月姫 逃げ水の呼び声[二]



 間もなく計都宮の大広間で開かれる宴は、まだ国内に多くの問題を抱えていることもあって慎ましやかに行われることになりそうだった。宴と言っても特に何か出し物があるわけではなく、ただ日月と計都の要人たちが一堂に会して、食事を取る儀礼的なものである。
 それでも満月たちにとっては久々のご馳走だ。化粧を施され、綺麗な着物に袖を通したこともあってか、心が浮き立つ。満月はやっと自分が解放感に包まれていることを自覚した。計都国も輪国も、これで全てが万事解決したというわけでは勿論ないが、仲間とくだらないことではしゃげるくらいには、心に余裕が生まれている。確かに、京華の言うとおり、計都神の心配りはこれまで気苦労の絶えなかった身体にはこれ以上ないほど心地よく沁み入った。
 満月は給仕をする計都の精以外、誰の姿もない大広間に突っ立って、少し早く来すぎたかと辺りを見回す。
 焼けた魚の芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。そういえば腹が減っていたのだと、今更ながらに満月は気づいた。
 食欲をそそる匂いにつられて、食べ物に手を出したくなるのをぐっと堪える。
「月姫!」
 顔を上げて声の発生源を探すと、玉兎が駆け寄って来るところだった。
「玉兎、はしゃぎすぎ。埃が立つよ」
 満月はそう言って諌めるが、玉兎の気持ちは分からないでもなかった。
「ごめん。だけど月姫があんまり綺麗だから、嬉しくなっちゃって」
 可愛いことを言ってくれる玉兎も、泥に塗れていた身体を洗ったのか、美しい白い毛並みがつやつやと輝いている。衣服も新調されて、いつも薄めの色を好んで着用する玉兎にしては珍しく、濃藍の水干姿という出で立ちだ。
「玉兎もいつもより格好良く見えるよ」
「いつもよりって……酷いな月姫」
「ごめんごめん。だって玉兎、格好良いって言うか、可愛いんだもん」
「あ、あんまり嬉しくないかも、それ」
 そんな満月と玉兎のやり取りに、鈴を転がしたような、耳に心地よい笑いが割って入る。
 肩の辺りで切り揃えられた蜂蜜色の髪に、瞳の色と同じ朱色の蝶の飾りが揺れている。菜の花色の女の子らしい汗衫には、桃色の花模様が愛らしく散っていた。
「な、何だよ、赤鴉」
 赤鴉のめかし込んだ姿にあからさまに動揺している玉兎は、やはり可愛いと形容するのが正しいような気がする。
「いつまでも、そんなお人形みたいな仮の姿を取っているから、そんな風に言われちゃうのよ」
「赤鴉だって、その年齢詐称してる仮の姿はやめた方が良いんじゃない」
 玉兎や赤鴉のような曜命は、転化した姿が本来の姿であり、普段取っている姿は自由に応用の利く仮の姿である。優美な青年の仮の姿を取っている彗鷺に触発されたのか、玉兎は満月と行動を共にしたこの半月の間、仮の姿を変えようかななどと終始呟いていた。しかし、いくら中身は玉兎とはいえ、そんな見目麗しい青年と一日中行動を共にするなど、満月にしてみればかなりの覚悟を要する。満月の反対を渋々受け入れた玉兎であるが、やはりまだ未練はあるようだ。
「あんたね! 年齢詐称とかおばあちゃんとかうるさいのよ! 言っとくけど、あたしは彗鷺よりはずっと若いんだからね」
「否、おばあちゃんは今は言ってないんだけど……」
「はいはい、痴話喧嘩なら外でやってくださいね」
 そう言って仲裁に入ったのは晴尋だった。小豆色で染め上げられた衣に、金の唐草模様が入った控えめな狩衣姿ではあったが、落ち着いた雰囲気の晴尋にはよく似合う。
「誰が痴話喧嘩なんて……!」
 そう怒鳴った玉兎と赤鴉の声が、見事なまでにはもっていて、満月は思わず噴き出した。
「満月さんはそういう姿をしているとますます可愛らしいですね」
「お世辞は良いから、晴さんは日神様のエスコートでもしてあげて。物凄い綺麗だから、きっと驚くよ」
「……心外ですね。私はお世辞なんて言いませんよ」
「はいはい。晴さんの軽口にはもう慣れました」
 つまらないですね、などと呟く晴尋は放っておいて、満月は人の気配を感じて大広間の入り口を振り向いた。
 居心地悪そうにしかめっ面をして宴会会場に入ってきたのはやはり、彩章だった。
 常に下ろされている紅蓮の髪は、頭の天辺でまとめられ、白い項が覗いている。通常の着物より少し大きく肩と背中の開いた意匠は珍しい。桐竹鳳凰の文様を織り込んだ彩章の瞳に合わせた花緑青の表着は、仰々しいほどであり、並の人間であったら到底着こなせるはずがない。しかし、彩章にかかれば、それさえ引き立て役にしてしまえる。においたつような色香は、彩章だからこそ為せる業だ。
 隣の晴尋が一瞬だけ目を見張ったのが分かる。いつもどんな事態に直面しても飄々としている印象の晴尋だが、流石に、普段衣装などに頓着しない絶世の美女の晴れ姿には目を奪われたらしい。
 しかし玉兎よりも一枚どころか二枚も三枚も上手な晴尋は、紳士然として彩章の目の前まで歩いて行くと、衣擦れの音さえ立てずに恭しく跪いた。そっと、彩章の手を取り、唇を寄せる。
「薔薇の化身が舞い降りたのかと思いました」
「そなたは相変わらず口が上手いな」
「貴女は相変わらず私の言葉を本気にしてくださらない」
 夢か現か判断に戸惑うような光景に釘付けになっていると、後ろから頭を叩かれた。しゃらりと髪飾りの銀細工が触れ合う音がする。折角、計都の精が時間を掛けて結い上げてくれたのに何をするのか。
 むっとして振り返ると、そこには久々に会う九螢の姿があった。
「阿呆面で突っ立っているな」
「あ、阿呆面って何よ。九螢こそ、いきなり現れて人の頭叩くってどうなの。ねえ、髪の毛ぐしゃぐしゃになってない? 大丈夫?」
「別にどこも乱れてなどいないが……否、一つ飾りが取れかけているな。挿し直してやる。そこに座れ」
 久し振りの再会に心がざわめいているのは、やはり自分だけのようだ。九螢は相変わらず偉そうな態度で傍にあった椅子の一つを示してみせた。
 満月は、どうして九螢がわざわざそんなことをしてくれるのか、そもそも九螢にそんな器用な真似ができるのかなどとぐるぐる考えていたが、痺れを切らした彼の無言の圧力によって大人しく椅子に座ることとなった。
 九螢の指先が、満月の髪からしゃらりという音色を響かせながら、簪を一本抜き取る。満月の髪の感触を確かめるようにして触れて来る熱が、くすぐったいような気恥ずかしいようなふわふわと覚束ない心地にさせる。
 満月は為す術もないまま、着つけてもらった着物の柄をひたすらに見つめることに専念し始めた。真朱の地色に、山吹色を基調とした牡丹や桜の花々が咲き誇っている。袖の部分に烏羽色が用いられていることもあって、以前月の宮で着用したものより大人っぽい印象だ。
 和装に詳しくない満月でも、それが上等の品であるというくらいは分かる。そして、こんなに立派な着物が、決して似合わないであろうことも容易に想像がついた。
「やはり、似合うな」
 不意に響いた柔らかな声音に、満月は瞠目する。満月の後ろに立っているので九螢が今どんな顔をしているのかなんて分からないけれど、どうしてだか彼が笑っているような気がした。
 満月の着ているものなど何の関心もないと思っていたのに、何でいきなり核心をついたようなことを言うのか。否、九螢のことだから、満月の装いなどではなく、全然違うことを指して言ったのかもしれない。
「ね、ねえ、九螢。簪挿し直すとか、そんな器用なことできるの?」
 早鐘を打ち始めた心臓の音に覆い被せるように、満月は声を張り上げて言った。
「何も結い直すわけではない。簪を挿すくらい容易いし、俺はお前が思うほど不器用ではない」
 九螢が不器用ではないなどと言うと何だか不安が増すが、簪を挿し直した手つきに迷いはなかった。
 ありがとう、と微笑んで満月は立ち上がる。その時、満月は自分の着物の裾を踏み付けてつんのめった。床と激突しそうになったところで、九螢に腰を浚われる。
「――危ないな」
 呆れたように九螢が吐いた溜息が項にかかる。途端に、背中がぞくりと粟立った。
「ご、ごめん」
 慌てて九螢の腕からすり抜け、満月は後退りする。
 満月はそこで、初めてまじまじと九螢の姿を見つめた。
 漆黒に紺色をこぼしたような九螢の衣服は、新調されているものの、いつもと大差なかった。少しつまらないと思いながらも、九螢らしいと満月は思い直す。
「何故、そんなに逃げる」
「何故って言われたって……」
 異性に触れられるのは慣れていないから。
 満月は、それが都合の良い言い訳になりつつあることを自覚していた。
 たとえ同じことをしたのが晴尋や彗鷺や計都神であっても、満月はこうも動揺することはなかっただろう。こんなに、心臓が飛び出しそうなほど暴れているのは、相手が九螢だからに他ならない。
 先だっての告白の件も、満月はからかわれる度に否定したが、家族や仲間に向けるような親愛だけに留まらないものを込めてしまったことに気づいている。
 ――本当は、九螢がどういう風にあの言葉を受け取ったのか、気になって気になって仕方がない。
 そんな満月の複雑な心の内など知りもしないで、九螢は満月の方に一歩近づいた。満月はまた一歩後退りする。
 近づけば近づくほど、九螢に自分の丸裸になった心が晒されてしまうような気がして、怖かった。
 九螢が知らないでいることに苛立つ心と、どうか知らないで欲しいと願う心。相反する気持ちのせめぎ合いに更に動悸が激しくなってくる。
 様子のおかしい満月を不審に思ったのだろうか。九螢は腕を伸ばして満月の頬に手を添えた。
「お前は……俺と一緒に居るのが嫌なのか?」
 満月は答えに詰まった。
 ずるい――九螢はずるい。
 この前あれだけ盛大に傍に居たいと言わせておいて、まだそんなことを聞くのか。
 皮肉のつもりだろうかと思って九螢の顔を覗うが、そこに揶揄するような色は見えなかった。それどころか、満月が九螢と一緒に居るのが本当に嫌なのではないかと疑っている節さえある。いつもいつも傍若無人に振る舞っているくせに、こういう時だけそんな不安そうな顔をするのは、本当にずるい。
 そんな風にして聞かれたら、嫌だなんて言えるわけがないのに。
 どうして、九螢も自分も同じ時間を過ごしてきたはずなのに、自分ばかりがこんなにも心を掻き乱されなければならないのだろう。どうして、九螢は全然何とも思っていないような顔をして、触れて来るのだろう。
「……嫌なわけないでしょ」
 自棄になってそう言い残して、満月は踵を返した。
 これ以上その場に留まっていたら、どうにかなってしまいそうだった。

「浮かない顔だな」
 宴も終盤に差し掛かった時のことだった。
 声を掛けて来た人の姿に満月は驚いた。
「計都神様……」
 計都神は宴が始まって挨拶と謝辞の言葉を述べてからも、何度か会場を後にして玉座の間で政務を取っていた。大広間に戻って来ては、九螢や彩章と何度か言葉を掛け合っていたが、その忙しない様子から満月が声を掛けることは憚られたのだ。
 辺りを見渡せば、玉兎と意外にも彩章が、薬春を口にしたために机に突っ伏していた。赤鴉に唆されて意地になって薬春を飲みまくった玉兎はともかく、彩章は相当薬春に弱いらしかった。勿論この二人が特異な訳ではなく、皆それぞれ酔いが回り始めていた。平生の状態を保っているのは、満月と九螢と計都神くらいなものだろう。律儀にも、彗鷺は計都神の補佐の名目で薬春を一切口にしていないので、どちらにも数えられなかったのだが。
「どうかしたのか?」
 自分の国のことで手が一杯のはずなのに、計都神は輪国側への応対もそつなくこなし、一人一人に気を配ることも忘れない。
 自我を取り戻してからの計都神は、この半月の間ずっと政務に掛かりきりだったという。軟派で粗忽という印象を一度でも抱いたことを満月は恥じた。
「い、いいえ。何でもないんです」
 まさか、計都神に九螢とのことで悩んでいるなどと言えるはずもない。
「何でもないという顔には見えねぇけどな。あんたのことは京華から聞いてる。面倒な国同士のことなんて関係なしに、俺はあんたの力になりたいと思っているんだが?」
 満月はその申し出に微笑を返した。とてもありがたい話ではあるが、下らないことで計都神の時間を奪うような真似はしたくない。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、わざわざ計都神様のお耳に入れるような話でもありませんから。お気持ちだけ頂いておきますね」
「聞いていた通り、頑固だな」
 満月は、目をぱちくりとさせる。
「京華があんたのことを、頑固で向こう見ずの馬鹿だと言っていた」
「なっ」
「はは、あいつにとっちゃ褒め言葉だろ」
 こんなに短い間に、京華のことを分かってしまえた計都神に、満月は軽い嫉妬のような感情を抱いた。しかしそれ以上に、柔らかな安堵が胸を満たしていく。
「計都神様のような方が計都の曜神で良かったです」
「ん? 嬉しいこと言ってくれるな」
 歯を剥き出しにして笑う姿は一見子どもっぽいが、計都神がその振る舞いだけで判断できない人間だということは、満月も分かってきていた。何と言うか、大人の男の包容力があると思う。それは、九螢には絶対備わっていない類のものだ。
「私から言うことではないかもしれませんが、京華をお願いします。京華は、いつも強気で芯が通っていて、怖いものなしみたいに見えるけど、意外と繊細で不安定なところもあるから……」
「あんた、良い奴だな。そんで、良い女だ。あんたみたいな女は、ただ笑っていれば良い。それで落ちない男は腰抜け腑抜けの玉無し野郎だ」
 おっと淑女に向かって下の話題は禁物だったな、と言って計都神は頭をがりがり掻いた。満月は、計都神の思わぬ言葉に瞠目していたが、その様子につられて思わず声を上げて笑った。
 何も相談していないにも関わらず、計都神は今の満月の心に添うようなことをそれとなく告げてくれた。気持ちが軽くなった自分を自覚して、満月は敵わないなあと思う。本当に、京華のことは心配なさそうだ。
「あいつも、あんたくらい素直だと助かるんだがな」
 ぽつりとこぼされた言葉に満月は苦笑する。満月も、同じようなことを思ったことがあるからだ。
「計都神様、お礼に良いことを教えてあげます」
 満月は悪戯っぽい顔をして、計都神に一歩近寄る。計都神はどこか面白そうな表情をして、満月の身長に合わせて屈んでくれた。
 満月はその耳元に、両手と唇を寄せる。小さな頃によく父の悠里とした内緒話の格好だ。
「……京華は、本当に好きな人にだけ、素直じゃないんですよ。嫌いな相手は完全存在無視ですから」
 くすくすと満月が笑うと、計都神はその端正な顔に唇で弧を描いた。
「そりゃあ、良いこと聞いた」
 にやにや笑いながら、計都神は京華が彗鷺と談笑している方へ離れて行く。計都神がわざとらしく京華の肩に手を置くと、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。しかしそこに愛情が宿っていることに、満月は気づいていた。


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