華の肌を傷つけることはなかった。
「何が、そんなに痛いの? 苦しい、の?」
 京華は、計都神まで一歩分の距離を残して立ち止まって言った。触れるのを躊躇って、僅かに逡巡したのは、嫌悪からではなく戸惑いからであった。京華は、人の心の機微にとても敏感だ。特に、自分へ向かう否定的な感情に。それ故に、己がどこまで他者に踏み込んで良いのか、距離を測らずにはいられなくなる。
 だが、ここでは京華一人が唯一の計都姫だ。たった一人、計都神を救いうる人物。
 ――満月がくれた暖かな思いを、私もこの人にあげられたら良い。それができないのならせめて、この人が背負っているものを半分だけでも背負えるように。
 京華は、毅然と上向いた。
 初めて、計都神の瞳とかち合う。
 愛情や優しさや幸福を失くした瞳。京華は、この瞳を知っていた。知っているからこそ、変えられると信じた。
 背中に、突き刺さるような視線を京華は感じた。どこまでも京華を信頼しきって、全てを見逃すまいと真っ直ぐに向けられた視線――彼女が見ている手前、自分は下手を打つ訳にはいかない。
「黙れェ!」
 再び、鎌鼬が京華に襲いかかる。満月はただ、京華の後ろ姿を見つめ続けた。たとえ傷つかないからと言って恐怖しないわけがないであろうに、京華は決して怯えた様子を見せなかった。
「貴方は、寂しかっただけだわ。ずっと一人で――いいえ、彗鷺やこの国の民は確かに居た。けれど、力を使い果たして、疲れ果てて、周りが見えなくなってしまっていたのね。蝕になって、民の心は離れていく。彗鷺も反発しかしない。無理やり力で従えても、心だけはどうしても通ってこない。だから、そんな時に現れた似た境遇を持った月神様に、惹かれたんでしょう? 一人ではないと、安心したかったんでしょう?」
 京華の言葉は、小波さえ立てない穏やかな流水のように響いた。
「何を――」
 陰が揺らぐ。
 京華が最後の一歩を詰めて、彼女よりずっと大きな身体を、壊れ物を抱くようにして抱き寄せた。
 計都神が逃れようと身を捩った。京華の腕にぐっと力が入る。
「大丈夫。これからは私が一緒に居るわ」
 大丈夫、大丈夫と京華は幼子をあやす手つきで計都神の背中を撫でる。
「お前が居ようと! 彗鷺が居ようと! もう取り返しなどつくはずがない! 俺は……ッ」
 計都神の声が掠れる。彗鷺が握り拳を震わせて、何かに耐えているのが満月の視界に見て取れた。
「俺は――父を殺した」
 すう、と空間が冷えて行く音さえ聞こえたような気がした。息を呑んだのは、満月たち月の三人だけだった。
 京華は、計都神をあやす手を止めない。
「父は、段々と狂っていってしまった。あんなに民のことだけを考えていた父だったのに、殺戮者のようになってしまった。初めに殺されたのは、俺の母だった。次に計都宮に仕官する者たちが犠牲になった。このままでは下界の民まで殺される――そう思って、俺は父を――殺した」
 計都神が己の頭を抱え込む。アアァァ、と血を吐くような全てを呪う呪詛が玉座の間を満たす。
 頭が割れそうに痛い。身体も心も絞め上げられる絶望の唄は、陰となって京華を飲み込んでいく。
「姫!」
 彗鷺の張り裂けそうな叫びに、京華は少しだけ振り返って微笑んでみせた。
「父に心酔していた民は、どうして先代を殺したのだと俺をなじった。何度説明しても、結果は同じだった。父が死んでから一向に増えて行く禍の数と不穏な空気に、民の心はどんどん離れて行った。そうしている内に――今度は俺自身にも変化が起こり始めた」
「……蝕」
 九螢が、低く呟く。
 そうして、計都神は蝕となったのだ。母を父の手によって亡き者とされ、敬愛していた父を殺し、民に理解されず、増加する禍を取り込んで身体を蝕まれて。
「こんな曜神が、どうやってやり直す? ただ一人の民にも信じられていない俺が……! 父を殺し、国を荒廃させ、何万の民をも病や禍で死に追いやったこの俺が――!」
「それなら、貴方はそうして自分の過ちを嘆き続けていくの? 明日も明後日もこれからずっと、自分の心を守りたいがために蝕の鎧を纏って――救えるかもしれない命を諦めるの? この国には、貴方一人しか曜神は居ないのに!」
 京華は、どん、と計都神を突き放した。その瞬間、計都神の腕が、暗闇の中の一筋の光を掴もうとでもするかのように、京華に追い縋ろうと伸ばされたのを満月は見た。
 京華は、それでも躊躇することなく計都神に冷たい刃を向ける。
「私、力を持っていながらそれを使わない人って嫌いよ。貴方には、何十万もの人々を掬い上げる腕がある。貴方の力は決して過去は変えられないけれど、このまま滅びて行く国の未来を変えうる力がある。現実から逃げて閉じこもって嘆いている暇があったら、さっさとその玉座に登って貴方にできることを全うしなさい」
 満月は、それを理不尽だとは思わなかった。計都神の絶望は想像を絶するものだ。満月が計都神の立場だったら、真っ先に蝕へとその姿を変えただろう。人は、そんなに強くはいられない。けれど、京華がああして慰めを言うこともなく、ただ現実に立ち向かうことを要求するのは、何より彼女が計都を信じているからだ。計都神が、その現実に向き合い、過去を乗り越えうるに足る人物であるとわかっているからだ。
 陰が弱まる。月の光に交じって、純白の輝きが、射した。あれが、計都本来の曜の光だとすぐに分かった。気持ちの良い風が、陰を押し流すように吹き抜けてゆく。
 背後で大扉が開いて、彩章たちが転がり込んで来たのだった。言うまでもなく、三人とも無事である。
 三色の光が、玉座の間を煌々と照らし出す。全てを常闇へと変容させる絶望と終焉の象徴が今、完全に消え去った。
 ゆらりと計都神の身体が傾ぐ。どう、という鈍く重い音と共に、計都神の身体が床に打ちつけられた。
「今上様!」
「ちょ、ちょっと!」
 彗鷺の悲鳴に僅かに遅れて、流石の京華も慌てた様子で計都神に駆け寄る。満月たちも、ぎょっとした顔を見合わせると、倒れ込んだ計都神を取り囲んではらはらと右往左往した。
「そう騒ぐ、な。だい、じょうぶ……だ。蝕とやらによって無理やり保たせていた身体からそれが全部抜け落ちて、一時的に……不安定になっている。休んでいれば――じきに良くなる、だろ」
 計都神は座り込んだ京華の膝を枕に仰向けに横になると、長い溜息を吐いた。
 土気色の顔には、疲労の色が濃い。
 本当は今すぐにでも計都神には今回の件の後処理に動いて欲しいところだが、この様子を見るに、休養を取るのが先決かもしれなかった。
「それ……にしても――」
 苦しげに計都神は口を開いた。そうまでして言いたいことがあるのかと、満月は耳を澄ませる。が、次いで聞こえて来た言葉に、満月は我が耳を疑った。
「お前、相当のべっぴんだな。何つーじゃじゃ馬が乗り込んで来たのかと思ったが……こりゃあ良い」
 にぃっと口角を上げると、幽鬼じみていた計都神の顔が、ぐんと若返った。金髪と青金石のごとき瞳という派手な容貌も相まって、満月は思わず小さな頃夢見ていた王子像はこんな感じだったなと遠い目をした。しかし、口調と態度が粗忽なせいで、どう贔屓目に見ても計都神は王子などという単語とは結びつかない――勿論、彼は王子様などではなく神様な訳だけれど。
 告げられた当の本人である京華のこめかみに青筋が浮かぶ。
 満月はこの時初めて、九螢と二人していつも苦労を掛けている玉兎の気持ちが分かったようなそんな気がした。
「無駄口叩いている暇があったらさっさと立ち上がって仕事しなさい! 輪国からわざわざ出向いてくださった月神様たちに申し訳が立たないわ!」
「冷てぇな……まあ良い。分かってる。これ以上、一つの命も失わせやしねぇ」
 存外に低く轟いた計都神の言葉に、呆れ始めていた一同が再び居直した。
 計都神は少し顔を歪めながらも立ち上がると、九螢から順に日月の面々を見渡した。
「あんたたちに言わなきゃならない礼も謝罪も、積もる話も山ほどあるが、俺にはまだやらなきゃならねぇことも山ほどある。本当は手厚くご接待なんぞしなければならない所でこんなことを頼むのは申し訳ないが、もう少しばかり俺の国に助力願えるだろうか」
 計都神は立礼すると、頼む、と更に付け加えた。彗鷺と京華もまた、その後ろでどうかお願いしますと頭を垂れた。
 満月は、すっかり計都神と彗鷺とに馴染んでしまった京華を、眩しいような寂しいような気持ちで微笑んで見つめる。
「勿論だ」
 言ってちらりと視線を寄越した九螢に、満月は玉兎と二人、頷き返す。
「頼まれるまでもない。この状況とそなたらを認めながら接待を要求するなど、笑止」
 嗤った彩章に、同じような笑みで晴尋と赤鴉が同意する。
「こりゃあ心強いな、彗鷺」
「ええ、僕たちはどうやら曜回りに恵まれたらしい――我が君、どうかご指示を」
 計都神は鷹揚に頷くと、深く息を吸い込んで玉座を見上げた。陰が消え去って光の差し込んだそこは、よくよく見れば赤黒い何かが付着している。満月は不審に思ってそこから目線を下ろすと、玉座の間の床や壁や柱を見渡した。点々と飛び散ったようなものや、べったりと広範囲に及んだものなど違いこそあるが、そこかしこを赤く染め上げているのは血痕だろう。乾いてかなり薄れているから、最近できたものではないとわかる。
 これは――血塗られた四年前の惨劇の記憶だろう。
 満月は、そっと計都神に視線を戻した。その右腕が、小刻みに震えている。震えを抑えつけようと伸ばした左手までもが、同調したように震え出す。
「……ハッ。ざまーねぇな」
 吐き出した息までもが、弱々しい。
「足まで竦んできやがった」
 言って、計都神はきつく唇を噛む。
「……我が君……」
 掛ける言葉もないといった様子で、彗鷺が計都神を気遣わしげに見つめる。その彗鷺の腕を、京華が強引に引いてすたすたと計都神の眼前まで歩いて行った。
「貴方のこれまでもこれからも全部、私と彗鷺が一緒に背負ってあげる。楽しいことも、辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、貴方が感じるもの、触れるもの、見るもの、聞くもの、全てを共有してあげる。分かったら、さっさと歩く。私は貴方の手を引いてあげるほど、優しくないわ」
 最後に不敵に笑って、京華は彗鷺の腕を掴んだまま脇に控えた。
 計都神は数秒呆けたようにその場に立ち止まっていたが、やがて京華の方を見て同じように不敵に笑った。
「計都姫。否……京華、と言ったか」
「何よ」
 京華はやっと彗鷺の腕を離すと、自らの腕を組んで少し胸を反らして臆することなく応える。
 計都神は、しげしげと京華の整った顔を見つめていたが、前触れなくその頤をくいっと持ち上げた。
「言った通り、俺はろくでもねぇ曜神だ。過去は血に塗れてる。肉親は殺し、蝕にも成り果て――民の信頼もない。国土には病が蔓延し、禍が巣食っている。お前のような若い娘がこの地で曜子なんぞを務めるのは相当酷だ。蝕が消え去ったとはいえ、これからお前が危険に晒されることだっていくらでもあるだろう。それでもお前は……俺の隣を選ぶか?」
「貴方、さっきから何を聞いていたの? 聞かれるまでもないわ」
 傲然と答えた京華の横顔は、見惚れるほどに美しかった。
「俺の全て、お前にくれてやる。そこを、動くなよ」
 計都は手早く京華の後頭部に腕を回して細い身体を引き寄せると、己の唇を彼女のそれに押し当てた。凍りついた空気の中、陽気な笑みを見せているのは計都神一人のみだ。
「え」
 満月と玉兎の声が同時に響く。
 僅かに遅れて、細い溜息を吐きながら彗鷺が額に手をやって項垂れた。
 そのまま計都神は京華を抱きかかえる。俗に言う、姫抱きというやつだ。茫然自失としている京華は、されるがままになっている。
 やがて歩き出すと、京華がはっと己を取り戻して思い切り計都神を睨み上げた。
「放しなさいよ。貴方何考えてるわけ?」
「お前が手を引いてくれないのなら、俺から連れて行くまでと思ってな。お前が居ると心が安らぐ」
「そうじゃなくて何でキス――」
「きす?」
 計都神は首を傾げながら、大して気に留めた様子もなく、床から二段ほど高くなった所にある玉座へと進んで行く。
 何の躊躇いもなく、計都神は玉座にすとんと腰を下ろした。次いで、彗鷺が計都神の前に埃の被った盤を置く。計都国全土が描かれたその盤には、まだ濃い陰が至る所に渦巻いていた。
「さて」
 そう言って、計都神は陰が蠢く盤を睨みつける。
 九螢と彩章が顔を見合わせて、尊大に口の端をつり上げた。
「大掃除の始まりだ」


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