月姫 逃げ水の呼び声[四]



 計都宮の人々が一堂に会している様子は、中々迫力のあるものだった。庭園の中央で、色とりどりの衣に身を包んだ計都の精がずらりと立ち並び、彼らを後ろに従えた計都神と京華と彗鷺が少し寂しげな表情を湛えて、日月の六人を見つめている。
 ついに、満月たちは計都国を発つ。
 満月は京華と抱擁を交わした。これで、しばらくの間京華と会うこともない。
 京華は、満月が居なかったら、などと言ってくれたが、満月だって京華の姿に励まされた。しなやかで、凛と咲きほこる百合のような姿があったから、自分ももっと曜子らしくありたいと思えた。
「……何かあった?」
 流石に鋭い。耳元でそう囁いてきた京華に、満月はおどけてみせた。
「私が居なくなって、京華が寂しくないか心配で」
 ぎろりと睨みつけられる。嘘ではないし、寂しい気持ちはむしろこちらにあるのだけれど、満月が気落ちしているのはもっと別のことだ。京華には、多分それが分かっている。
「何だか、今朝から変だわ。大丈夫なの?」
 京華の厚意は嬉しい。
 けれど、自分でもまだよく分かっていないことを京華に上手く話せる自信はないし、満月はこれから彼女の元を去る身である。計都国のことで手一杯の京華に、わざわざ新たな不安の種を植え付けていくわけにはいかない。
 満月は努めて明るく頷いて、京華の身体を放した。
「京華と計都神様と彗鷺さんなら、絶対上手く行くって信じてる。頑張って。だけど、無茶だけはしないで。身体を大事にして」
「満月には言われたくないわ。満月も、少しは甘えることを覚えなさい」
 目と目がぶつかる。計都国と京華の未来が平和と幸福に包まれたものとなるように、満月は願った。
 名残惜しい気持ちを抱えながら、満月は玉兎のすぐ隣へと舞い戻る。すると、頃合いを見計らっていたらしい計都神が難しい顔つきで一歩前に進み出た。
「あー、堅っ苦しい挨拶ってーのは苦手なんだが、あんたらには本当に世話になった。ろくなもてなしも出来なかったが、あんたたちの国の危機には必ず俺たちが助太刀しに行く」
 計都神は難しそうに眉を寄せながら言う。
「そんな日は来ないから安心しろ」
 九螢が尊大な態度でそう告げると、彩章も口の端を上げてそれに続いた。
「そなたは安心して、貴国のことに専念するが良い」
 計都神は苦笑で応じると、すっかり何もかも楽しいというような顔つきになって、満月たちを見回した。
「俺は、京華と彗鷺と必ずや計都国を立て直す。そうしたらすぐに使いを出してやるから、あんたたちも心して待ってろよ」
 満月は玉兎と顔を見合わせて微笑んだ。その日が来るのは、そう遠くないような気がした。
「じゃあ、気ぃつけて帰れ」
 その言葉を合図に、玉兎と赤鴉が転化する。満月は翼を広げた玉兎の背に飛び乗った。後ろにぴたりと九螢が寄り添う。
 昨夜までは、馬鹿みたいに九螢相手にどきどきしていたのに、今日はこの近さが胸に痛くて苦しい。
 玉兎の身体が地上から離れる。二、三度玉兎が羽ばたくうちに、京華たちの姿がみるみると小さくなっていく。
 満月は身を乗り出して、京華たちに向かって手を振った。三人だけでなく、計都の精たちまでもが手を振り返してくれる。
 計都国に来て良かったと、満月は心から思った。この地に生きる人たちの心に、少なからず届かせられたものがあったのだ。
 計都宮の敷地を抜けると、計都の街並みが見えてきた。
 荒れた大地に命が芽吹いた様子はまだない。倒壊した家屋はそのままだし、至る所に墓標が見られた。人々の計都神への不信も根付いたままだ。
 だが、人々が忙しなく街道を行き交う姿がある。
 禍や喪失の悲しみを乗り越えて、励まし合って笑う姿がある。
 計都神はこれから、苦難の道を強いられるだろう。全てが彼の所為ではない。だが、ここまで国が荒廃したのは、彼の弱さが招いたものであるのも事実だ。
 満月はそれを責めることはできない。けれど、計都の民と、何より計都神自身がそうあることを許さないだろう。
 恐れ、惑い、もがき苦しみながらそれでも前に進む計都神の隣には、京華と彗鷺が寄り添い続ける。だから満月は、この国はもう大丈夫だと信じた。
 計都国領を抜け、星の海に出る。辺り一面に夜の世界が広がる。
 行きは邪気と使命感と緊張のため、星屑の輝きに気を取られる余裕がなかった。だが、帰りはきっともっと楽しく開放的な気持ちで、この空の旅を満喫できると思っていた。
 それが、帰りの方がずっと暗く沈んだ気持ちになるだなんてどうしたことだろう。
 計都国を発ってから、満月も九螢も一言も口を利いていなかった。
 最初は玉兎が色々と話しかけてきたが、満月と九螢の様子がおかしいことに気づいて、ついには彼まで黙り込んでしまった。
 酷く空気が重く感じられる。
 今朝、九螢と会ってから、満月は自分なりに曜痕と引力の弱まりについて考えてみた。
 満月の九螢に対する気持ちは薄れていない。それは断言できる。ならばつまり、この弱まりは、九螢の意志だ。
 満月はこの九曜国に呼ばれて九螢に初めて会った時、彼は月の欠片を集めろと言った。まだ全ては戻っていないが、月は確実に元の形を取り戻しつつある。
 日から受けた呪も解け、九螢の蝕も払われ、真実が民の間に浸透しつつもある。そして、最大の課題であった計都国鎮定も為された。
 満月の役目は、終わったのだ。
 九螢は、これから輪国の曜神としてよく国を治めていくだろう。後には継嗣の問題も出て来るであろうが、それは満月ではなく、次に月に選ばれた月姫が九螢と向かい合っていく問題であり、自分の出る幕はない。
 満月は今後も月姫として輪国に関わっていくものだと信じ込んでいたが、今ではそう思っていたことが不思議で仕方がない。
 全ては収束に向かいつつあるのに、これからも満月が輪国で月姫として暮らしていく理由などなかった。
 身体が、妙に重い。
 ここに居るのは、役目を終えるまで。全てが終わったら、父の元に帰るのだといつかまではちゃんと思っていた。自分の帰るべき場所は、輪国ではなく日本にあるあの平凡な家なのだと、自覚していた。寂しいけれど、それが当然だと思っていた。
 なのに――どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。いつから、自分の帰るべき場所が、輪国の自分には似つかわしくない神の宮だと、身の程も知らずに思うようになってしまったのだろう。
 満月は、込み上げて来る嗚咽を堪えた。
 帰路、九螢が身じろぎする度に、満月は息を止めずにはいられなかった。
 いつ、お前は不要だと言われるか、気が気でなかった。

 翌朝になって、満月たちは輪国領内に入った。幸い、目立った禍が起こった様子はない。早朝であるために人気は少なかったが、いつもと何ら変わらない輪国の様子に、満月は安堵の息を漏らした。
 同じ国内とはいえ、月の宮と日の宮は正反対の場所に位置している。今後は、九螢も彩章も協力して国を治めていく方針を固めており、そのことについても話し合いの場を設けることになっているが、ひとまずはそれぞれの宮でお互い腰を落ち着けようということになった。
 彩章が、計都国に赴く以前からずっと日の宮を空けていることに、不安を覚えている民が少なからず居ることと、散らばった月の欠片を民に募る上で、受け付ける場は一か所より二か所の方が良いだろうという判断のためだった。満月たちは曜命の翼でどんな場所も軽々ひとっ飛びだが、民にそのような便利な交通手段はない。
 輪国の国土の広さを考えれば、その処置は月が完全体になる上で有利に働くだろう。
 流石に日の三人とは、別れを惜しむこともなく、あっさりとそれぞれの宮へと帰って行った。満月は、それを名残惜しく思う。若しかすると、自分だけは彼らに会うことは二度とないかもしれないのだ。
 程なくして、満月たちは月宮殿に降り立った。
 計都宮と同じ白砂の上に、月の精たちが跪いて声を揃えた。
「お帰りなさいませ」
 九螢はそれに片手を上げて応える。満月はその言葉にツキンと胸を抉るような痛みを感じながらも、微笑んで応えた。
「お帰り。上手くやったようだね」
 ずーり、ずーりと聞き慣れた音を響かせてやって来たのは帛鳴だった。
「苦労を掛けたな」
「まあ、あたしもしばらくは暇だったからね。でも、いつまでもこの老いぼれが協力できるわけじゃない。何はともあれ、これであたしはお役御免だね。後は若い者同士、上手くやりな」
 帛鳴はそう告げると、長居は無用とばかりにそのまま月の宮を出て行こうとする。
 訳が分からない満月は、その背に声を張り上げた。
「帛鳴様! どういうことですか? それに、お役御免って……」
 帛鳴は、緩慢な動作で振り返ると、満月に向かってにやりと笑った。しかし、それだけだった。
「帛鳴。お前は『誰』だ?」
 九螢が、時機を得たとばかりに鋭く切り込む。帛鳴は笑みを崩さず、九螢と満月と玉兎を順繰りに見つめた。
「『監視者』……とでも言おうかね。それ以上の追求はよしとくれ」
 帛鳴は尚も口を開こうとした九螢に、そう機先を制する。九螢と玉兎の制止を振り切って歩き出した帛鳴に、満月は縋る思いで駆け寄った。
「帛鳴様……! どこに行かれるんですか? 日の宮ですか? 館に戻られるんですか? それとも……」
 必死の形相で言い募る満月の頭を、帛鳴はくしゃりと撫でた。そうされることの安心感と、もうすぐこの温かさに触れられなくなるのだという予感に、鼻の奥がツンと熱くなった。
「心配しなくとも、もう輪国は大丈夫だよ。月姫、きっとまたいつか会えるさ」
 その言葉は、帛鳴が手の届かないどこか遠い場所に行ってしまうことを暗示しているような気がした。
 満月は、鼻白んだ。引力も曜痕も消えゆく自分に、帛鳴と再び会える日が来るなど到底思えなかった。
「……あんたも月神も、本当に大馬鹿者だねぇ。明螢と珱希が見ていたら、何と言うことだろうね。だけどもう、手は貸してやらないよ」
 帛鳴は底意地の悪そうな顔で最後に満月の頭をぽん、と叩くと、そのまま振り返らずに歩き始めた。
 満月は、その後ろ姿を追いたい衝動と、追っても彼女が立ち止まることはもう二度とないだろうという気づきの間で揺れ動いていたが、結局彼女の姿が門の奥に消えるのを黙って見つめている以上のことは、何も出来なかった。

 自室に戻った満月は、まず最初に姿見に曜痕を映し出した。
 注意して見なければ分からない程度だが、やはり、曜痕が少しずつ薄れ小さくなっている。
 それ以上に、急速に弱まっているのは引力だ。
 同じ月の宮の中に居るというのに、九螢と引き合う力が以前よりずっと小さい。
 九螢は、星の海でいくらでも切り出す時間はあったというのに、満月に解任を告げなかった。そのことに酷く安堵してしまった自分が、本当に愚かしくてたまらない。
 九螢は、いつ満月を月姫から、輪国から解き放つ気でいるのだろう。
 今はまだ、満月が月姫だ。月の欠片もまだ輪国に散らばっていて、月属と日属の間に横たわる差別問題も解決していない今、月姫がすべきことは山ほどある。
 けれど、どういう気持ちでそれに臨めば良いというのだろう。
 満月とて、輪国や月のためになることなら、何だってやりたい。その気持ちに嘘はない。だが、迫り来る刻限に怯えながら仕事に当たるのは、多分とても辛いと思う。
 今だってこんなに混乱していて、先刻は環たちの言葉一つに動揺した。
 こんな精神状態で、輪の民に月姫様と呼ばれるなど、耐えられる訳がなかった。
 満月は、立ち上がった。鏡の中の自分が、毅然と満月を見つめ返してくる。
 くよくよ悩んでいる暇などなかった。
 ――最後の最後まで、少しでも月姫らしく。
 悩んでも、迷っても、最後にはちゃんと前を向いて。黒川満月として、月姫の最期を飾るのだ。
 覚悟を決めた満月が玉座の間の九螢を訪れると、彼は玉座の上から少し強張った顔で見返してきた。
「私が、月姫の役目を終えるのはいつ?」
 満月は、第一声を迷わなかった。
 渋れば、満月の性格上、自分の心に折り合いを付けられず、掛ける言葉に悩んで堂々巡りをすることが分かり切っていた。
 九螢の瞳が、投げ込まれた石によって湖面に伝わる波紋のように揺れる。
「……遅くとも、七日以内に、引力が切れる。引力が切れればお前の身体は月のしがらみから断ち切られ、元の世界に戻ることになるだろう」
 七日、と満月は噛み締めるように口腔で呟いた。
「その間、私に任せてくれることは何かある?」
「残りの月の欠片の回収を頼む」
 満月が重ねた問いに、九螢は淡々と答える。
 満月を向いた九螢の顔は、まるで能面のように何の感情も映さない。
「差別問題の件は?」
「それは日に任せる。彩章から申し入れがあった。日属だの月属だのにこだわっている連中は、確かに日の言葉の方が届きやすい。要請がない限りは、俺たちまで動く必要はないだろう」
 満月はそれに頷いて一礼すると、九螢の元から去ろうとする。その背中に、逡巡する声が掛かった。
「お前は――」
 掠れた声が、耳朶を打つ。満月は思わず振り返って、九螢の波紋を広げた瞳をじっと見つめた。
 息を止めて続く言葉を待っていると、九螢は満月を正面から見据えた後、自嘲めいた笑みを浮かべてゆっくりと瞼を下ろした。
 睫毛が震えて次に九螢の漆黒の双眸が見えた時には、波紋なんてものは最初から存在しなかったかのように、澄んだ穏やかな湖面がたたえられていた。
「九螢?」
「否……何でもない」
 躊躇いがちに掛けた言葉も、九螢に先の言葉を継げさせることは叶わず、満月はやり場のないもやもやとした消化不良な気持ちを抱えて玉座の間を後にした。


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