月姫 逃げ水の呼び声[三]



 夜が更けるまで続いたどんちゃん騒ぎも、潰れていく者が増えるにつれてささやかなものとなっていき、楽しかった時間もそこでお開きとなった。
 明日は、遂に計都国の地を去り、輪国へと戻る。満月は大人しく玉鳳に身を任せていれば良いだけだが、早く寝るに越したことはない。そう思って用意された客室に向かう途中のことであった。
「あれ? 晴さん」
 満月は少し驚いて声をかける。
 流石に一国の中心である曜の宮ともなれば、それなりに敷地は大きい。そのため、賓客として扱われた満月たちは、男性は東殿、女性は西殿に一室ずつ部屋をあてがわれた。といっても復興支援で飛び回っていた曜子と曜命は、その部屋で寛げることなど殆どなかった。夜に睡眠のためだけに戻って来ることもあったが、事情説明も兼ねて、街で宿を取ることの方が多かったのだ。ちなみに曜神である三人は、半月の間殆どを玉座の間で過ごしていたらしい。折角の豪奢な客室も、全員が揃って使用するのは今日が初めてのようなものだろう。
 満月は寝るために西殿にやって来たはずだったのだが、間違えて東殿の方に歩いてきてしまったのだろうか。そんな満月の戸惑いに気づいたのだろう。晴尋は苦笑を向けた。
「大丈夫ですよ。こちらは西殿です。あ、そんないかがわしいものを見るような目つきで見つめないで下さいよ。私は酔ってぴくりとも動かない彩章様をお部屋までお連れしただけです」
「ああ……日神様、大丈夫だった?」
 満月は合点して、微苦笑を返す。誰にでも意外な一面はあるものだとつくづく思う。
「まあ、計都神様との付き合いで一杯飲まれただけですからね。明日になれば何事もなかったように振る舞っておられることと思いますよ」
 優しく労わるような晴尋の表情は、満月にとって新鮮だった。宴の時に見た晴尋と彩章の様子――特に晴尋の様子が気に掛かった――も、満月たちと協力体制を取っている時とはどこか異なるものを感じたが、あれは気のせいではなかったかもしれない。
「あ、そういえば晴さんに聞きたいことがあって」
「何です?」
「えっと……紅い痣みたいなものって晴さんにもある? 私は確か、輪国に来たばかりの頃に小さな傷みたいなものがあるのを見つけたのが最初で……でも怪我したとか、ぶつけたとかそんなことは全然ないのに、何だかその傷の大きさが変化しているみたいで。それでこの前、京華にも同じようなものがあることに気づいたんだけど……あれって曜子特有のものだったりするのかなって思って」
「ああ、曜痕ようこんのことですか」
 晴尋は何てことない様子で答えた。
「月神様から何かお聞きしていませんか?」
 九螢が曜痕とやらに関して、何か言っていた記憶はない。満月が眉を寄せながら首を左右に振ると、晴尋はまたもや苦笑いを返してくれた。
「まあ、引力に似たようなものです」
「引力って……曜神と曜子が引き合うっていう?」
 晴尋は小さく頷くと、そのまま言葉を続けた。
「曜が己の曜子を見つけると、その身体に曜痕を刻むそうです。そしてその曜痕の刻まれた曜子と曜神の間に初めて、引力が生まれる。曜神と曜子の結びつきが強まっていくと共に、曜痕の形は徐々に大きく、その色は濃くなっていく。引力も曜神と曜子の結びつきにより確固としたものになっていくので、まあどちらも大差のないものと言っても差支えはないのですが」
 それなりの期間、満月は曜子を務めていたのだが、そんなことは初めて聞いた。九螢とは最初の頃は良好とは言い難い関係だったし、打ち解け始めてからも何かと困難続きで、そのようなことについて語る暇はなかったので、仕方ないという所もあるかもしれない。
「そういえば、あの時の――満月さんの曜痕には嫉妬さえ覚えましたよ」
 満月は晴尋の言葉の意味が分からず、ぽかんとした顔で彼の微笑を見上げた。
「な、何で晴さんが私の曜痕を――!」
 満月の曜痕は左鎖骨下にある。セーラー服や着物を着ていたら、満月の曜痕など見えるはずがない。襟ぐりの大きい服を九曜国で着用した覚えのない満月は、頬を上気させて晴尋に詰め寄った。
 そんな満月の様子を見かねてか、晴尋は頭に手をやって、はー、と盛大に溜息を吐いてみせた。
「俺はそんなに信用がないかな」
 満月を見下ろして、晴尋は笑み崩れる。満月が素の晴尋に弱いと分かってやっているに違いない。性格の悪さは筋金入りだ。
「以前の満月さんなら、これでころっと騙されてくれたはずなんですけどね。年月の力は偉大です」
 悪びれることなど一切ない。張り付けたような笑顔を引っぺがしたい衝動に、満月は駆られた。が、ここはぐっと我慢して、いかがわしいものを見る目つきで晴尋を見つめるだけに留めた。
「だから、誤解ですって。ほら、彗鸞が満月さんを斬りつけた時に制服が破れたでしょう。あの時、満月さんの曜痕が光っていたの、気付きませんでした?」
 満月は問われて目を見開く。
 そんなこと、全然気がつかなかった。あの時はただ必死で、京華を守り通さなければならないとそのことばかり考えていた。それ以外のことは記憶に残っていない。
「……あんなに美しい曜痕があるのかと思ったものでしたよ。恥ずかしながら、私の曜痕は、あれほど鮮やかではないですから」
 そう言って、晴尋は袖を二の腕まで捲り上げる。見れば、晴尋にも同じような紅い痕が刻まれていた。
 満月は、計都の精に着物を着せてもらう時に見た鏡の中の自分の曜痕を思い出す。しかし、果たして晴尋がこのようにわざわざ己を下げてまで他人を褒めて来るほど、満月の曜痕は鮮やかなものだっただろうか。
 それほど大差ないように思えた。同様に、形も少し欠けている所など、むしろよく似ているようにさえ思える。
「私と彩章様は、まだ貴女たちほど強くは結ばれていない……否、俺が、彩章様にそのように思っていただけていないんだ」
 掠れた声は、切実に響いた。それは嘘偽りのない本心から出た言葉のようで、満月は掛けるべき言葉に迷った。
「……私は、むしろ晴さんと彩章様が羨ましいです。だって、思っていることを素直に伝え合っている。私と九螢は、上手く言葉が伝え合えなくて、曜神と曜子としてとても不安定な関係に思えるから」
 何も、色恋のことを言っているのではなく、曜神と曜子としての関係を鑑みての言葉だった。蝕化した計都神に唆され、闇へ引きずられた九螢を止めたのは満月だ。しかし、あの時どうして九螢をああも簡単に引きずらせてしまったのだろうと満月は思う。
 満月がもっときちんと九螢に言葉を伝えていたら、あの時あのような窮地に立たされることなどなかったかもしれないのだ。終わったことを悔やんでも仕方ないが、今回の日月の協力体制の中で、彩章と晴尋は一貫して強固な連係を見せ、揺らぐことなど一度としてなかった。それは、決して自分たちには適わなかったことだ。
「満月さんは、本当によく人を見ていらっしゃる。だけど、自分のことになると鈍感になるのはどうしてかな。まあ、そこが見ていて面白いんですが」
 何だか失礼なことを言われた気がして、満月は膨れた。
「じゃあ、もう一個だけ言ってあげますよ。私はあの時、満月さんの曜痕を見て、貴女に相応しいとも思った」
 意味深長な言葉に、満月は首を傾げる。
「曜痕は総じて紅色をしています。赤といえば、どちらかといえば月より日の印象が強い。にもかかわらず、私にはあの彩を放つ曜痕が、月にしか見えなかった。しかも、欠けの一切ない円形――満月です。まさに、貴女の名ではないですか、満月さん」
 晴尋は、その言葉を満月に好意的な気持ちで告げてくれたに違いなかった。
 けれど、満月はその言葉を冷水を浴びさせられたような心地で聞いていた。
 先ほど、晴尋は何と言った? 曜痕が濃くなり大きくなっていくのは、曜神と曜子の結びつきが強まった証であると、そのようなことを言っていた気がする。
 満月の曜痕は彗鷺に襲われた時には、自身の目では確認していないが、完全な円形をしていたという。それが、今日には僅かではあったが欠けていた。しかも、色も晴尋が言うほど鮮やかなものには思えなかった。
 曜痕が濃くなり大きくなっていくことが絆の証であるならば、薄くなり小さくなっていくのは……それは、つまり――。
「……曜痕が消えたらどうなるの?」
「確か、曜が次の曜子の選定に入ると聞いたことがありますが……」
 断定するのは、まだ早いのかもしれない。悪い方にばかり考えるのは悪い癖だ。
 だが、満月の悪い予感は別の形となって翌朝顕現することとなった。

 空が白み始めて、生きとし生けるものたちの息遣いが清かになってきた頃。満月は寝台に横たえていた身体をのろのろと起こし、昨夜から何度自分を映したか分からない姿見の前に立った。
 何となくだが、昨夜の宴前より更に色が薄れ、形も欠けてきているような気がする。殆ど変わりはないので、気の所為ということもあるかもしれないけれども。
 衝撃と不安の所為で、昨夜は殆ど寝られなかった。今日は輪国に帰国する大事な日だから、身体を休めるために横にはなったものの、心は全然休まらなかった。
 昨晩、晴尋と別れた後、満月は改めてまじまじと己の曜痕を見つめた。今までは気づいた時にちらりと見る程度で、あの紅い痣に意味があるなどとは考えてもみなかったから、これまでの曜痕と現在の曜痕の差など、満月には分からない。
 けれど、一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、九螢との間が縮まってきていることに疑いはなかった。支え合って、ここまで来れた。そんな確信だけはある。
 だというのに、円形になるまで成長を続けて来た曜痕が、ここに来て薄れ小さくなってきているとはどういうことだろうか。
 しばらくの間、離れて復興支援を行っていたからだろうか。しかし、そんなことで打撃を受けるほど柔な関係であっただろうか。
 九螢とは、もっと激しく胸を掻き乱されるような辛い出来事を、共に乗り越えて来たはずだ。ぶつかり合ったことも幾度もあった。何より、自分たちの使命とも言うべき曜神と曜子の務めのために、その間に亀裂が入るなど、満月には信じ難かった。
 満月は、九螢を信頼し尊敬し、一方で守り支えたいと思い、更には……心を寄せている。たとえ曜痕がより明瞭なものになることがあっても、このように薄まったり小さくなることはないはずだ。
 それが――自分の勝手な思い込みではなければ。
「悩んでいても、仕方ないよね」
 満月は寝具を脱いで、セーラー服に手を掛けた。まだ、出発までにはいくらか時間がある。九螢に会って話をしてみようと思った。
 客室を出て、満月は庭の方へと向かう。廊下には、まだ彩章たちの姿はなかった。
 満月は、松の木の前で立ち止まった。思った通り、庭園の奥に九螢の後ろ姿があった。声を掛けようとして歩き出したものの、満月は我とはなしに立ち止まった。
 何かが、おかしい。
 九螢の姿や様子がおかしいのではない。自分の体調が悪いとか、そういうことでもない。
 何かが、いつもとは違う。感覚的な――否、それよりももっと深い所にあるものが、形を変えているような――。
 玉砂利の音を聞きつけたのか、引力によって気付いたのか、九螢は衣を翻してこちらを振り向いた。
 心なしか、九螢の顔色が悪いような気がする。勿論、今の九螢から陰や蝕といったものは片鱗さえ感じられないから、そういった類のものではないだろう。
「どうかしたの?」
 満月は言って、一歩近づく。違和感が大きくなった。
「否」
 九螢は短く言って、目線を逸らす。
 そんなことはいつものことなのに、何かが違う気がした。まるで、何か大事なものが、壊れていっているような気がする。
 満月は咄嗟にセーラー服の襟を握りしめた。その下には、満月の曜痕がある。
 曜痕と引力に大差はない――晴尋はそう言っていた。ならば、九螢と対峙して気付いたこの違和感の正体は、引力の弱まりに他ならないのではないか。
 近づけば近づくほど、その弱まりが、満月の身体にはっきりと確信となって刻みつけられていく。
 瞠目して立ち止まった満月は、弛緩していく身体に鞭を打って、九螢に背を向けた。よろめくようにして、元来た道を辿る。様子のおかしい満月を、九螢が追って来ることはなかった。


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