月姫 逃げ水の呼び声[六]



 ――め。
 ――ひめ!
「月姫!」
 満月は飛び起きた。
「ッ――」
 鋭い痛みに耐え切れず、満月は両手で頭を抱え込む。
 最近、何度となく襲う刃物で抉られるような頭の痛みは、偏頭痛によく似ていた。
「あんまり動かないで。まだ横になってた方が良い」
 その声の主を認識して、満月はほっと息を吐いた。
 良かった。まだ自分は輪国に居るらしい。
「あれ? 私、確か茶々丸さんと一緒に居た気がするんだけど……ていうか、ここどこ?」
 掛け布団を握りしめて、満月は辺りを見回す。心を落ち着かせるような畳の匂いと、百合の生けられた花器。見覚えのある場所だった。
 窓から明るい光が差し込んでいる所から見るに、九螢が告げた期限まであと二日の、五日目の朝だろう。
「九尾亭だよ。月姫が夜になっても帰って来ないから、迎えに行ったんだけど、そうしたら月姫がふらーって突然倒れちゃって。本当に心配したんだからね」
 頬を膨らませる玉兎は、元気そうに振舞っているが、疲労の色が濃かった。若しかしなくても、一晩寝ずに満月を看病してくれていたのかもしれない。
「ごめんね、ありがとう」
 満月は手を伸ばして、玉兎の頭を撫でた。いつもの玉兎なら、そこですぐに笑顔を返してくれるのだけれど、今日の彼はいつもとは違った。
「月姫」
 妙に真剣な声音で、玉兎は満月を呼ぶ。意図せず、顔が強張った。
「僕には、月神様と月姫の間にある引力みたいなものはない。だけど、何て言うのかな……月姫の気配みたいなものが、どんどん薄れて行ってる。その感覚だけは、僕にもはっきり分かるんだ」
 玉兎は今にも泣き出しそうな表情で、満月を見つめた。
 玉兎が分からないはずがなかったのだ。満月は、それに気づかない振りをしていた。否、気付きたくなかった。
「……役目が終わったってことだよ。心配しなくても、輪国と月の危機には、新しい月姫が呼ばれるから」
 どうにか微笑んで告げると、玉兎は満月を睨みつけた。これまでそんなことは一度としてなかったので、満月は呆気に取られて微動だにできなかった。
「僕は、そんなことを言ってるんじゃない!」
 癇癪を起こしたように、玉兎は満月を怒鳴った。満月は返す言葉もなく、間の抜けた顔で玉兎を凝視するしかない。
「僕は、君が良いんだ! 新しい月姫なんか要らない! 君だから、良いんだ」
 その言葉は、痛いほど激しく胸を突いた。
 そんな風に自分を思ってくれる人が居ることが、嬉しくて温かくて切なくて辛かった。
 満月は崩れかけた微笑を玉兎に向ける。
「……ありがとう」
 溢れて来る嗚咽を殺して、満月はセーラー服の胸当てに手を掛けた。
「だけど、もう曜痕は消えかけてる。引力だって、風に吹かれたら消えちゃいそうなほど、弱くなってる。私の役目はもう終わりなの」
 曜痕を玉兎に晒して、満月は自分に言い聞かせるように低く呟いた。
「月姫は、僕たちと一緒に居たくない?」
 満月は押し黙った。
 居たくない、わけがなかった。そうでなかったら、こんなに苦しんだりしない。
「……ここに居たい。ここで、皆と一緒に……居たい、よ」
 縋るような玉兎の声につられて、つい漏れた本音と共に、涙が頬を伝った。
「なら!」
「だけど、どうしようもないんだよ! 私はきっと、これからの輪国や九螢に相応しくない!」
 だから、曜痕も引力も消えてゆくのだ。
 怒鳴り散らすようにして言うと、満月は耐え切れなくなってしゃくり上げた。
 ――失敗した。九螢の前ではもう少し強く居られたのに、未練がましく泣き喚いたりしないで済んだのに、どうして玉兎の前で、胸の内を曝け出したりしてしまったのだろう。
 月姫だというのに、その役目を終える時になっても、自分の心ひとつ制御することができない。
 情けなくて、みっともなくて、仕方がなかった。
「そんなことない! 月神様だって……!」
「玉兎!」
 刃のように尖った声に、玉兎は圧倒されたようだった。
 九螢の名前は、聞きたくなかった。身体に刻まれた曜の痕を見れば一目瞭然ではあったが、九螢が自分を月姫から降ろそうとしていることを再認識させられるのは、耐えられることではなかった。
 満月は掛け布団に顔を押し付けて、くぐもった声で呟く。
「お願いだから、それ以上、言わないで」
 そう言って肩を震わせ始めた満月に、玉兎はそれ以上何も言わなかった。
 満月は、ぐっと全身に力を込めて、涙と嗚咽を堪えた。
「玉兎。月は、元通りになった?」
「……まだだよ」
「そっか」
 ならばまだ、満月にはやることがある。九螢は、満月がここに居る間に月の欠片を全て残らず集めるようにとは、言わなかった。だから、これは満月の自己満足でしかない。でも、これだけは譲れない。譲りたくなかった。
 満月は掛け布団を跳ね退けると、すっくと立ち上がった。立ち眩みで平衡感覚がおかしいが、そんなことを気にしている時間はもう残されていない。
「月姫?」
 玉兎は慌てて満月の前に立ちはだかった。
「何やってんの。まだ寝てなきゃ!」
「私が帰っちゃう前に、月が元通りになったのを見てみたいの。行かせて」
 懇願のようで強制する声は、玉兎を押し退け、満月を部屋の外へと押し進めた。
 廊下で会った仲居と挨拶を交わし、玄関でスニーカーの靴紐をぎゅっと締めると、満月は外に出た。どこで情報を仕入れようかと悩んで、満月は一瞬足を止める。その瞬間、満月の腕を掴む手があった。
 驚いて、満月は振り返る。紅玉の強い意志を感じさせる瞳と、かち合った。
「僕にも行かせて」
「玉兎、寝てないんでしょ? これは私のわがままだから、玉兎が振り回される必要はないんだよ」
 諭すように言った満月を、玉兎は頬を膨らませて見上げた。
「月姫は、本当に勝手だよ。月姫の方が体調だって悪いのに、何で僕のことなんか心配するの? 僕だって月の曜命なんだ。少しは頼ってよ。わがままだって何だって良い。それに、欠片の回収は、僕の仕事でもある。僕は月姫が何と言おうと、付いて行くからね」
 有無を言わせない口調なのに優しく響くのは、玉兎だからなのだろうと満月は思った。満月はこっくりと頷くと、玉兎が満足そうに笑顔で火の鳥へと転化するのを、微笑を浮かべて見つめていた。

 夜通し月の欠片の捜索は続けられたが、結局六日目の朝になっても新たな月の欠片が見つかることはなかった。
 満月は、通りがかった村の食堂で恵んでもらった水と粥を啜りながら、先程見上げた月を思い起こした。欠けているところは、あとほんのわずかだった。大きさにもよるが、あと三つや四つ欠片が集まれば、満月になりそうな気さえする。
 向かいで椅子に座っておむすびを頬張っている玉兎に、満月は視線を戻した。玉兎は、本当においしそうに物を食べる。その姿を見ていると、憂鬱だった気分も、吹き飛んで行くような気がした。
 この村も、初めて来た時には満月たちは受け入れてもらえなかった。それが今は、こうして食事を振る舞い、情報を提供してくれるばかりか、一緒になって月の欠片を探してくれるまでになった。
「おいおい嬢ちゃん、食が細ぇなぁ。そんなんだから、そんながりがりのごぼうみてぇなんだよ」
 近くに座っていた客の一人が、満月にそう声を掛けた。
「いつもはもっと食べますよ。今日はちょっと気分が悪くて」
 苦笑した満月に、その客はじゃあ次来た時はおいらが奢ってやるから覚悟しとけよ、と笑ってみせる。すると食堂の至る所から、抜け駆けするなんてずりぃぞ、という声が上がった。
 満月は嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り混じった複雑な思いでその声の数々を聞いていたが、玉兎が食事を終えたのを見て取ると、客たちに挨拶をして立ち上がった。
「あたしたちも、何か分かったらすぐに知らせるからさ。あんたたちもがんばんなよ」
 この食堂を女手一つで切り盛っている、がたいの良いがちょうのおばさんが、豪快に笑って言った。
「はい。ありがとうございます」
 満月はご馳走様でしたと手を合わせると、玉兎と共にその食堂を後にした。
 昨日から、何の情報も得られていない。場所をがらりと変えた方が良いのだろうか。満月は転化した玉兎の背に乗り、まだ訪れていない地方に向かう。
 しかし、いくつかの街を回っても月の欠片に関する確実な情報は何一つ得られずに、六日目の夜も更けて行った。
 流石に玉兎を三日も徹夜させる訳にはいかない。ただでさえ、玉兎は飛び回り続けて疲れている。玉兎は休んでいてほしい。そう主張したのだが、玉兎はこの日も満月を乗せて朝まで飛び続けてくれた。
 満月は燦々と降り注ぐ陽光と月光と青空を仰ぐと、眼下に広がる輪国の街々を隅から隅まで探るように見渡した。
 ついに、七日目の朝が来てしまった。地上に、残りの金色の光を見つけることは未だに叶っていない。
 どこを探せば、欠片が見つかるのだろうか。闇雲に捜し歩くのは、効率的とは言えないだろう。かといって、何か手掛かりがあるわけでもない。
 迷っている間にも、時は満月を帰還へと急かす。頭痛も吐き気も眩暈も耳鳴りも、もはや常時満月の身体について回っていた。
「一番可能性がありそうなのは、月や九曜国の真の構造に反発の強い、北部地方だと思うよ」
 玉兎が、疲労を露とも感じさせない明るい声で言った。
 確かに、反発の強い地域では、街ぐるみで月の欠片を隠し持っている可能性も捨て切れない。根拠もなく疑いを掛けるのは憚られたが、もう一度北部地方を洗ってみる価値はありそうだ。
 満月は玉兎に深く頷き返すと、そのまま北部地方の都、鵞州がしゅう蕩弓とうきゅうへと向かった。蕩弓は輪国でも規模の大きい都市であるために、月の欠片に関する様々な噂が飛び交っていた。満月も玉兎もそれらに踊らされ、月の欠片を探し求めて各地を巡ったが、どれもこれも根も葉もない噂に過ぎず、刻々と時間ばかりが経過して行った。
「月姫」
 ますます酷くなる身体の不調を見かねて玉兎が呼びかけて来たのは、その日の夕刻のことだった。
 満月は吐き気を抑え込むように唾を飲み込むと、声の方を向いた。見慣れた玉兎の姿が、ぼやけて見える。この頃にはもう、満月は一連の症状は多分、異物となりつつある自分に対しての、九曜国からの拒絶反応だろうと見当をつけていた。
「月の宮に帰ろう、月姫」
 玉兎の言った言葉の意味を、満月はしばらくの間、理解することができなかった。
 頭痛と動揺でまともに働いてくれない頭に、理解が追いついて来た時には、満月は玉兎に向かって声を荒げていた。
「何で! あとちょっとなんだよ。今朝、日神様の方で大きな月の欠片の返還があったって噂、聞いたでしょ。現に月が完全体に近づいてる。多分、本当にあと一つか二つ……」
「それを見つけるのは今日じゃなくても良い」
「玉兎はそうかもしれないけど、私には!」
 自分が居る間に月を満月にしたいだなんて、子どもっぽい感傷にすぎない。そんなことは、言われなくても分かっている。分かっていてそれを選ぶのも、ただの傲慢だ。けれど、そういう風にしてしか、自分の気持ちに踏ん切りがつかなかった。
 これからの輪国を支えられなくても、九螢に初めて会った時に言われた仕事はせめて、貫徹したい。たとえ九螢が今の満月にそれを望んでいなくとも。
 ここで皆と共に成し遂げた、目に見える証のようなものが、どうしても欲しかった。それに、曜を元通りにしなければ、あちらに還った後に月を見上げる度に後悔するのは目に見えていた。
「月姫の気持ちが分からない僕だと思う? 月姫、そうじゃない。君の気持ちを踏みにじりたいわけじゃない。僕が言いたいのは、今日でなくても欠片は回収できるけど、今、これ以上無理をすれば、月姫の身体にどんな影響があるか分からないってこと。ただでさえ、月姫は月神様の蝕騒動が起こった時に無理をしているんだ。僕は何より、月姫を失いたくない」
 満月には玉兎がどんな顔をしているか視覚で確認することはできなかったけれど、それは手に取るように分かった。
「……ごめんなさい」
 本当に自分を思いやってくれる人の前で自身を蔑ろにするのは、相手を傷つける行為だった。
 だけど、と満月は言いかけてやめた。
 これ以上、自分の勝手に玉兎を巻き込むのも、彼を悲しませるのも嫌だった。
 ――それに。
「うん――分かった。月の宮に行こう」
 満月は土埃で汚れたスカートを叩くと、転化した玉兎の背に大人しく騎乗した。
 引力はもう、注意深く感覚を研ぎ澄ませても殆ど感じられないほどに弱まっている。九螢や九曜国との繋がりが消えてしまったようで、不安で胸が押し潰されそうな心地がしていた。
 だから、だろうか。
 九螢に会えばきっともっと苦しくなるに違いないのに、満月は最後に彼に会いたいと、そう強く思った。


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