月姫 逃げ水の呼び声[七]



 以前より一層強い金色の光を放つその場所に足を踏み入れると、満月は思い切り伸びをした。地上に居た時よりずっと、身体が軽く楽に感じる。霞がかかっていた視界も、清かなものに戻ったことに一安心する。役目の返上が迫った月姫とはいえ、どうやら月の地はまだ、満月を守ってくれているようだった。そうは言っても、今にも倒れそうな状態であった身体を酷使した後となっては、いつものように身軽に動くことはできそうにない。
「姫様! お加減はいかがですか?」
 満月たちが到着するやいなや、血相を変えて中庭まで飛んで来た環は開口一番そう問いを投げて来た。満月はこれでもここ最近の中で最も調子が良いつもりだったが、環にはそうは見えなかったらしい。確かに、この七日間で相当やつれた覚えはある。満月はしどろもどろになりながら、大丈夫と腕を振ってみせた。
「何が大丈夫なものですか! 姫様、今すぐお休みになられてください。後でお目覚めになられたら、お粥をお持ちいたしますわ」
「気持ちはとっても嬉しいんだけど……環も多分もう知ってるでしょう? 私、もうあちらに還るの。だから、今寝て起きたらあっちに居ることだってあるかもしれない。私、今日は意地でも寝たくない。あ、でも絶対無茶なことはしないし、大人しくしてるから」
 環は、少しだけ顔を曇らせたが、すぐに満月に柔らかな微笑を向けた。
「それでは、お部屋に戻られて、横になるだけでもなさってくださいませ。それと、月神様からのご伝言です。今は禍の対処のため玉座の間を離れることができないが、後で必ず行く、と」
 満月は目を見開いた。
「……九螢が?」
「ええ」
 こちらから赴けば、別れの挨拶くらいはしてくれるだろうと思ってはいたが、わざわざ九螢の方から出向いてくれるだなんて思ってもみなかった。
「それじゃあ、部屋に行こう」
 満月の手を取って、玉兎がゆっくりと歩き出す。環も、その後ろからしずしずとついて来る。
 最後の記念に月の宮をぐるりと回りたいという欲求もあったが、今の身体で面積が大きい上に入り組んだ宮中を見て回るのは相当な負担が掛かるに違いなかったし、無茶はすまいと決心したばかりだったから、満月は環と玉兎の意向に素直に従った。
 月姫の部屋に辿り着いてから暫くの間、満月は玉兎と環と他愛もない話で盛り上がった。玉兎も環も何か別のことを言いたそうな顔をしていたけれど、満月が縛りあげた空気を解くことは叶わなかったようだった。
 辺りはもう夜の帳がすっかり下りたらしく、冷気が肌を刺してきていた。窓の外には金色の柔らかな光が広がっている。満月は、射しこんできた月の光にそっと手を添えた。
 体調の優れない満月への配慮からか、部屋には明かりの火を灯していなかった。だが、そんなものは必要がないほどに、月の宮は明るく照らし出されている。
「あっ」
 長い耳をピンと立て、寝台の脇に置かれた椅子に腰掛けていた玉兎が立ち上がった。
「どうかされました?」
 環がおっとりと尋ねる。が、環もすぐにその事態に気づいたようだった。
 少し急いたような足音が、部屋の外から聞こえてくる。満月は、寝台の上に横たえていた身体を緊張させた。そしてほどなく、扉が開かれた。
 姿を現した九螢は、珍しく着衣が乱れていた。
 玉兎と環が示し合わせたようにして満月に会釈すると、部屋から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと」
 満月は玉兎と環の行動の意図が分からず、身を起こした。
「――ッ」
 刹那、頭に走った激痛に満月は身体を丸める。
「月姫様!」
「月姫!」
 玉兎と環が慌てて駆け寄って来る。
 満月は掛布を握りしめたまま、歯を食いしばった。
 不意に、頭に誰かの手が置かれた。考えるまでもなく、その感触は九螢のものだとすぐに分かった。
 次いで、光の粒子が降る。少しだけ、痛みが和らいだ。
「こういう時くらい、大人しくしていられないのか」
 声は頭上で責めるように響いた。
「だって、玉兎と環が」
 見れば、玉兎も環も再び部屋から出て行ってしまうところだった。
 こんなに近くに居ても九螢との引力を殆ど感じないから、きっとこの辺りが潮時なのだと思う。もし今ここで玉兎や環と別れれば、それが永久の別れとなるかもしれない。沢山話はしたけれど、話しても話しても風穴の空いた胸は塞がらず、満たされた心地になることがなかった。まだ話し足りない。触れ足りない。それなのに、玉兎と環は出て行ってしまう。
「……お前は」
 玉兎と環を引き留めようと動き出した身体を、歯切れの悪い言葉に遮られる。
 満月が先を促すように目をやると、九螢は小さな溜息を挟んだ後に、視線を逸らして呟いた。
「今わざわざ来てやった俺より、あいつらに用があるのか?」
 その不遜な声に、満月は微弱であったが違和感を感じた。まるで、九螢が本当に言いたいことはそんなことではないような――。輪国に来たばかりの満月であったなら、気にも留めないように些細な、横柄な言葉と瞳が物語る本心のぶれ。
 満月は食い入るように、九螢の明後日を向く瞳を見つめたが、それはいつかのようにゆっくりと閉ざされて、微かな違和感は泡が弾けるように消え去った。
「そういう、わけじゃない」
 満月は言って、唇を尖らせる。何だか、もやもやとした感情で胸がいっぱいだ。上手くそのもやもやを口にできれば良いのに、それが上手くいかない。
 ここが、彩章と晴尋の関係と違う所だと思う。どうにかしたいともがくのだけれど、自分と九螢では空回りするばかりだ。
 気づけば、玉兎と環の足音はもう聞こえなくなっている。多分気を遣ってくれたのだろうけれど、あの二人に一緒に居てもらった方がありがたかった。
 その方が、きっと上手く、笑うことができる。
「随分、痩せたな」
 突然九螢に掴まれた右腕が、強張る。
「案ずるな。何もしない」
 いつかの出来れば忘れてしまいたい事件を思い出したのか、九螢が淡い苦笑交じりに満月の手を放した。
「別に、警戒してるわけじゃないよ。もう、九螢が継嗣を望む理由はなくなったわけだし」
 ――そして、満月を望む理由も同様に消え去ったのだ。
 満月は、黒川満月という個人を九螢から望まれていたのではない。月姫という存在を、求められていたのだ。
 そんなことは、分かっている。分かっているはずなのに、本当は分かっていない。分かりたくなかった。
 そんな自分を知られたくないから、満月は何もかも分かっている振りをして、微笑む。
 途端、九螢の顔が曇った。満月は不思議そうに小首を傾げる。
「九螢?」
「否……月姫」
 ごくたまにしか呼ばれない呼称に、胸が高鳴った。
 長い睫毛に縁取られた黒曜石のような瞳が、満月を見つめる。熱砂の中を彷徨う旅人が渇きを訴えるかのように、それは強い瞳だった。
「手を、握っていても良いか?」
 囁くような声が降る。その声は、満月を絡め取るようにゆっくりと心を侵食した。
「な、な、何で?」
 とんちんかんに問い返せば、九螢は薄く笑って満月の右の手を取った。
 指と指が絡み合う。その温度が、どうしようもなく心地よくて、愛おしいと思う。
「感謝する」
「え?」
 わけが分からず、満月は九螢を見上げた。
「お前に出会えて良かった」
 満月の手を握り締める力が一段と強くなる。かと思えば、九螢のもう一方の手が伸びてきて、満月の右手を両の手で包み込んだ。
 九螢にまさかそんなことを言われる日が来るとは思わず、満月は笑った。まったく、似合わない。可笑しくてたまらないのに、何故だか瞳の奥が熱い。つと、涙がこぼれ落ちた。
「何故、泣く」
「……九螢が可笑しいから」
 我ながら言い訳にもなっていないと思う理由を口走る。
 本当のことは、言ってはならない。言えば、九螢を困らせる。
 まだこの国に居たい。月姫でいたい。九螢が好きだ。その気持ちは全て押し込めて、還らなければならない。せめて、それだけは譲りたくない。
「頼むから、泣くな」
 懇願するように言った九螢を上目遣いに仰ぎ見れば、彼はくしゃくしゃに顔を歪めていた。
 瞠目した満月は、いつの間にか涙が引っ込んでしまったことに気づく。物凄い破壊力だ。
 若しかしたら、九螢も少しは別れを惜しんでくれているのかもしれない。もちろん推測に過ぎないが、このじかに感じる九螢の体温があれば、それ以上は何も望むものなどなかった。
「もう眠れ」
 九螢が、汗ばんだ満月の前髪を掻き上げてから、横になるように額を小突いた。
「やだ」
 満月は、子どものように意地を張る。
 無駄な抵抗と知りながらも、そうせずにはいられない。
「お前は、還るのだろう?」
「そうだよ」
 定められた以外の言葉を話すことのできないぜんまい仕掛けの玩具のように、満月はそう言葉を返した。
「なら、これ以上無理を重ねる必要はない」
 それは、厄介払いをしようというものではなく、満月の身体を慮ってくれているものだとはっきりと分かった。
 確かに、満月はここ数日で相当痩せたし、顔色だって最悪に違いない。だが、幸いにも、九螢は満月がここまで輪国に固執するわけに気づいていないようだ。だから、往生際悪く、もう少しだけと願ってしまう。
「俺が邪魔ならば、出て行く」
 満月は、反射的に飛び起きた。殆ど無意識に、ほどかれた手を強く握りなおす。
「邪魔じゃない。邪魔じゃないから、お願い。ここに居て」
 九螢は少し驚いたように、しっかりと繋ぎなおされた手と手を見つめていたが、すぐに満月の寝台に腰掛けた。
 それで、力が抜けたように、満月は寝台に横たわる。
 何だか、少し疲れた。
 吐き出してしまいたい言葉の代わりに、満月は眩しく九螢を見上げた。
「ありがとう」
 九螢が、繋がれた方ではないもう一方の手で、満月の髪を優しく何度も梳く。
 安心したのか、急に強烈な眠気が襲って来た。
 起き上がりたいのに、起き上がれない。話したいことは沢山あるのに、唇が上手く動いてくれない。
 明日の朝までずっと起きている覚悟だったのに、強固な意志に反して、瞼が落ちていく。
 小さくなる視界のどこかで、九螢が苦しげに強く唇を噛んだような気がした。
 どうかしたの、と聞きたい。けれども、意識の欠片はゆるゆるとどこか遠い所から寄せる波に浚われていく。
 ――温かな手の感触が、断ち切られるかの如く、消え去った。


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