月姫 千歳の花時[一]



「うん、じゃ、また月曜日にねー」
 ひらひらと手を振って、自転車で走り去って行く級友の後ろ姿に一瞥をくれてから、いつもの曲がり角を曲がる。弾みでずり落ちかけたスクールバッグの掴み手を、彼女は慣れた様子で肩に掛け直した。
 アスファルトの照り返しでむわんとした熱気をたたえていた高校から家までの道のりも、九月に入ってからは大分ましなものになってきていた。
 生温かな風に、プリーツスカートが揺れる。山の裏側へと沈みゆく真夏の名残を残した太陽が、意地を見せつけるかのように、射すような西日で街全体を朱く染め上げていた。この分ではまだ、衣替えはしない方が良いだろう。
 ふと、聞き慣れた電子音が耳に届く。慌てて、彼女は制服のポケットを探った。すぐに、花モチーフのストラップがついた折りたたみ式のシンプルな携帯電話が顔を出す。
 どうやら、メールが届いたようだ。差出人は、想像していた通りの人物で、彼女は思わず小さな笑みをこぼす。
 画面には、今夜の夕食の具材について簡潔な文が踊っていた。
 今夜は、秋刀魚の塩焼きと栗ご飯にしようと彼女は心に決める。
 ゆるやかな下り坂を、家路を急ぐサラリーマンの後にくっついて足早に下りながら、彼女は履き古したローファーを愛おしむように見つめた。級友には早く新しいものを買ったら、と言われるし、年頃の娘の感覚としては少しでも見目を良くしていたいと思うのだけれど、このローファーだけは特別だった。
 ちなみに特別と言えばスニーカーもあるのだが、それは校則で履くことができない。
 しばらく駆け足で歩いたせいか、身体が汗ばんできた。
 早く着替えたい一心で、彼女は車道の広く取られた通りから、住宅街へと続く細い脇道を進む。
 間もなく、自宅が見えて来た。
 扉の取っ手を掴むと、彼女は腕にぐっと力を入れた。
 ……閉まっている。
 まだ、誰も帰宅しては居ないらしい。
 スクールバッグから長いチェーンのついた鍵を取りだすと、彼女は幾分がっかりとした様子で、鍵穴にそれをさし込んだ。小気味いい音が響く。
 今度こそ、扉が開いた。玄関にスクールバッグを放ると、彼女は洗面所へと急いだ。手洗いとうがいを済ませてから、顔に冷水を浴びせる。本当は弟のように頭から水を浴びてしまいたいのだけれど、そこは一応慎みを保っておく。
 白いタオルで顔を包み込むと、彼女は階段を上って自室へと入った。
 瞬く間にセーラー服を脱ぎ捨てる。彼女はそれをハンガーで吊るすと、衣装ダンスの手近な場所に吊るされた簡素なアイボリーのワンピースに手を伸ばした。
 慣れた手つきで着替え終えると、彼女は欠伸を噛み殺して階段を下る。と、玄関の扉の、開く気配がした。
「たっだいまー」
 陽気な声につられてくすりと笑みをこぼすと、彼女はひょいと玄関に顔を出した。
「おかえり、和理」
「お、みつ姉早かったな」
 学ランに身を包んだ和理がにかっと笑う。すっかり黒く焼けた肌は、いかにも健康的な少年そのもので、満月は嬉しくなる。和理のその腕には、近所の魚屋の袋がぶら下げられていた。
 和理は少々煩わしげに、よれよれのスニーカーを脱ぎ捨てて玄関を上がった。
「靴下、すぐ脱いでね。和理、また足の裏真っ黒だよ」
「はいはい。みつ姉は細かいなぁ。何だか最近、京姉に似て来たよ。最初はめちゃくちゃ優しかったのにさ」
 拗ねたように言う和理の頭を、拳で軽く叩く。いってー、と悪態を吐いた和理であったが、大人しく靴下を脱いで、裸足でぺたぺたと洗面所まで歩いて行った。
 和理と再会した時は、満月も新しい家族とどう付き合っていくか悩んだが、今ではもうすっかり気の置けない仲となり、姉弟喧嘩も時々している。半年前では考えられなかったことだ。
 そう、半年――こちらに戻って来てから、半年もの月日が経った。
 戻ってきた直後は、覚悟はしていたはずなのに、自分でも茫然としてしまって訳が分からなかった。九螢が居ない。玉兎が居ない。ただその現実は理解しても、実感を伴うことはなかった。
 まだ、輪国に居た頃、玉兎の前で泣き喚いたり九螢に似合わない台詞を言われたりした時の方が、別れの悲しみが自分の中にはっきりと実をもって存在していた。
 さよならも言わずに寝ている間に戻って来てしまって、それで実感しろだなんて、ふざけている。
 今では、輪国でのことは、まるで長い夢を見ていたようにさえ思える。感覚が麻痺して、何が現実で何が夢なのだか、判断がつかない。だが、この家に和理が居て、京華が居ないことが、夢などではなかったのだと満月に示してくれていた。
 そしてもう一つ――。
 満月は、申し訳程度に残る左鎖骨下の紅い痣を親指で強く拭った。
 月姫を解任されて半年が経つのに、その印は未だに消えてくれない。
 早く、消えてしまえば良い。そう思う自分が居る一方で、曜痕が完全に消えて無くなるのを酷く恐れる自分が居ることに、満月はやきもきする。
 普通に生活している分には、日々の慌ただしさに追われて、あまり輪国でのことを考えなくて済む。だが、ふとした瞬間に掠れた曜痕を目にしてしまえば、未練たらしく異世界のことを思い続けている自分に気づく。
 曜痕が消えれば、そのことに気づかなくなるかもしれない。でも、本当に消えてしまえば、満月は再び喪失を味わうのだろう。
「みつ姉、どうかした?」
 頭から水を滴らせた和理が、いつまでも玄関から動こうとしない満月に駆け寄って来た。満月は一気に現実に引き戻される心地を味わう。
「ほら、廊下が濡れる! ちゃんとタオルで頭拭いて」
 我ながら、中々、姉っぷりも様になってきたのではないかと思う。
 折角心配してやったのにさー、などとぶつくさ言いながら洗面所に戻って行く和理を尻目に、満月は秋刀魚の入ったビニール袋を片手に台所まで歩いて行った。

 一階から、テレビの音が断片的に聞こえる。時折和理の笑い声が混じるが、それ以外は静かで、満月は自室の勉強机でうとうとと舟を漕ぎかけていた自分を叱咤した。
 眠い。でもまだ明日の授業の予習が終わっていない。このまま寝てしまえば、起きたら翌朝でした、ということになりかねないだろう。
 満月はのろのろと立ち上がると、ベランダへ続く戸に手を掛けた。サンダルに足を引っ掛けた所で、少し強い風が吹いた。肌寒さに、眠気が霧散していく。
「……あっ」
 満月は、我知らず声を上げた。夜空にぽっかりと浮かんでいるのは満月だ。そういえば今日は、よりにもよって十五夜だと朝のテレビのニュースで言っていたような気がする。
 ――満月は、あまり見たくなかった。
 見れば、使命を課せられながらも、それを達成できなかった自分を否が応にも思い出す。そして、輪国で過ごした日々も。
 今まで満月は十五夜というものに対して、然程興味はなかった。満月という名を持ちながら、まったく風流の欠片もない。しかし、それはちゃんと目にしてみれば、想像以上に美しいものだった。
「ッ――どうして」
 こちらに帰ってからの半年間、驚くことに、満月は一度として泣くことはなかった。それがどうして、今になって実感するのだろう。
 会いたい。
 どうしようもなく、ただ、ただ。
 輪国の皆や、京華や、玉兎や……九螢に、会いたい。――会いたい。
 でももう、会えないのだ。どれだけ願っても、祈っても、泣き喚いても、もう二度と、会うことはない。
 一たび現実に戻れば、満月にとってのあの世界は決して手の届かない夢幻にすぎないのだから。
 今日、ベランダに出てしまったのは失敗だった。
 こんなにも、満ちた月は美しい。輪国で、満月はそれを見届けることは叶わなかった。
 見届けたかった。それ以上に、あの美しい月の宮で、九螢や玉兎たちと共に過ごしていたかった。別れたくなかった。月姫としていたかった。
 でも――。他でもない九螢自身が、満月がそうあることを望まなかったのだ。
 一度溢れだしてしまった思いは堪え切れない。満月は嗚咽を堪えて、ベランダの床にうずくまった。
「何故、泣いている」
 低く、宵闇に溶けるような心地の良い声がした。
 満月は目を見開いて、小刻みに震えながら身体を起こす。
 月の仄明るい光に照らされて、その人はいつの間にか満月の目の前に立っていた。
「嘘……夢?」
 ごしごしと目を擦る。再び目を開いても、その人はそこに変わらず当たり前のように存在している。
「どこか痛むのか?」
 的外れな問いは、紛れもなくその人のものであると感じさせて。
「本当に、九螢なの?」
 九螢は、人を小馬鹿にするように唇をつり上げた。
「なら、お前には俺が誰に見える」
「……九螢にしか、見えない」
 答えた満月を、九螢は満足そうに眺めて小さく笑った。
 思わず笑い返しそうになって、満月は慌てて立ち上がり九螢に詰め寄った。
「な、ななな! 何でこんな所に九螢が居るの?」
「迎えに来た」
「はい?」
「だから、迎えに来た」
 満月の思考はしばらくの間、完全に停止した。


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